「不倫」という行為がはらむ暴力性

先の衆議院議員選挙で躍進した国政政党。その代表の「不倫」が報じられた。彼は反省を口にし、「説明しても許してはもらえないでしょうけど、一生かけて謝っていきたい」と述べたそうだ。

この手の報道に、私はこれまで全く興味がなかった。

当事者間で解決すれば済む話だと考えていたからだ。どちらかというと、芸能人などの“この手”のニュースはノイズと見做しており、私のワイドショー不信の根源でもあったように思う。

ただ思うところあって、少しだけ考えを改めるべきではないかと考えるようになった。いわゆる“外野”からの政治家擁護の発言、それを支持する声がそこそこ大きく、「政治家は仕事をしてくれればそれで良い」といった風潮も見られ、それはそれで気持ち悪いなと感じた次第である。

一般論で考えてみる。

おそらく、著名人がパートナーに対して物理的な暴力を振るったとしたら、それがたとえ不起訴になったとしても社会的な制裁が加えられるだろう。上場企業の経営者であれば辞任せざるを得ないだろうし、芸能人も数年単位での活動休止(自他の要請として)を迫られるはずだ。

DVには、そういった目に見える形の暴力もあれば、精神的に負荷をかけるような暴力も存在する。「グチグチと延々嫌味をぶちまける」といった行為が長らく続けば、相手の精神崩壊につながってしまうだろう。

広くDVや暴力を捉えたときに、パートナーに対して大きなショックを与える「不倫」という行為もまた、暴力性の高いものといえるのではないだろうか。

少なくとも、「物理的なDVは一発アウト、でも不倫は当事者で解決すればいいよ」という論調には至らないのではないだろうか。

そう考えると、「不倫」という行為をした人間に対する世間の風当たりは非常に強い。個別事情もあるが、その風当たりは致し方ないといえるかもしれない。

今回の首相指名選挙では、衆議院・参議院それぞれの議員を合わせて39名が、「不倫」という行為をした人物に投票している。「同じ政党だから、そりゃそうだろう」と一部納得はしつつも、その39名は「不倫」という暴力性の高い行為を肯定したと見られてもおかしくないはずだ。

……と、ここまで書いて、私が「不倫」という行為に対してどのようなジャッジメントを持てばいいのか、結論らしきものは持っていない。「不倫は100%NG」と言い切るのも、それはそれで違和感がある。不倫と交通事故は全く異なるものだが、“ある種のメタファーとして通ずることがある”といった考えにも、ほんの少し同調する(そんな余地が確かにある)

社会の価値観というのは、時代によって大きく変わるものだ。

「不倫」という行為を補助線にすることで、人間の寛容度というものを測れるのかもしれないと、ぼんやり思っている。(蛇足だが、「寛容度が高ければ良い」というものでもないと付言しておく)

いいなと思ったら応援しよう!

ほりそう / 堀 聡太
記事をお読みいただき、ありがとうございます。 サポートいただくのも嬉しいですが、noteを感想付きでシェアいただけるのも感激してしまいます。