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最も幸せなシーンは、最も不幸せなシーンにもなる(映画「花束みたいな恋をした」)

色んな方々が絶賛している映画「花束みたいな恋をした」を観た。

36歳の僕にとって、20代前半である主人公の麦(菅田将暉さん)と絹(有村架純さん)はひとまわり下の存在だ。彼らの価値観と僕のそれは明確に異なるし、世代を反映したカルチャーのディテールまでは深く肯けない。

だけど、脚本を手掛ける坂元裕二さんのオリジナルストーリーは見事としか言いようがない。親しくしていたパン屋さんが閉店した際の、麦、絹それぞれのリアクションの違いは僕たちの日常にも溢れている。彼らの生活と僕らの日常は相似的な関係にあって、フィクションにしては無遠慮にインサイトを抉り取る。

作品は、20代の若者による青春群像劇だが、恋愛模様の描き方は“大人的”でもある。ほろりと涙してしまうのは、過去の自らの恋愛に重ねてしまう個人的な事情なだけではない。残酷なまでに社会に呑まれていく恋(と当事者である個人)の脆さ、儚さに既視感を抱くからだ。

気付けば2時間あまり、二人が「別れ」に至るまでの一挙手一投足を真剣に追い掛けていた。

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考えてみれば「恋愛」は、物心をついたときから抱く(抱かざるを得ない)感情の一つだ。

叶う恋もあれば、叶わない恋もある。誰もが羨む爽やかな恋愛もあれば、どうして?と首を傾げる複雑な恋愛情事もある。

年齢やライフフェーズによって、恋愛は現在進行形だったり、過去の在り方だったりと存在様式を変えてみせる。それでも、いつだって何かしら共感を寄せられるのは、恋愛という作為に許された普遍性ゆえだろう。

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映画の内容について(あまりネタバレのないように)。

この映画は、「主人公の二人が「花束みたいな恋をした」後で、別れを選択する」ことが事前に分かっている。

予告編からも、過去形のタイトルからも別れは予感できる。つまり物語の結末が分かっている上で、「どうして二人は別れるのだろう?」ということを考え、感じ、理解していく作品だ。

花束は美しい。でもいつか枯れてしまう。

タイトルに込められた意味は想像するしかないのだけど(たぶんオフィシャルな見解は示されていないはず)、本作で描かれた「5年間という一瞬」の輝きはまさに花束の象徴だろう。そして、最終的に別れを選んだとしても二人が付き合った時間そのものは祝福に値するという、制作者の想い、意図が込められているのではないかと僕は推測する。

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物語で大切なのは、主人公のキャラクターだ。

「花束みたいな恋をした」で男女の共通点は、カルチャーへの理解があること。

麦は大学生として友達と付き合いつつも、自分の趣味が(サブカルに近い)カルチャーに傾倒していることはあまり公言していなかった。絹も同様で、自らの趣味を広く公言し積極的に友人関係へと転化していく器用さは持ち合わせていなかった。

そんな二人が「たまたま終電を逃す」ことで、出会ってしまう。

20代に見聞きした文学、音楽、映画、演劇、アートは、その人の人生観に大きな影響を与えるもの。個人的には、それと同じくらい大切なのは、それらの作品を「どのように」見聞きしたかということだと思っている。

イラストレーターとしてある程度つくれる資質を有する麦と、カルチャーが持つ価値を100%受け手として享受する絹。同じようなモノ・コトが好きだとは言え、作品への鑑賞態度は、作り手と受け手という立場の違いにより微妙に違っていた。だから正社員と働くようになり、イラストを描かなくなった麦にとって、カルチャーの価値は急速に減退していったのかもしれない。(もちろん性別や性格の違いというのもあるかもしれないが)

僕は男性なので、どうしても麦に感情移入することが多かった。

・好きなことを仕事にすることの困難さ
・生計的に自立するための葛藤
・就職し労働に没頭してしまう感覚(ネガティブだけでなく夢中になることもある)
・ビジネスに価値観に染まることで、カルチャーに対して急速に関心を失ってしまうこと
・ライフステージが変わることへの緊張感

どれも見覚えのある感覚、ただ普通に生きることは大変なのだ。(なんでだろう)

部屋の窓から多摩川が見えた日常。見晴らしの良さに歓喜していたはずなのに、だんだん「有り難さ」が失われて「当たり前」になっていく。

二人にとって多摩川に該当するものは、誰にとっても何かしら存在するはずで。それもまた花束的なのかもしれない。

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敢えてワンシーンを挙げるとすれば、清原伽耶さんと細田佳央太さんが出てくるところ。本当に美しいシーンだったけれど、残酷なシーンでもある。noteのタイトルの通り「最も幸せなシーンは、最も不幸せなシーンにもなる」ということ。

人生の難しさ、なんて言うとあまりに解像度が低いけれど、どうにかこうにか「幸せ」の方を多めに掬い取りたいのが誰しも本音だろう。

救いは、麦がカルチャーの価値を再度見出すことができたことだ。

失恋は最も不幸かもしれないが、幸せを作るきっかけにもなる。「はじまりにはおわりがある」のと同じように「おわりにははじまりがある」。

花瓶に挿した花束が、また新たな彩りを添えたとき。

麦と絹はもう一度、花束みたいな恋をするのだろう。そう願って止まないし、それはブーメランのように僕たちにも却ってくる。

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