「連続起業家」と呼ばれるのはこれで最後にしたい 

昨日、プレスリリースにて、40.8億円の資金調達を発表させていただきました。

いま自分は世間では、連続起業家と紹介されることが多いです。

前回、創業した会社を数十億円で売却し、2回目の創業でも70億円も資金調達している。こんなふうに書くと凄い人なんだと思われるかもしれませんが、未だ何も成し遂げていません。

このnoteでは、改めてどういった覚悟で2回目の起業に臨んでいるのか、
起業家としての半生を振り返りながら書いていきたいと思います。


サイバーエージェントの2次面接で落ちる

大学3年生の2005年当時、発売された「渋谷ではたらく社長の告白」というサイバーエージェントの藤田さんが書かれた著書に感化され、就職するなら絶対にベンチャー企業だと決めていました。

京都の大学生だった自分は藤田さんの講演が開催されるというのを聞いて、大阪まで飛んでいき、帰り際に運よく著書にサインまでしてもらいました。

これは是が非でもサイバーエージェントに入社して、自分もインターネットで一旗あげるんだと鼻息荒く、選考に参加するも、グループディスカッション後の2次面接であっさり落選の連絡を受けることになりました。

面接での熱意が空滑りしてたこともあり、失意に暮れる中で、それでもインターネットの会社で働きたいという気持ちは捨てきれませんでした。

関西のインターネットのベンチャーはとても少なく、ほとんど新卒採用もしてませんでした。 そのため東京で開催される「楽天」のインターンシップに応募し、運よく潜り込むことができたのでした。

実は東京には一度も来たことなく、初めての上京が六本木ヒルズの楽天でのインターンでした。

楽天での再びの挫折

名目上はただのインターンシップでしたが、実質は選考も兼ねていました。

参加者が4人1組のチームとなり、最終日に楽天の新規事業をプレゼンするという内容でした。

チームに東大生、東工大生、青学生と自分という4人1組だったこともあり、自然と「プレゼン資料をつくります」「技術的なことを調べます」「プレゼンします」といった役割が決まり「じゃあ堀井くんはなにするの…?」となり、人よりちょっとインターネットに詳しいぐらいの自分が選考で有利に働くような役割はなかったのです。

何の新規サービスにするか考えることが自分の役割となり、当時リリースしたばかりのSNS、「楽天リンクス」と「楽天」の強みを活かして「楽天リンクス」内のコミュニティでユーザー同士で商品を売買できる機能を作り、「モノが売れるSNS」としてリニューアルしますというアイデアを提案しました。

これは自分が大学内のmixiコミュニティで使わなくなった教科書を下級生に売っていたことから思いついたアイデアでした。
プレゼン当日、楽天の役員陣の前でプレゼンし、このアイデアは運良く優勝することができました。

その後、インターン参加者は役員面接から始まることもあり、優勝したプランを力説したものの、そこでもあえなく「不合格」の結果となりました。

地元には帰らない

東京の就活生の実力の高さを目の当たりにし、インターネットで何かしたいという気持ちだけの自分にとって、「インターネットで事業を作る力」はどうすれば身につくんだろうと考えだします。

当時は大学3年生の冬に差し掛かっており、せっかく東京に来たこともあり、インターネット以外のベンチャー企業の選考も受けていました。

そのうちの1社に「ドリームキャリア」という人材ベンチャーがありました。
内定をいただいたものの、やはりネットベンチャーに就職したかったので辞退のご連絡をしたところ「じゃあウチで住み込みで営業インターンとして働いてみない?」という提案をもらいます。

実力不足の自分にとって、願ってもない話だと思い、そこから京都に帰ることはなく、実家から衣類等をダンボールで送ってもらい、住み込みでの営業インターンを始めました。

毎日スーツを着て、出社する

そこからは毎朝、白金高輪のオフィスにスーツを着て出社し、求人媒体(ネットと誌面)に出稿してもらうため、ひたすらテレアポをします。

朝9時半に出社して終電ギリギリまで働き、また次の日も出社して週5日働く。自分と同じようなインターン生も何人かいましたが、何十件も毎日電話をかける日々に、皆キツ過ぎるのか1~2ヶ月で辞めていきました。

最初は「いかにも新卒のテレアポ」という口調が、毎日何十件も掛けると小慣れるようになり、少しずつアポイントが取れ、自分が受注したクライアントが掲載されると、仕事ってこんなに楽しいのかと思えるようになったのもそのタイミングからでした。

新卒での配属はガラケーの事業

人材ベンチャーの仕事もやり甲斐はあったのですが、やはりインターネットで画期的なサービスを作りたいと思い、運よく拾ってもらったECナビ(現CARTA HOLDINGS)に新卒入社します。

当時のECナビはサイバーエージェントの子会社でもあり、インターネットのメディア事業を運営していました。

「インターネットで事業を作る力」を早く身に付けたかった自分は配属希望は「新規事業」でと鼻息荒くお願いしました。

願望が叶い新規事業に配属されたのですが、そこは去年立ち上げたばかりでメンバーが3人だけの「ガラケー」のポイントメディア事業でした。

事業責任者の榊原さん(現サムライインキュベート代表)からも「ガラケーサービスに馴染みのないユーザーのフレッシュな感想が聞きたい、サービスの改善点を10個あげて。」とお願いされるも、サービスを触る中で、これってそもそもどういったユーザーが使ってるんだろうか?というのもイメージできませんでした。

研修後に正式な配属となりましたが、1年間ずっと赤字が続いたこともあり、配属の1ヶ月後に事業は撤退、チームは解散となってしまいます。

そのサービスは少ないながら利用者がいたこともあり、サービスを閉鎖するのではなく、ECナビの「公式モバイルサービス」として運営していく方針に決まります。

じゃあ誰か続けてこのサービスやる?となった際に、自分がたった一人、大所帯のメディア事業にガラケーの担当として異動することになったのでした。

結果が出せずに終わった社会人1年目

異動後にロゴやサービス名を変更し「ECナビモバイル」として再出発を果たしたのですが、サービス内容が大きく変わったわけではないので、急に売上が伸びたり、ユーザー数が増えたりするわけではありません。

ユーザーが増えないことには、サービスが成長しない。PC本体サービスから送客してもらってもユーザーが根付かない。そんな苦しい期間が続くこともあり、毎日、深夜まで働き、やれることは何でもやりました。

150人近い社員の中で、ガラケー事業をメインで従事しているのは自分一人。サービスの意思決定に裁量を与えてもらっているにも関わらず、どうグロースさせればいいか分からない。

サービスを任された立場として、打ち手がないという閉塞感に悩まされる日々がそれから半年ほど続くのでした。

ある日、利用頻度を上げてもらうために「どんな機能があればもっと使いますか?」というアンケートをしたところ、大半が「もっとポイントがもらえるものを増やして欲しい。」という回答でしたが、その中で、「携帯サイトは通信にお金が掛かるのであまり見ません。」というお声をいただくことがありました。

その時から、ガラケーを利用するネットユーザーと、PCでインターネットに触れるユーザーというのは生態系がまるで違うのだということに気付きます。

結果的にガラケーのメディア事業へのチャレンジは1年目を持って終わりを迎えます。
この当時は、サービスの構造転換を果たすこともできず、「事業を作る力」がなんたるかも掴めないまま、閉塞感だけを抱えて、2年目を迎えることになるのでした。

本物の起業家と出会う

2年目には別の新規事業にアサインされることになり、オンライン辞書サービス「みんなの知恵蔵(現コトバンク)」の立ち上げメンバーとして参画します。

2年目に差し掛かる頃、役員に近所の喫茶店に突然呼ばれ、「モバイル辞める気あるか?もっとデカいやつやれ。お前が来るかどうか、返事はこの喫茶店出るまでに決めろ」と言われ、その場で「いきます」と返事をしました。

当時の役員からすると、鼻息は荒いが、結果が出ずに燻ってる1年目がいる。雑用には使えるだろうという気持ちだったのだと思います。

立ち上げは事業責任者の役員の方を除いて、ディレクター、エンジニア、SEOコンサルタント、自分の4人でした。


ここで運命的に自分のサービスづくりの原点となる「師」に出会うことになります。

SEOコンサルタントのSさんはサラリーマン経験がなく、起業して関西でEC事業をやっており、事業が安定したので、共同創業者に会社を任せて、一度はサラリーマンを経験してみたいという物凄く変な理由で入社した方でした。

で?そのサービスなんで使うの?

サービスの立ち上げが進む中で、自分の役割は「辞書のコンテンツを集めてくること」、Sさんの役割はその辞書のwebページを「検索結果に上位表示させること」という役割分担になりました。

毎日、辞書を持っている会社にテレアポしては、神保町に繰り出し、出版社と商談して帰ってくるという日々が続きます。

Sさんからは「とにかくユニークな辞典持ってこい!」と発破をかけられ、「この岩石学辞典という辞書は受注できそうなんですが….。」と借りてきた辞書を差し出します。

「こんな岩石の辞書とか読みたい人いないだろ…。」もっと大衆向けのやつ持ってこいって言われるだろうな…。

と思ってた自分に、「これめっちゃええ。こういう岩の名前とかでも検索するやつって世の中に絶対一人はおんねん。」となぜか褒めていただき、その後も二人三脚で何の辞書を取ってくるべきかという話をしながら事業を進めていきました。

SEOに異常に詳しく、自分のEC事業の会社で既に利益も出しており、いつでも辞めることができる。発想も根本的に起業家であり、まとってる空気が違っていました。

Sさんの口癖は、いつも「それ誰が使うねん?」という常にN1にフォーカスした問いかけでした。

いつしか自分の新規事業の相談相手にもなってくれてましたが、「このサービスはここが差別化でユニークなところで」と力説したとしても「違う違う、お前はまだ分かってない。もう一回聞くぞ、なんでそのユーザー使うねん?」といつもオウム返しのような問いが返ってきます。


自分にはその意味がよくわかりませんでした。


Sさんは続けます。
「お前にだけ、俺が最初に起業した時に何から始めたか教えたるわ。最初な、パチスロ台売っててん。近所の潰れたパチンコ屋からな、型が古くなったパチスロ台を安く買ってくんねん。」


「パ、パチスロ台…?」パチスロをしたことがない自分にとって手触り感が全くなく、パチスロ台なんて、誰が買うんだ…。と思いました。


その思考を先回りするように、「パチスロ台なんか誰が買うねんって思うやろ、おんねん買うやつ。ヤンキーの彼女が彼氏の誕生日にパチスロ台プレゼントすんねん。で、いつも説明するお前の新規事業って誰が使うねん?そいつ、いますぐ連れて来れるけ?

その時、ハンマーに打たれたような衝撃と共に、事業というのはどこか「トレンドに張って一発当てるもの」という認識から、もっとずっと地に足ついたものなんだと思うようになりました。

同期3人でプロダクトを作り始める

2年目を迎えた頃から、今ある事業を伸ばすという形ではなく、ゼロから自分でプロダクトを作るべきだと考えます。
ただし、社内でそんな機会がそうそうあるわけではありません。

そこで同期でデザイナーの@takejune、双子の兄でエンジニアの@yutadayo を誘って週末に何かwebサービスを作ってみないかと持ちかけます。

2人を誘ったのにも理由があり、@takejune は社員研修のペア相手でもあり、いつか将来、デザイナーとして独立したいと話していたのと、@yutadayo はエンジニアとしても駆け出しで、エンジニアリングの腕をこれから磨いていこうとしているタイミングでした。

何よりお互いの役割が被っていないことも魅力の一つでした。

それぞれが毎日、多忙な日々でしたが、共通してインターネットが好きであり、「目の前の仕事」だけでなく、自分の力で何か新しいものを生み出したいという機運が高まっていたのでした。

リリースしても誰も使わない

3人集まっては何を作るか相談しますが、大体は自分が考えた「これを作りたい!」というアイデアベースでの検討でした。

当時はネットサービスは「トレンドに事業を張る」というのが鉄板で、海外で流行っているサービスをタイムマシン的にクローンすればうまくいくのではと思っていました。

そこで海外でリリースされたばかりの「Foursquare」に目をつけます。
特定の場所や店などに赴いてチェックインすることでバッジを獲得できるというゲーム性が特徴のSNSでした。

当時はガラケー事業のこだわりもあり、位置情報と「Google Maps API」を駆使しながら、ガラケーのチェックインサービス「mapu(まぷー)」としてリリースしました。

当時のmapu(まぷー)の開発計画

まずは作ったものを告知しなければ始まりません。社内の同僚にこういうの作ったから試しに使ってみてくれとお願いして回りました。

お世辞にもクオリティが高いものではなく、取得した位置情報から近くのお店を選択して、チェックイン(ポスト)するとポイントがもらえるというシンプルなサービスだったこともあり、最初は「こういうの作ってみたんだけど、ランチの時に使ってみてくれない…。」とお願いすることすら恥ずかしいぐらいでした。

社内で触れ回ったところで、1日目は使ってもらえるものの、翌日には全く使われません。

このサービスは誰ともなしに「違うサービスつくろうか…。」という暗黙の了解を元に終了しました。

次に目をつけたのが「Twitter」でした。Twitter自体は2007年からサービスを開始していましたが、日本で本格的に流行り出したのは2010年頃からです。

当時はまだ先進的な利用ユーザーが多く「渋谷なう」のような自分のステータスを共有し、メンションで友人や第三者と繋がるような使われ方が目立っていました。

そこで「Twitterクライアントで友達と予定を調整できるサービスがあれば便利では?」という着想を元に「eventap(イベンタップ)」をリリースします。これはTwitter上でも告知を頑張ったこともあり、数百人程度が登録をしてくれました。実際にデータベースに予定が登録されていくの眺めては興奮したのを覚えています。

eventapのTOPページ

ただし、このサービスも月に予定が登録されるのは数件のみという状況が続いたこともあり、このままプロダクトを継続しようとはなりませんでした。

自分が提案するサービスを何ヶ月も掛けて作ったのに誰にも使われない。

2人に対する申し訳ない気持ちと、その頃は自分にはサービス作りのセンスがないのかもなと思うようになりました。

事業はタイミング

3年目に挑む過程で、実は役員に直談判の上、念願の新規事業をスタートさせていました。

当時はガラケーにもようやく検索の波が到来し、auのポータルサイト「au one」の検索エンジンにGoogleが採用され、PCでは当たり前だった「リスティング広告」市場が勃興していました。

知見もあったガラケーの勝手サイトに検索エンジンと検索連動型広告/コンテンツ連動型広告を導入し、収益をレベニューシェアするモデルの事業でした。
これは結果的に勝手サイトの大きな収益源となり、掲示板サイトやリアルタイム日記を中心に導入していただくことで新規事業の撤退ラインである粗利3,000万円/月を達成することができました。

また、その1年後に広告を導入していた勝手サイトのPVが徐々にスマホからのアクセスに変わっていくのを目の当たりにし、スマートフォンのアドネットワーク事業、ブースト広告事業に軸足を移すことで、更に事業を伸ばすことに成功しました。

当時を振り返っても、モバイルの検索連動型広告の勃興、勝手サイトのスマホシフトといった、大きなタイミングの変化に沿って事業を展開できたことがターニングポイントだったと思います。

これまで単なる「トレンドに事業を張る」といった漠然とした感覚が、世の中の変化に「タイミングが合うことで勝手に伸びる」という感覚を身をもって体感することができました。

本場サンフランシスコに行く

この頃、社会人も4年目になっており、相変わらず週末プロジェクトは続けていたものの、次にどんなサービスを作るかは答えが出ないままでした。

正直、この状況を打破したいなという気持ちもあり、2人にインターネットの本場でもあるサンフランシスコに行ってみよう。そこで開催されるインターネットの祭典、「TechCrunch Disrupt」に参加してみようと誘います。

ただ参加するだけでは意味がないと、当時、勃興していたコワーキングにも片っ端から飛び込み、スタートアップを訪問しました。

Googleの創業ガレージで撮った写真

現地のスタートアップの熱量を肌で感じながら、ある大きな変化に気付きます。それはモバイルアプリの時代が来るという気づきでした。

当時の日本のインターネット業界の話題はソーシャルゲームが中心であり、Webの世界はガラケーからスマートフォンへのシフトが徐々に始まっている最中でした。

一方でネイティブアプリの世界はまだまだ黎明期であり、大半の日本のアプリは外側はネイティブだけど、中身はブラウザという「ガワアプリ」と呼ばれるものが中心で、ネイティブアプリ主体のヒットサービスはまだありませんでした。

北米もHTML5かネイティブアプリかどちらの技術が本物のトレンドなのかという議論が盛んであり、Facebookでさえ、HTML5を選択したプロダクト開発を進めていました。

その中で現地のスタートアップが作るネイティブアプリをダウンロードして使ってみることで、webでは再現できないインタラクションや使い心地に触れ、スマホの世界はwebアプリではなく、ネイティブアプリの時代になる。という肌感覚を強く感じました。

「帰国して次に作るならモバイルアプリ」という強い気づきを得れたことは大きなターニングポイントになりました。

帰国して、起業を決意する

起業についてはどういう経緯で決まったかははっきり思い出せません。
それぐらい自然に決まったなというのを覚えています。

帰国後、明確に2人を誘ったわけでもなく、同意をお願いしたわけでもなく、 「実はそろそろ起業しようと思ってる」と打ち明けた際に「そうか…じゃあ、やるか…!」のような、それぐらい当たり前のように決まっていました。

内心は2人はどう思うだろうか。一緒にやってくれるかな…。とドキドキしていたことだけが記憶に残っています。

起業する上での事業プランは、早い段階でCtoCのサービスにすることに決めました。 これはもう一つサンフランシスコで「Airbnb」「TaskRabbit」「Zarrly」「GetAround」といったシェアリングエコノミーが勃興していたこと、Craigslistという地元の掲示板サイトをモバイルアプリとして、何かの分野に特化して成長するプロダクトが目立っていたからです。

日本初のフリマアプリをつくる

最初の「フリマアプリ」の原案になったサービスは「Jumvle」というコードネーム(由来は「jumble sale」というフリマを意味する英語)で「近くの人と物の譲り合い(売り買い)できるサービス」がコンセプトでした。

既に3人とも会社を辞める段取りをしており、全員が辞めるまでの5ヶ月間は
毎週水曜日の夜と土日に集まって開発を進めていました。

そんな中、一つの大きな不安が拭い去れませんでした。
それは「またしても誰にも使われなかったらどうしよう」という不安です。

今回は週末プロジェクトではなく、全員が退路を立った状態でした。
自分の中で「お前のサービスって誰か使う?」「そのユーザー連れて来れる?」この言葉がいつしか頭から離れないようになっていました。

今はプロダクトを作る際に「ユーザーインタビュー」をすることは当たり前の行為かも知れませんが、2011年当時はリーンにプロダクトを作るという概念は存在していませんでした。

そこからは不安を払拭するために泥臭い聞き込みが始まりました。

mixiでDMを送りまくっていた

「主婦への子供服のニーズはどうだろうか?」と昭和女子大学の保育所に通ってモックを父母さんたちに見せたり、mixiで服を売ってる女の子にダイレクトメッセージをしたりと、とにかく一次情報集めを繰り返し、実在する人々の、実在する課題を探しまわりました。

結果的にガラケー時代の気づきから「服を売る」という行為を「ブログやSNS」で解決するという不合理な手段に辿り着き、名前を「フリマアプリ」と名付けて、モバイルアプリとしてリリースすることにしたのでした。

プロダクトが使ってもらえる喜び

2012年7月にサービスをリリースしましたが、当時は一軒家で全員が共同生活をしながらプロダクト開発をしていました。

一軒家時代の開発部屋

今でも印象に残っているのは、朝起きて日課にしている会員数の確認をしたところ、いつもは数百人ぐらいの登録なのに、1,000人越えをしている日がありました。何が起きているのかと思ったら、S Cawaii!(エスカワイイ)の有名モデルがFRILで服を売り始めたことをブログで宣伝してくれたことでした。この効果は数日続き、強くサービスの手応えを感じることができました。

一つずつ課題を潰していく日々はとても泥臭かったですが、ユーザーが自分たちのプロダクトを使ってくれることが何より嬉しかったのでした。


また、こんなエピソードもありました。
当時は登録ユーザーも目視が出来たので、女性に安心して使ってもらえるよう、規約に則り、男性が登録してきた場合は手動でBANを実行していたのです。

ある日、登録のデータベースに流れてくるメールアドレスをチェックしていると、とあるメールアドレスが目に止まります。
それは「fujita.susumu」という名前での登録でした。


「これってサイバーの藤田さんじゃね?」


全員が仕事の手を止め、アカウントの確認をします。
当時は既にネットベンチャーの大手も競合サービスをリリースしており、サイバーエージェントも「毎日フリマ」というサービスを展開していました。


「やっぱそうだ、BANしよう!」


おそらく、藤田さんは登録直後でアカウントが制限されたので、体験がとても悪いプロダクトだと思ったでしょう。

今となってはあり得ない行為をしたと思いますが、その当時のことを藤田さんがブログに「感心した話」として書いてくれています。

それではなぜそのサービスを運営する起業家に感心したかというと、
何より、日々多数入ってくるユーザーのログを見ていたことがすごい。

そして、その中から競合の社長を見つけて即ブロックするという、ネットサービスはそんな執着した人間がいるかどうかが、決定的な違いになるからです。

大企業が起業家の小さいベンチャーに負けるのはそんな時だと思います。 我々のサービスは随所に覇気が感じられ、気持ちの入った運用で、社員が強い当事者意識を持っていると自負しています。

でも、この起業家はその上を行っている可能性があります。 我々も負けないように頑張ろうと思いました。

渋谷で働く社長のアメブロ「感心した話」一部抜粋

ご本人は全く覚えてはいないと思いますが、あの時、サインをしてもらった何者でもなかった自分がほんの少しだけ藤田さんに近づけたのではないかと思えたのでした。

会社を売る

2011年から5年間、プロダクトを作り続けてきましたが、大きな転機がありました。それは会社を売却するという意思決定をしたことです。

当時は既にメルカリという連続起業家が率いる遥かに試合巧者のプレイヤーが台頭しており、フリマアプリという市場で窮地に立たされていたのです。

巨額の84億円という資金調達を実施し、話題のタレントを起用したTVCMをガンガン打つ、社内の役員にはネット業界のトッププレイヤーが集結する。
後発での参入でしたが、異次元の伸ばし方にいつの日かGMVは抜かれてしまい、その差は広がるばかりでした。

それでも、このサービスを発明したのは自分たちなんだ…!プロダクトでは負けていない。ユーザーにとって一番良いものを作っていれば勝てるんだと信じてやってきましたが。その思い込みが間違っていたのを思い知らされました。

社員のメンバーにも不安が広がります。FRILの立ち位置は総合的なフリマアプリとしては負けてしまい、どんどん限定的なフリマアプリとしての生き残りしか目指せないところまで追い詰められていました。
既に会社にはそれなりの評価額が付いており、今更、フリマアプリ以外にピボットすることもできません。

逆転できるような機能開発もない、ピボットすることもできない。

この状況を打破するには「大金」が必要です。
資金調達に奔走しましたが、大手のベンチャーキャピタルはメルカリ陣営に投資していたこともあり、FRILに出資してくれるベンチャーキャピタルはありませんでした。

藁にもすがるつもりで、事業会社にも出資をお願いする中で、既にフリマアプリを展開している会社から、出資だけでなく、買収という形で一緒にやろうというお声をもらいます。

このまま独立して事業を継続しても、限定的なフリマアプリで終わってしまう。共同創業者の2人に買収の打診を打ち明けた時のやり取りを今でも覚えています。


「このまま資金調達を続けても、存続は難しいかも知れない」
「今、出資と合わせて買収ならというオファーをもらってる、どう思う?」

2人は揃ってこう答えました。

「お前に任せる。どんな結果になったとしてもその意思決定に最善を尽くす。」


今、振り返ってもサービスを継続するにはこの手しかなかったと思います。

そこから複数社との買収に向けてのデューデリジェンスが始まりましたが、生まれて初めて、眠れない夜の始まりでした。

自分はどちらかというと楽観的で、どんな辛いことでも寝て起きればケロッとしている前向きなタイプだと思っていました。

デューデリジェンスの壮絶な尋問をこなし、夜中にベッドに入る。 日中は忙しくて忘れることができますが、ベッドに入って目を瞑ると、このディールが成立しなければ、会社が潰れてしまう。という不安が頭を支配します。

従業員の生活を守ること。投資家に損をさせないこと。実は個人的にも買い戻した株の借金が2億円ありました。

当時は深夜の2時から近所の世田谷公園に散歩に出かけ、リリースされたばかりのポケモンGoを起動し、出てくるポケモンにただただ無心でボールを投げる。頭を空っぽにして、強制的に体を疲れさせた上で、倒れるように眠るという夜を繰り返していました。

周りからの期待と信頼を損ない、借金を抱えたまま会社が潰れてしまう。
そんなシナリオが勝手に頭の中で想像されてしまい、不安に押しつぶされて、眠ることができなかったのです。

2回目の創業へ。そしてこれから

最終的に会社は楽天グループ入りを果たすことになりました。
買収後の楽天での全社朝会のスピーチで、「10年越しに楽天で働くことになるとは思わなかったよ」という自分の英語スピーチは小さな笑いを誘いました。

当時はこのサービスがどこまで大きくなるのか、自分でもよく分かっていませんでした。今やフリマアプリの取扱高は年間1兆円を超えており、メルカリの時価総額は1,000億円を超えています。

「女の子が服を売る」といった小さな構想から始まったプロダクトが、1兆円を超える市場をつくる。フリマアプリは「個人がモノを売る」という行為を当たり前にした、世の中の価値観を変えた10年に一つのプロダクトだったと思います。

N1から始まる「気づき」から課題を解き、時代の変化と合わさることで、大きく社会を変えるようなプロダクトに成長する。

これまで、何度も失敗し、理解ができなかった「インターネットで事業を作る」というものが初めて輪郭を帯びて自覚できるようになったのでした。

非連続起業家になる

前回の起業では「フリマアプリ」は発明できても、社会を大きく変えるプロダクトにはできませんでした。

今は新しい「気づき」をもとに「お金の課題」を解くべく「B/43(ビーヨンサン)」という事業に取り組んでいます。

冒頭で資金調達の発表をさせていただきましたが、
スマートバンクは今年、前回創業したFablic社の社歴である5年を超えます。

自分は世間では連続起業家と紹介されることがありますが、未だに何も成し得ていません。

インターネットで画期的なサービスを作りたい。 20代前半の頃からその本質は変わることなく、ようやく自分なりの型を見つけ、今なおそれを証明している最中です。

今でもよく思い出すのは「フリマアプリって市場規模どれぐらいですか?」と聞かれたことです。

自分はこの質問は「全く意味がない」と思っています。
今ある顕在化している市場を切り取るのではなく、無消費の課題を解くことで、新しい市場を創造するからです。

思えば、どこまで伸びるか想像もできない事業、どこまで進化するのか定義できないサービス、そういったものを作ることへの憧れと葛藤を繰り返してきた人生だったと思います。

ユーザーが「このサービスを使う前は、一体、どうやって問題解決してたんだろう」そんな過去の手段を思い出せないぐらい、生活を根本から変えるような非連続なプロダクトを生み出す。


連続起業家ではなく非連続起業家として、人々の「習慣を変え」「文化を変え」「社会を変える」プロダクトを創る。


そんなものを死ぬまで、創り続ける人生にしたいと思っています。


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