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無力さを感じることの意味(映画「浅田家!」)

久しぶりに映画を観ながら、涙を流した。

確かに僕はそれなりに涙もろい性格なので、いわゆる「泣かせる」シーンがあれば高確率で泣いてしまう。そうではあるのだけど。

でも映画を観ながら「ああ、僕、泣いているな」という、不思議な実感があった。メタ的に客観的に自分のことを捉えているわけではない。納得感を持って心が躍動するような気持ち良さ。

そんな映画「浅田家!」、作品の素晴らしさについて僕は太鼓判を押す。

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映画の感想としてはややズレているかもしれないが、ほんの少し感じた「無力さ」についてnoteに残そうと思う。

そのシーンは2箇所あった。

主人公・浅田政志が、
・自作の写真集を出版社に持ち込んだとき
・東日本大震災の後で、父親を亡くした少女に「家族写真を撮って」と頼まれたとき

前者が個人で完結した重みである一方、後者は個人を超越した共同体全体における重みなので、並列の「無力さ」として括ることはできない。

映画では、いずれのシーンでも政志が発想を転換し、他者に価値を届けることに成功している。詳しくは本編に譲るが、その価値の大きさは違えど、「0より大きい」力に変わったのは間違いない。

加えて共通点を抽出すると、政志がしっかりと無力さに悩み、向き合ったことがポイントだったように思う。フラフラと指針を見失い、何をすべきか自暴自棄になることもあった。それでも時間をかけて写真に「戻って」きた。

悩み、自分に向き合う時間は必要だった

それは、コロナ禍の現在に共振する部分も大きいのではないだろうか。

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無力さを感じること
無力であること

似ているけれど、実際には異なるものだ。

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先週、息子が生まれた。

約3年ぶりの新生児を前にして、やはり感じるのは無力さだった。

通院は殆ど同席できなかったし、つわりで苦しむ妻の体調変化を見守ることしかできなかった。コロナ禍の影響で妻の出産に立ち会うこともできなかった。「生まれたよ!」という連絡はとても嬉しかったし、LINE電話越しに妻と息子の顔を見れたときは心底安心することができた。だけど心にずんと沈み込むような無力さは拭えなかった。

この文章を書いている今、息子は僕の隣で眠り、妻は別室で休んでいる。今、息子に何か異常が発生したら、守れるのは自分だ。何らかのものさし(社会価値のようなもの?)からすれば絶対的に非力かもしれない僕は、家族という小さな共同体においては相対的に力を持っている。今は、決して無力ではない。

しかし息子が成長し、何らかの岐路に立ったときに息子と意見が対立するかもしれない。例えばそれが進路選択や職業選択のときだったとする。頭では「息子の人生は、息子が決めるものだ」と分かっていても、老年の自分は心から納得することができるだろうか。そんなときに感じるのは父親として、先輩社会人としての無力さかもしれない。

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無力さを感じるのは、悪いことではない。

無力さを感じ、身動きが取れなくなったとしても、その時間が必要だったと思える日が来る。

やや楽観的な考え方かもしれない。政志には写真家としての才能があっただけだろうと一笑に付されるかもしれない。

だけど僕は思うのだけど、この不確実性の高い時代に、どれくらい自分の「力点」を正確に測れるだろうか。小学校理科のように、同一直線上に適切な「力点」を探り当てるような単純なものではないはずだ。試行錯誤して、失敗して、赤っ恥をかいて、赤っ恥をかくことを恐れて、何もできないでいて、思考停止になって……それくらいの自由があっても良いはずだ

必要以上に無力を恥じず、未来に向けて歩んでいけば良い。

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堀聡太
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