社長の器とは何か?

ときどき耳にする「あいつは社長の器じゃない」「企業は、経営者の器以上に成長しない」という言葉。

でも、そのたびに、そもそも社長の器とは何だろう?という問いが頭をもたげてくる。厳密にいえば、社長=代表取締役というわけではないし、経営者はCEOだけを指すわけでもない。

器だって、大きければ大きい方が良いのだろうか。

僕は、地元・栃木県でつくられた益子焼の茶碗を使ってご飯を食べている。その茶碗はそれほど大きいわけではないけれど、僕にはぴったりだ。触り心地も良くて気に入っている。これ以上大きい器だったら、僕はお腹を壊してしまうだろう。

株式会社という形態をとった商取引をする以上、株主の存在を無視することはできない。もちろん「会社は株主のもの」なんて時代錯誤も甚だしいけれど、とはいえ、会社の意思決定の大部分は株主が握っているといっても過言ではない。経営陣が株式を有していなければ、資本政策をはじめ、ステークホルダー向けの説明責任を果たすために多くの時間が割かれてしまうだろう。そうでなければ、年に一度開催が義務付けられている株主総会にて、経営陣の解任決議が図られることになるだろう。

さて、話を戻そう。

そもそも経営者(本noteでは、便宜的に「経営者」で統一する)は万能な人間ではない。もちろん人格的に優れているに越したことはないし、ヒト・モノ・カネ全てに精通するMBAホルダーのような人間であったらそれはそれで高い能力を有しているとみなされるだろう。

でも、それが「経営者の器」としての必須能力だとするならば、起業人口は激減してしまうだろう。むしろ「〜〜という能力が致命的に欠けている。しかし、〜〜という能力は突出している」といったタイプがいた方が、ユニークな会社が生まれるのではないだろうか。

経営者に限る話ではないが、会社のフェーズによって求められる人材は変わる。「0→1」に夢中になる人がいれば、「1→10」に楽しさを見出す人もいる。「100→1000」に拡大するのが得意な人もいるだろう。

例えばサイバーエージェントの藤田晋さんは、そのどれもを実現した稀有な経営者だが、全ての経営者がそうなれるわけではないし、なるべきでもないと僕は思っている。実際、海外ではシリアルアントレプレナー(連続起業家)の存在は広く知られ、一定の規模まで事業を育てたら売却し、次の事業の芽を育てていくという経営者が少なくない。

以前「ふつうごと」で、GOZEN代表 布田尚大さんに取材をしたときに、「経営は得意じゃない」と公言していたハヤカワ五味さんのエピソードを語っていただいた。

といったことを踏まえると、社長の器とは、必ずしも「大きい」だけでなくても良いような気がしてならない。もちろん「私利私欲がない」とか、「他者を信頼できる」とか、共通して求められる素質のようなものはあるだろう。

「細部まで徹底的にオペレーションを詰めることができる」とか、「話すのは苦手だが、短期間でMVP開発ができる」とか、「ビジネスのことは分からないけれど知名度があり、企業の広告等として機能できる」とか、そのどれも、フェーズによっては十分、経営者に値する器なのではないだろうか。

だから一概に「あの人は社長の器じゃない」と断罪するのでなく、「今は品行方正な姿勢を示すために、ステークホルダー全方位に誠実なコミュニケーションをとれる人が必要だ。だから〜〜でなく、〜〜の方が経営者として相応しいのではないか」といった論理で、内部の判断なり、メディアからの批評なりが発生した方が、明らかに健全だろう。

オリンピック100メートル走の日本代表選手は、「100メートル走のタイムが速い」ことが絶対的な判断基準だろう。10秒5で走れる人よりは、10秒0で走れる人の方が良いし、9秒9で走れたら尚良い。単一の「ものさし」で良し悪しが判断しやすい。

経営者の器という基準は、極めて曖昧だ。器の大きさを絶対視すれば、それはつまり「良い人」でなければ社長は務まらないという価値観で染まってしまう。

「社長の器」に関する報道や批判を目にするたび、「僕自身は、株式会社TOITOITOの今の経営課題を解決するための『器』を有しているか」をいつも自問自答する。もうちょっとエッジを効かせた方が良いんじゃないかとか、色々なことを考えるけれど、持っているもので勝負する他ないのが現実だ。

器は「ある」ものでなく、「つくる」ものでもある。

僕は、僕自身の器を「つくる」ことにこだわっていきたい。

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ほりそう / 堀 聡太
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