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人と人とをつなぐコミュニケーション

最近はTsukuba Place Labという”コミュニティスペース”に日々いながら、週に2つほどの”外部イベント”に登壇させていただいています。

その都度、ほとんどの確率で「交流が大切だと思うんです」とか「人と人とが繋がれる場所をつくりたいんです」といった趣旨の話を聞きます。

たくさんの交流が生まれ、人と人とがつながれる場所が増えていったら素敵だなぁ、いいなぁと思いつつも、毎回見定めてしまいます。

その人が「人と人とをつなぐ」ことができるのかどうかを。

僕の大好きな友人の言葉を引用させていただくならば、

"場"なんて作っても、人は繋がらない。”

この言葉に尽きます。


ぼくは日々、クローズドなコミュニケーションとオープンなコミュニケーションという1つの軸において、そのグラデーションを常に意識しながらコミュニティの現場に立っています。

クローズドなコミュニケーションというのは、1対1の会話や特定の人にだけ通じる話題、共通の思想、限られた情報を共有している状態を指しています。

参照) 「ワンチャンは王貞治」JK用語で街頭インタビューしたら大喜利大会になった。


互いに共通する話、いわゆる内輪ネタ、で盛り上がることによる仲間意識の向上。それは互いの人間性の容認であり承認欲求を満たす行為にあたり、一気に仲良くなることができます。

しかし、そこには排他性が前提としてあります。

つまりクローズドなコミュニケーションには仲間意識を醸成させる圧倒的威力とともに、共通言語を認識できない人間に対する排他性を併せ持っています。


対してオープンなコミュニケーションというのは、その”場”における全員で共有できる情報に依拠した会話を指しています。

そこにはある種の安心感があります。それは全員が一致して了解した背景に依拠した会話がなされること、誰もが排除されないことなどから来るものと思います。



「どちらのコミュニケーションが”コミュニティの現場に適しているのか?”」

と質問したときに、

「もちろんオープンなコミュニケーションだ。」

という答えが返ってくると、俄然心配になります。

果たしてそのコミュニティは楽しいのかな、と。



確かにオープンな質問は誰をも敵とせず、”安全な”会話はなされるでしょう。しかし、往々にして発展しない。全員の共通項だけで話を進めることはむしろ窮屈であることが多い。


クローズドなコミュニケーションが最小公倍数を探し出し、拡散していく手法であるならば、オープンなそれは最大公約数を探し出し収束させていく手法ということもできると考えています。



また同時に、コミュニケーションは常に変化し続けるもの。クローズドかオープンかというのもまた刹那的であるとともに、二元論的に存在している絶対的なものなどではなく、グラデーションがあり、常に揺れています。

その”揺れ”を感じ取れる感受性と、拡散と収束に対応できる瞬発力、そしてそのどちらをも行き来できる柔軟性がある人を”コミュニケーション能力が高い”と感じます。


すなわち、常に変化し続ける感情や場の空気を瞬時に感じ取り、一方的でないコミュニケーションをとれなければ、やっぱり”場なんて作っても、人は繋がらない”と思います。


今、つくろうとしている場で、なそうとしているコミュニケーションで本当に人と人とがつながれていますか?

常に問い続けなければハコをつくっただけになることでしょう。

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