偽の等価性
2021年12月10日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム 耕論」のテーマは「論破すればよし?」だった。
相手を言い負かす「論破」という言葉が、ネットや現実の社会で広がっています。議論に勝敗がつけられ、勝った方を「正しい」と思う風潮が、社会にもたらすものとは?
(2021年12月10日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム 耕論」より引用)
元衆議院議員の辻元清美さん、脚本家の水橋文美江さん、社会学者の倉橋耕平さんが自説を述べている。
TBSラジオ「アシタノカレッジ」で武田砂鉄さんも言及されていたが、倉橋さんの「偽の等価性」という言葉が、僕の印象にも残った。
倉橋さんはSNSでしばしば散見されるようになった「論破」のカルチャーは、1980年末から始まった討論系のテレビ番組に端緒があるという。専門家ではないコメンテーターの発言が、専門家をたじろがせるのを視聴者が「面白がり」、同様の番組やディベートや説得を重視した自己啓発本がブームになったそうだ。
その中で「歴史修正」に関する議論について、倉橋さんは懸念を表明している。一部引用する。
そもそも歴史とは、史料をもとに専門家が論じるものです。ところが、ディベートの土俵にのると、研究者が歯牙にもかけない歴史観が、対抗する言説であるかのように格上げされます。長年かけて培われた先行研究の蓄積がゼロにされてしまうのです。(中略)
歴史の探究では、史料から分かることの限界や二項対立にはならないことがある。それなのに、歴史修正主義者が議論を単純化するのは、歴史の探究が主目的ではないからです。「日本に不都合な歴史を認めない」という目的のために論じているのです。
(2021年12月10日の朝日新聞「オピニオン&フォーラム 耕論」より引用)
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同じ土俵で戦わない、という言葉は、ある意味で「戦えない」ということでもある。
横綱は、基本的に幕尻(前頭15〜16枚目くらいの力士)とは戦わない。まして十両や幕下以下の力士と真剣勝負することはできない。実力差がハッキリしており、まともにぶつかると命を落としかねないからだ。
倉橋さんが指摘するのは、人間は「○○ vs ▲▲」という構図ができたら、それを無条件に受け入れてしまうということだ。対立構造は分かりやすく、エンタメとして脳内で図式化しやすいからだ。
メディアによっては、そういった対立構造に疑いの余地を挟まずに、それなりの影響力がありさえすれば同じ土俵にあげてしまう。それはとても危険なことのように思う。
ジャーナリストの神戸さんは以下のようにツイートしている。
「中立報道」という言葉はいっけん公平なように見えるが、何の批判性もなく無条件に同じ土俵にあげてしまえば、受け手の倫理観を崩壊させかねない。
悪意があろうとなかろうと、人間の「信じやすい」特性に訴えかけて対立構造を煽る言説を、決して受け入れることはできない。
偽の等価性という言葉、ちゃんと憶えておきたいと思う。
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