継続する映画評

購読している映画雑誌「キネマ旬報」の2024年12月号に、映画評論家の渡辺武信さんの追悼記事が掲載されていた。

そこで、2023年8月号に寄せられた渡辺さんの言葉が記載されている。「SNSでの一般の人による“映画レビュー”を読みますか。また、どう思っていますか」という質問への回答である。

読まないわけではないが、知らない筆者の継続的批評基準が解らないので、ほぼ無視している。

端的かつ鋭い視点である。

つまり渡辺さんは、一般人がつくる映画レビューに価値を感じていないわけではない。ただ、SNSやWebサイトにおける映画レビューの多くは、「単発」なものであり、書き手の思考の跡やパーソナリティが窺い知れない文字情報に留まっているという指摘であろう。

確かに、ときどきnoteなどで読む映画レビューは、感心するものも少なくない。ただ、そのときは感心するのだが、長く記憶に留まることは、ほとんどない。

それよりも、「キネマ旬報」で掲載されている15人の選者による「REVIEW」コンテンツの方が記憶に残りやすい。250文字に満たない文章量であるにもかかわらず、だ。

それはなぜかというと、渡辺さんが記すように、「継続して」書かれている映画評だからだ。それぞれの人物のパーソナリティは分からないものの、「ああ、この人はこういう価値観でものを書いているな」という基準(あるいは参照点)がつくられることによって、平面的でない、立体的な映画評としての解釈ができるのだ。

考えてみれば、映画のつくり手に対しても同じことがいえる。

是枝裕和監督の「怪物」は、「怪物」という作品だけで、作品を語るのは十分でない。(語ってもいいし、作品単体で語ることは、それはそれで誠実な態度であろうとは思う)

出世作となった「誰も知らない」や、パルム・ドールを獲得した「万引き家族」。さらには1998年製作の「ワンダフルライフ」など、過去作品との共通点や違いを比較することによって、「怪物」という作品は、幾重にも解釈が折り重なっていく。

継続は力なり、といった単純な話ではない。(いや、継続は力である。それは真なり)

継続という動的な把握を通じてでしか見極められない「何か」が確実に存在するのだ。そのために私は、継続する映画評に触れていたいと思うし、また映画メディアosanaiの運営を通じて、信頼する書き手の皆さんとともに継続する映画評を紡いでいきたいと思っている。

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堀聡太
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