曖昧と冗長
良い文章を書く。
それを実現するために、試行錯誤を繰り返している。
もっとリラックスして文章を書けたなら、どれほど楽だろう。書いては消して、消しては書く。ほとんどの人は、そんな葛藤の末に記された「一言一句」に気付くことはない。
それでも、少しでも「良い文章」を書きたいと思っている。願わくば完璧なテキストを。自分にとっても、社会にとっても。
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『火花』を「分かりやすい」文章に書き換える
いま、社会では「分かりやすい」文章が求められている。
分かりやすい文章とは何か。
例えば
・1文はなるべく短く
・1つの文章には、1つのメッセージを(一文一意)
・『思います』の使用はなるべく控えましょう
など。冗長な文章を避けるための文章術に関する記事が、巷には溢れている。そのおかげで、コンテンツプラットフォームであるnote上にも、「分かりやすい」文章がかなり増えてきた気がする。
しかしそれは、「分かりやすい」文章が、無尽蔵に再生産されているともいえる。そういった文章はSEOライティングの基本ともされ、「いかにGoogleに評価されるか」という観点でライターには発注がいく。
仮に全ての書き手が、Googleのアルゴリズムに沿った文章を書くならば、どの文章も似通ってしまうだろう。そんな極端なことは起こらないが、あらゆる文章が、特定の書き方に倣ってしまうことの弊害は、間違いなく、ある。
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ここで、又吉直樹さんの出世作『火花』の冒頭部分を紹介したい。
太字にした部分、一文がやたら長いのが分かるだろう。実に原稿用紙半分以上(229字)が、ひとつの文章でびっしりと埋められている。
一文一意の法則に照らし合わせるならば、こんな風に書き換えられそうだ。
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祭りのお囃子は、常軌を逸するほど激しい。僕達の声を正確に聞き取れるのは、マイクを中心に半径一メートルほどだろう。だから僕達は最低でも三秒に一度の間隔で面白いことを言い続けなければならない。そうでないと、ただ「何かを話しているだけ」の二人になってしまう。でも、三秒に一度の間隔で、面白いことは言えない。「面白くない人」と思われてしまうからだ。だから敢えて無謀な勝負はせず、不本意だという表情を浮かべながら持ち時間をやり過ごそうとしていた。
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句点を7つも打てる。こちらの方が「分かりやすい」文章には違いない。
だがこれだと、夏のうだるような暑さは伝わらない。誰も得しない環境で、仕事を理由にだらだら漫才を続ける主人公たち。その倦怠感を、あえて「だらっと」した冗長性の高い文章で書き上げてみる。
「分かりやすい」に楯突いた、なんと挑発的な文章だろうか。
正確さ、わかりやすさ、美しさ
翻って、ジャーナリストは文章のことをどんな風に捉えているのだろうか。
元朝日新聞記者・外岡秀俊さんは、自著『おとなの作文教室』の中で、文章の3つの要素について記している。
端的に、良い文章の条件を示しているし、僕も全面的に同意する。
外岡さんは「もの」によって、どの要素を重んじるかは変わってくるという。
例えば法律の条文であれば「正確さ」、詩であれば「美しさ」が大事になる。前項で挙げた又吉直樹さんの文章も、小説ゆえの「美しさ」があるからこそ高く評価されてきたのだろう。
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どの要素を重んじるか、つまりバランスが大切なわけだが、あえて「わかりやすさ」を無視した文章も存在する。
20世紀を代表する哲学者・ハイデガー『存在と時間』はものすごく難解だ。読書経験が浅いと、読むこと自体がストレスになる。
それでも名著として評価され続けているのは、彼の哲学がある意味で「美しさ」をまとっているからだろう。(いや、読み手によっては「正確さ」「わかりやすさ」もあるかもしれない)
いずれにせよ「正確さ」「わかりやすさ」「美しさ」は、時と場合によって変わるもの。外部に求められる文章のフォーマットに、常に意識的でいたい。
読み手の想像力を、無駄遣いをさせない
曖昧と冗長は、紙一重だ。
何がどう違うのか、聞かれても即答することができない。
それでも僕は編集(この場合は「校閲」という言い方が正確だろう)という作業を通じて、冗長な文章に対して赤入れの提案を行なってきた。
どんな基準で赤入れの提案をしているのか。改めて外岡秀俊さんの原則に沿うのが分かりやすいだろう。
①相手に正確に意味が伝わる。
②相手に誤解を与えない。
③相手に負担をかけない。
④心地よい読後感が残る。
特に、僕は③を大事にしている。
負担とは、読みづらさという点だけに留まらない。「読み手の想像力を、無駄遣いさせてしまう」ことも負担に該当する。
先日公開した、Yoshiyuki Hadaさん(以下「羽田さん」といいます)のエッセイ。
このエッセイは全4本あるうちの最終回なわけだが、ずっと読んでくれた方は、羽田さんが現役の教師であり、経営者であることを認知してくれている。
だが一方で、このエッセイから初めて羽田さんの文章を読んだ、という方も少なくないはずで。「この記事を書いた人」という紹介は、ページ下部に書かれているけれど、そこまで丁寧に読み進めるとは限らない。
なので僕は、「冒頭に、羽田さんが教師であることをさらっと書いてもらえませんか?」と依頼した。校閲前の文章は「僕はカノジョのエピソードを、学校で高校生にもしたことがある」という感じ。これでは、羽田さんの現在地が分かりづらい。
人間は想像力があるから、「あ、もしかして学校関係者なのでは?」と気付いてくれるかもしれないが、そこに想像力を働かせるのは、書き手にとって本意ではないはず。
その辺りを意識できると、読み手本位で文章を書けるようになってくる。だがそもそも、100%読み手本位の文章なんて書けるはずがない。人間は、自分の人生しか生きられないからだ。
そういった意味で、パートナーとしての編集者の意義がある。その役目を果たせない編集者だったとしたら、編集者失格なのだ。(一般的に編集者の権限は大きいので、あえて「失格」という強い言葉を使っています。自戒も込めて)
補足:「書き直す」ことの意義
村上春樹さんは、「編集者から指摘を受けたことは、必ず書き直す」といったことを自著で記している。
修正の仕方は編集者の意図に沿わないこともあるが、そこが文章を読むにあたって「つっかえた」ポイントだからだそうだ。編集者が考える「つっかえた」理由に完全に同意できなくとも、「つっかえた」というのは事実であって。何らかの要因があるはずと考えて、修正を加えていくそうだ。
これは、書き手としての僕も意識していたい。
自分のこだわりを通すことと、相手の指摘を一切受け付けないことは同意ではない。
相手の想像力を、無駄に働かせてしまったかもしれない。その可能性が1%でもあるなら、文章を書き換えた方が良い。村上さんらしいストイックな姿勢だ。
立場は異なれど、僕もそんな姿勢で、文章を書くことに臨みたい。
それは編集者の立場であっても同じこと。書き手の良い文章を、世の中に伝える責任があるのだ。
もちろん価値は伝えたいと思うけれど、何より書き手に恥をかかせるわけにはいかない。
だから、一切の妥協はしたくはない。書き手のクリエイティビティに寄り添いながら、一緒に「良い文章」を考えるパートナーになれたらと思っている。