コンテンツの絶対量が増えた現代で求められる「しつこさ」について。
インターネットの一般家庭への普及、更にPC、スマートフォンといった機器の普及によって、今やインターネットの間口は爆発的に広がり、かつての「濃い知識を持つ、一部の専門家やマニアだけが発信する空間」といった性質は遂に消滅するに至りました。もはや、国民全員が利用する「公共の広場」へと変貌を遂げたと言える状況です。
現在目を通していただいている私のnote記事も含め、インターネット全域は全くの素人による発信、または内容の質を二の次三の次としたビジネス本位での発信で溢れ返り、何か一つの物事について深く調べる際には、かつての数倍の労力を要するようになってしまいました。私が初めてPCを手に入れて、自由にインターネットに触れられるようになったのは、たしか十数年前の高校生時代でした。その頃には既にインターネットが一般化していたに違いありませんが、やはりスマートフォンの普及によって一般層が一気に流れ込み、それ以降は年々ネット全体の情報量が激増していってことを記憶しています。
現代風に「YouTubeのコメント欄」などで例えてみますと、かつては動画一本に対して内容の深いコメントが一つ発見できていたとして、その他の薄いコメントや、無意味な罵倒、揚げ足取りなどはせいぜい合計で四つくらいなもので、つまり「五分の一の確率で有益なコメントを発見出来ていた」わけです。それが今では一般層の流入によって、特に意味のないコメントが激増し、有益なものを発見できる確率は30分の1、いや100分の1程にまで厳しくなっているのを体感しています。あとは単純な「記事検索」にしてみても、私が高校生だった頃は検索を掛けてヒットした結果を2つも開けばそこそこ深い見地が得られたものですが、今では10個開いてみてようやく一つ有用かも知れない…といった域にまで活用が難しくなってしまっています。
圧倒的に"スカ"が増えたのです。
率直に、ネット以外にしてみてもこのような「コンテンツ量の爆増」が起きており、もはや社会全体規模でそうなのではないかと感じられている次第です。そうあれば、何か自分が望むものを探すうえで、昔よりも遥かに無数の"スカ"が邪魔者として立ち塞がってくるわけで、きちんと求めるものを得ようとするならば、何度"スカ"を引いても諦めない、ある種の狂気的なしつこさが重要になってくるように思います。最近の私でも「検索結果を20件総当たりして、ようやく一つ求めていたものが出てくる」ことなんてザラなので、これはやはり相当にしつこい人間でないと成り立たないだろうなと、自分よりも若い子達の苦労が憂われます。
私は現在ひきこもりに陥ってしまっている都合上、他者と関われる場は主にインターネット空間くらいなものですが、そこでの「友人探し」という場合に於いてもやはり相当のしつこさが不可欠になってきます。10件当たって全てハズレ(双方にとって)は当たり前で、100件当たって駄目なことも珍しくありません。同様に友人探しに励む同志たちの諦観の声を聞くこともしょっちゅうで、そういう時は「今の世の中そんなものだ」「それでも何処かに合う人は居る」と励ましたり、逆に励ましてもらったりしています。"狂気的なしつこさ"を欠いた一般人がネットで気の合う友人を見付けられる時代は、もうとっくの昔に終焉を遂げたのかも知れません。
ともかくそういうわけで、今日の世の中といえばあっちもこっちも物ばかりでごった返した様相でありますから、妥協せずに何かを見付けようとした場合、ある種"狂ったようなしつこさ"が要されてくる……というお話でした。これをきっかけに「物を見分ける能力が覚醒する」なんて、若年層らの中で適応進化が起きてくれれば良いなと浪漫じみたことを思ったりもします。
一説によると、コンテンツ過多に達した社会はある時から行き詰まり、大衆の関心はそれら細々した娯楽ではなく、世の真理や本質の探究といった普遍的で高格の次元へ向かい、むしろそちらの大衆感覚が主流になる……とも言われています。すると、即物的で小賢しいやり方が崇められるような現代よりも遥かに民度が上がり、生き易くなるのではないでしょうか? そうなるまでは、今を生きている私たちは狂気的な"しつこさ"を発揮し、「もうそろそろ諦めたら?」という甘い悪魔の囁きに惑わされず、もはや何かの熱烈な狂信者の如く"しつこさ"を以て、生き抜いていかなければならないようです。
物を探すにしても、人を探すにしても、私は引き続き狂気的なまでにしつこくやっていこうと思います。
このボタンから所謂"投げ銭"が行えるようです。物好きな方にオススメしておきます(笑)