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インターネットとパンデミック

たまたま目にした記事の雑感を。

新型コロナウイルスの感染拡大によって、社会環境や生活が大きく変化するなか、「インターネットを開発したり、社会に広げたりすることに長く携わってきた立場としては、ぎりぎり間に合ったな、という感覚が、正直なところである」とし、「もしインターネットが人々の生活に届くことが間に合っていなかったら、どうなっていたのだろうか。考えることができない状況になっていたのではないだろうか。気がついてみれば、インターネットやデジタルテクノロジーが、社会や生活のなかに浸透していた。それを利用して、グローバルパンデミックの時代に立ち向かえたことを、世界中の人たちが感じたことだろう」
(INTERNET Watch「村井純教授が基調講演「インターネットでグローバルパンデミックに立ち向かえた」CEATEC 2020で」より引用、太字は私)

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インターネット業界で仕事をしてきたこともあり、一般の人よりも、インターネットによるサービスを多く利用してきた。インターネット「でない」サービスに比べて、正確性、スピード、利便性など、多くの面で恩恵を受けることが多い。

実際のところ、今、インターネットを取り上げられたら、かなりの不便さを感じることだろう。

だが一方で、インターネットがないことで「グローバルパンデミックに立ち向かえないか」といったら、そんなことはないと僕は思う。むしろインターネットの負の側面が、グローバルパンデミックを加速させた要因にもなったのではないだろうか。

村井純さんの発言の揚げ足を取るつもりもないし、記事で書かれている内容はもっともだと思う。ただちょっとだけ楽観的なシナリオを描き過ぎているのではないか。

スマホを持たずに町に出ると、行きつけのパン屋さんは変わらずに店を開いてくれている。電子決済系のツールは一切使えないが、お客さんは文句も言わずに、財布から小銭を取り出して、商品を受け取る。射幸心を煽るような販促は全くないけれど、「いつもの味」を求めて、お客さんはせっせと足を運ぶのだ。

確かに、そんなローカルでアナログなパン屋さんを頼らなくても、スマホで何クリックか操作すれば1時間後には美味しいご飯を届けてくれる。コロナ禍の影響を受けて、村井さんの言う「おうち完結生活」を完全に実践している人も、知り合いにいる。業種や職種によっては、完全にリモートで済んでしまうことも多い。2000年代には考えられなかった「進歩」だ。

だけど、失ったものも多い。

退職した会社でいうと、「ありがとう」を言われる機会はめちゃくちゃ減ってしまった。いやこれは前職の批判でないし正確な表現ではない。実際に「ありがとう」のリアクションは毎日のようにあった。ChatworkやSlackで何かしらのアクションをしたあとに「ありがとうございます!」とテキストでリアクションがあったり、スタンプで謝意を表現されたりする。それは間違いなく、感謝のリアクションであり、その人たちが悪いわけでは決してない。

だけど、音声による / 対面での「ありがとう」がなくなったことで、何かを失ったような気がするのだ。伝わるとか伝わらないとかの話ではなく、「ありがとう」の持つ意味がインスタント化して、当たり前になってしまったような感覚だ。(有名な話だが、ありがとう=有難うであり、その対義語は当たり前だ)

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補足すると、別に僕は、アフターコロナでは以前と変わらず満員電車に乗ってオフィスに通勤するのを推奨したいわけではない。

僕は今月から会社経営をしていく立場になるわけだが、毎月重くのしかかる固定費を払い続ける気概は、しばらくは持てないだろう。(いくら創造的な仕事は、オフィスで顔を突き合わせることが大事であったとしてもだ)

人にとって大事なことは仕事だけではない。

もちろん仕事において大義を見出せて、そこに向かって真っ直ぐに臨める人はとても幸せだと思うし、そういったスタンスを否定はしない。だけど、仕事にコミットしない時間で、ゆっくりと漫画を読んだり、お菓子を食べながらNetflixを観たり、気の合う仲間同士で上司の悪口を言い合ったり。そういう「意味のない(と思われる)」時間を過ごすこともめちゃくちゃ重要だと思うのだ。

だいぶ話がズレてしまった。インターネットとは本来、冗長性を許容するシステムだった。しかし、インターネットの商業化が進んでいくにつれて、あらゆることが効率化し、短い時間で最大効果を生み出すことが「正しい」とされるようになって、サボりやズルさが認められなくなってきているような気がしてならない。

リモートワークは一見自由さがあるかもしれないけれど、私生活まで監視されているような感覚を持つ人は少なくないはず。

かつては手帳の中に会社の情報が詰まっており、手帳を閉じれば、私生活に没頭することができた。ノートPCもギリギリ、ラップトップを閉じれば私生活まで仕事が侵入することはなかった。

だけどスマホは、そうはいかない。年がら年中通知が飛ぶし、朝起きたら、すぐにその日の予定がメンションで目に入ってくる。(通知設定の問題という話ではなく、アクセスのしやすさというか、そういうデザインのデバイスであるということの弊害だ)

スマホは意識的に遠ざければ良いけれど、スマートウォッチなどのウェアラブルデバイスは、身体に括り付けられている道具だ。それこそ自由が制限され、仕事に縛られる状態に進んでなろうとするから不思議だし、そういった価値観も「えらいね」とされている状態はちょっと異常かもしれない。

なんて。

もしインターネットが普及していなかったとき(例えば2005年くらいのとき)に、今回と同様の感染レベルのあるウィルスが出てきたらどうなっていただろうか。確かに今よりも、経済が「止まる」可能性はあっただろう。だけど、ウィルスに対する恐怖心や、政治に対する不信度は変わっていたかもしれない。(どっちが良いかとかではなく)

インターネットがもたらしたのは、これまでと比較にならないほどの情報洪水だ。情報リテラシーの多寡によって正しく判断できる人は稀で、僕を含む99.99%の人は何らかのバイアスによって情報収受をするだろう。

解釈は無限に広がり、良い悪いの判断もくっきり二極化、対立構造が生まれ、全体的にカオスになる。インターネットが悪いわけではないが、インターネットがもたらす負の側面であり、そこをないがしろにして「インターネットでグローバルパンデミックに立ち向かえた」は楽観的ではないかと思うのだ。

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推敲もせず、当たり前っぽいことを長々書いただけのnoteになりました。

今週は思考が全くまとまらずに、苦しさが漏れまくっている僕です。読みづらくてごめんなさい。

こういうことを、カジュアルに話せる場が欲しいな。フィジカルが当たり前だった時代はこういう話もランチや飲み会のときにできたわけで。考えていることにバイアスがあり過ぎたら良い感じに補正されていたけれど、今は補正される場がないので、あらぬ方向に尖っていくことも多いような気がします。知性って、大事。

記事をお読みいただき、ありがとうございます。 サポートいただくのも嬉しいですが、noteを感想付きでシェアいただけるのも感激してしまいます。