かたつむりを踏んだ。

雨上がりの朝。

息子たちは小学校、保育園にそれぞれ登校(登園)し、私も軽いジョギングのため外に出た。

東京を離れてから、川沿いの遊歩道を走るのが気持ちいい。北には山脈が広がり、快晴時には季節ごとの風景がくっきりと映える。イヤホンを耳に装着して、好みのパーソナリティの声を聴きながら、「よし、今日も1日頑張るぞ」と爽やかな気分になれるのは、朝型ジョガーの“特権”であろう。

そんな、いつもとなんら変わらない日常だったはずなのに、私はかたつむりを踏んでしまった。

歩きスマホをしていたわけではない(走っていた)。前を向いていたが、足元の意識が弱かったと思う。ちらっとかたつむりを視認したが、時すでに遅し。足裏に「ぐしゃり」という音、そして感覚がしっかり伝わってきた。

慌てて引き返す。

殻はぐちゃぐちゃになっていて、中にいた、うっすら茶系統のナメクジが顕わになっている。「せめてナメクジは無事であってくれ」という願いも虚しく、手にとった、その小さき生物は命を失っていた。

私がかたつむりを踏んで、殺めてしまったのだった。

考えてみれば、私たちは日々、無数の生物の命を奪っている(直接、そして間接的に)。知らず知らず、アリを踏み潰していることもあるだろうし、夏場には蚊やハエ、黒き甲虫を無慈悲に殺しているだろう。

私も引っ越した際、部屋の中にシロアリが湧いていたので、殺虫剤をまいて彼らを追い出した。彼らにとっては“虐殺”といって差し支えなかろう。

今朝食べたシチューには鶏肉が入っている。息子のお弁当には卵焼きを入れた。挙げればキリがないほど、私たちは生物の命のうえに成り立っているということが分かる。

そういった“きれいごと”を抜きにして、本来、死ぬはずのなかったかたつむりを踏んだことに、私はショックを受けている。

「早いこと、仕事をしたまえ」と、声が聞こえる。でも、もうちょっとだけ、その声を無視して、「ああ、やってしまった……」と沈痛した思いに耽りたい。もはや取り返しがつかないことだけれども。

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ほりそう / 堀 聡太
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