【現代お笑い論】#001 誰もがM-1について語る時代に、より深くお笑いを楽しむには? 鈴木亘
※こちらのnoteは鈴木亘さんの不定期連載「現代お笑い論」の第一回です。現代ビジネスに掲載された原稿(https://gendai.media/articles/-/105145)に一部加筆したものです。
誰もがM-1について語る時代に、より深くお笑いを楽しむには?
気鋭の研究者による鮮やかな論点の整理
数あるお笑い賞レースの中でも、M-1グランプリほどに議論を巻き起こすコンテストはない。そして、これほどお笑いについて観客が「語る」機会もないだろう。予選の段階から、本命や注目株の話で盛り上がり、放送中のTwitterは実況で埋め尽くされ、決勝後もネタや審査について侃々諤々の議論が交わされる。
この記事では、M-1をめぐる議論のなかでもよく話題となるポイントを取り上げ、漫才以外の演芸やさらには美術におけるアイディアも借りながら論じてみたい。
なぜここまで語られるのか?2つのポイント
なぜ誰もがM-1についてこれほど語りたくなってしまうのだろうか。M-1を観るとき、視聴者はつい審査員のように漫才を観てしまうものだが、じつは、そこには番組側の誘導がある。本戦前に放送される敗者復活戦では、視聴者が各自の採点を記録できる「採点メモ」機能が提供され、集計結果も放送される。多くの人が、笑いの量やネタの構成、言葉の選び方等について、審査員のように評価を行いながら、漫才を楽しんでいるのだ。
さらにM-1は、ドラマ性や感動を執拗に強調する。M-1にはあって他の演芸番組にはない要素のひとつである。優勝者の涙がクライマックスを形成し、貧乏からの逆転劇が伝説化し、舞台裏の努力と挫折までもがカメラに捉えられる。2022年大会で優勝したウエストランドが決勝のネタのなかで言及した「アナザーストーリー」(決勝の後にM-1参加者を追ったドキュメンタリーが放送されるのだ)がその顕著な例である。
ところでこれらふたつの演出は、互いにバッティングしないだろうか。というのも、漫才を審査員のように観るためには、舞台裏の物語や感動を度外視し、公平に評価することが求められるからだ。それゆえ、漫才を真剣に(もちろん笑いながら)評価したい視聴者にとって、感動路線はあまり心地良いものでない。純粋に漫才だけを楽しみたい、物語や感動は強調しなくてもいい……このように思う人も多いだろう。
作品か、人間性か
純粋に漫才だけを楽しみたい──一見もっともな欲求だ。しかし、ここで立ち止まって考えたいのは、漫才にとって「純粋」とは一体何なのか、ということだ。どこからが「不純」な要素なのだろう。カメラが捉える下積み生活や家族との関係は、M-1の漫才、つまり〈舞台上で行われる4分間のネタのパフォーマンス〉にとって余計に見える。やっぱりうざい。だが舞台の外の情報、いわば演者の人間的な部分は、「純粋に漫才を」楽しむために排除すべきものなのだろうか。というか、排除しきることはできるのだろうか。例えば、2021年大会で50歳と43歳にして優勝したコンビ・錦鯉の漫才は、二人の苦労人ぶりや年齢、「バカキャラ」を演じる長谷川雅紀のパーソナリティーを抜きに観ることはできるのだろうか。
この問題を解きほぐす手がかりを、M-1にゆかりの深い芸人の著作から探ってみよう。参照するのは、落語家の立川談志による『あなたも落語家になれる──現代落語論其二』(1985)だ。彼は現審査員・立川志らくの師匠であり、第2回大会の審査員を務めた。
優れた批評家でもあった談志は同書で、落語家を「作品派」「己派」などのタイプに分類して、それぞれの特徴を論じている。まず作品派とは、高座で自分の素をさらけだすことなく、あくまで落語をひとつの作品として、「フィクション」として演じる落語家である。膨大な古典レパートリーを持ち、それを『圓生百席』としてスタジオ録音に収めた三遊亭圓生(先代圓楽の師匠)がその代表例だ。
一方、己派(注:談志の表記は「己れ派」)とは、作品派とは反対に、マクラや漫談で、あるいは古典落語を演じる場合に、自分自身の姿、思想を「ドキュメント」としてさらけ出す落語家である。
泥酔して高座で眠ってしまった姿すら芸として楽しまれた、古今亭志ん生がその極地にあたる。
作品と人間性のあいだ
先ほどの話に戻れば、作品派が「純粋」で、己派が「不純」であるように見える。M-1の感動路線は、作品ではなく漫才師の己、「ドキュメント」の側面を強く押し出すものと言えそうだからだ。
しかし談志は、作品派を持ち上げて、己派を否定しているわけでは決してなかった。むしろ談志は作品派だけでは落語は滅びてしまうと主張し、マクラで現代社会を論じたり、落語の途中で役柄を離れ、作品批評を差し挟んだりと、自身を己派の落語家として積極的に打ち出していった。
作品派の落語も己派の落語も等しく芸として、ひとつのジャンルのふたつの流儀として捉える談志の議論は、「純粋にお笑いを楽しみたい」という欲求を別のしかたで理解するヒントを与えてくれる。すなわち、演者の人間的部分に由来する笑いも、漫才の純粋な構成要素と考えてみよう、という提案である。純粋/不純ではなく、作品派/己派の軸で漫才を考えるのだ。
例えば錦鯉のように人となりを前面に出す体の漫才は、己派の要素が強いと言える。また、役に入るコント漫才は作品派と相性が良さそうだし、役に入らないしゃべくり漫才は己派と相性が良さそうだ。
もっとも、いっけん作品派のような漫才も、己派の要素がゼロであるわけではない。
2022年大会で4位になった男性ブランコの決勝ネタは、空想の音符を運ぼうとするというものだったが、このネタは、物静かな中にエキセントリックさを湛えた平井のおかしみと、異様な状況を受け入れさせる浦井のなんとも言えない説得力に、つまりは二人の人間的な部分にこそ支えられているのではないか。
以上をふまえれば、サンドウィッチマンの富澤たけしやナイツの塙宣之らM-1審査員がしばしば口にする「人間性」「人間味」の意味も明確になるだろう。それらは単に舞台で己をさらけ出せば良いと言っているのではない。むしろ作品が演者の個性に合い、相乗効果が起きているどうか、つまりは己の部分に作品を上乗せするセンスとテクニックが問われているのである。
さらにぜひとも付け加えたいのは、こうした人間的な要素を捉えるための語彙が、演芸界にはすでに存在しているということだ。ひとつめは、その人にしか備わっていない独特の雰囲気のもたらす、言葉では説明しがたい面白みを指す「フラ」(もっぱら落語で使われる)、ふたつめは、芸をするにあたっての演者の個性を指す「ニン」である(もともと歌舞伎用語で、「このネタは自分のニンに合っている」「そういう演出はあなたのニンには合わない」というように用いられる)。
そして以上をふまえれば、サンドウィッチマン富澤やナイツ塙らM-1審査員がしばしば口にする「人間性」「人間味」の意味するところも明確になるだろう。それらは単に舞台で己をさらけ出せば良いと言っているのではない。むしろ作品が演者の「ニン」に合い、「フラ」を活かしきれるかどうか、つまりは己の部分に作品を上乗せするセンスとテクニックが問われているのである。なお付け加えれば、徹底的に作品を磨き上げたキュウについて、むしろ清水の表情と声の良さを、「フラ」と「ニン」に関わる部分を指摘した山田邦子の慧眼は光っている。
王者ウエストランドと「傷つけない笑い」
ここまでの図式をもとに、昨年の優勝者ウエストランドを考えてみよう。
すでに指摘されているように、彼らの漫才を「素の悪口」と解釈するのは誤解(カテゴリー・ミステイク)と言ってよい。核心を突いているようで実は絶妙にピントのずれた偏見の饒舌が、冷淡かつ言葉少なにすかされることで生じるコントラストにこそ、その漫才の演出上のキモがある。
ピント外れの難癖とその訂正という形式は、人生幸朗・生恵幸子ら「ぼやき漫才」の正統な後継者でもある。そしてこのフィクショナルな「ピントのずれ」を重視するならば、ウエストランドの漫才は、アナーキーな本音を速射するテイのツービートとは対照的とも言えるだろう。こうした作品派的な側面が、ウエストランドを100%の己派とみる解釈、マジの悪口を発しているとだけみなす解釈においては無視されてしまうのだ。
ただし、ウエストランドは役に入らないテイの漫才である以上、そこで素の悪口が発せられているとみなす誤解は感情的にはもっともかもしれない。彼らの悪口は作品の壁を破って、直接的にひとに働きかけうるのだ。この直接性を利用して誤解を引き起こし、「悪口漫才」に対する賛否両論を作り出すまでを戦略的にやっていそうなところに、彼らのしたたかさと危うさがある。
なお、ウエストランドを巡って、「人を傷つける笑い/傷つけない笑い」の対立が蒸し返されていたが、この対立でお笑いを語るのは、かえって真の問題をぼやけさせると個人的には思う。「傷つける/傷つけない」という情緒的な語彙ではなく、差別的であるか否か、あるいは体制迎合的か体制批判的かといった構造的な基準で、表現を語るべきなのだ。「誰も傷つけない」と評される笑いが実際は差別的・体制迎合的であるために、現に存在する差別構造を覆い隠すことも珍しくないのだから。
あるいはまた、お笑いファンの分析を「皆目見当違い」と叫ぶウエストランドと、「誰とでもキスする」という性的放縦を「キモい」と笑いにするさや香との、どちらがより問題含みだろうか?
私たちは何を「新しい」と感じるのか
M-1で「人間性」と並んで議論されやすいのが、漫才における「新しさ」である。「新しいシステム」とか「新しいツッコミの方法」などといった表現で、新しさの追求が至上命令のように語られている。
そのようなM-1の「新しいもの至上主義」を的確に指摘しているのが、ナイツ塙の著作『言い訳──関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』である。「新しいものへの飢餓感は、M-1のDNAに組み込まれた意志のようなものなのだと思います」(第五章)。新しさの要求は、「行ったり来たり漫才」(ミルクボーイ)とか「ノリツッコまない」(ぺこぱ)とか、漫才に次々と新たな名前がつけられる傾向にも現れている。
ここでいう「新しい漫才」とは何か。ひとまずは、単により面白い、より上手い漫才ではなく、今までとは違った要素を示したり、これまで当たり前とされてきたことをひっくり返すようなものが、「新しい漫才」と言えるだろう。
例えば笑い飯は、ボケとツッコミの役割分担が明確だったM-1の漫才に、役割が絶えず交代する「ダブルボケ」のシステムを──やすし・きよしら過去の漫才に見られる自由なボケ・ツッコミの移動をルール化して──導入したことが新しい。
昨年のロングコートダディは、このシステムを参照しつつ、これまであまり利用されていなかった舞台上での縦移動をフィーチャーしたところが新しいと評価されている。
こうした新しさは、前例との差というかたちで、ある程度は説明可能である。他方でM-1にはそれらとは別の新しさ、過去との差では説明不可能な新しさが登場していないだろうか。例えばランジャタイやヨネダ2000はそれぞれが、新しいはずだがどこがどう新しいのかわからない、特異な謎を投げかけていないだろうか。これらを既存の尺度で考えることはできるのだろうか。
美術の概念からアプローチしてみる
こうした新しさについて考えるために、今度は美術批評家の議論に目を向けてみたい。旧東ドイツ出身のボリス・グロイスは、論集『アート・パワー』(2008年)に収録されたその名も「新しさについて」という論考で、「新しさ」という観念を独自の観点から再考している。
グロイスにとって、単にこれまでとの比較によって新しいとみなされるもの、過去との差異として認識できる新しさは、真の新しさではない。真に新しいものとはむしろ、過去のもの、他のものと何がどう違うのかがまったくわからないもの、「認識できない差異」あるいは「差異を超えた差異」を有するもののことであるという。
いったいどういうことか。具体例を挙げよう。マルセル・デュシャンの作とされ、しばしば現代アートの起源ともみなされる《泉》は、日用品であるただの便器に署名をつけただけの作品である。それゆえただの便器と区別できない。にもかかわらず、それは日用品とは異なる芸術作品とみなされ、鑑賞される。真の新しさとは、こうした日常的なものと視覚的には区別できない芸術作品が、それにもかかわらず宿している性質のことなのだ。
ここまでの話を少し緩めてM-1の漫才に置き換えてみよう。例えばランジャタイやヨネダ2000はそれぞれが別のしかたで、〈何が新しいのかわからない新しさ〉を示している。ただしそれは、グロイスの議論のように日常と区別できないという意味ではない。そうではなくて、既存の漫才と比較不可能という意味で、差異を認識できない新しさなのである。
とはいえそれらが何らか「新しい」ものとして認識され、語られるのは、すでに漫才としてエントリーされ、決勝進出しているから、つまりは漫才の境界内に位置づけられる寸前にあるからだ。
もしもそれらに適切な文脈が与えられるならば、そのときそれらのいわく言い難い新しさが説明され、同時に漫才の領域もまた拡張するだろう(マヂカルラブリーが〈漫才か・漫才でないか〉の激しい論争を引き起こしたのは逆に、この文脈づけが成立するギリギリのラインにあるからなのだ)。
M-1の「新しいもの至上主義」はこのように、過去の漫才のヴァージョンアップとしての新しさのみならず、比較を絶する新しさをも飲み込もうとする、不断の運動のことなのである。
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ここまで、M-1における「純粋な漫才」と「新しさ」の二点について論じてきた。もちろん論じるべきトピックはまだまだあるだろう。とはいえ筆者としては、異論も含めた今後の漫才論に対する遅ればせの呼び水として、この記事が読まれれば嬉しい。
現代日本でお笑いほどに多彩な才能が集まるジャンルもないだろう。多くの人がお笑いを語ることで、批評がさらに育ち、それがお笑いそのものの多様化にフィードバックされることは、掛け値なしに肯定されるべきである。
お笑いはときに私たちを大笑いさせ、ときに唸らせ、そしてときに謎を投げかける。優れたネタに笑わずにはいられないように、私たちはお笑いを語らずにはいられないのだ。
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著者プロフィール
1991年生まれ。現在、東京大学大学総合教育研究センター特任助教。専門は美学。主な論文に、「ランシエールの政治的テクスト読解の諸相──フロベール論に基づいて」(『表象』第15号、2021年)、「ランシエール美学におけるマラルメの地位変化──『マラルメ』から『アイステーシス』まで 」(『美学』第256号、2020年)。他に、「おしゃべりな小三治──柳家の美学について 」(『ユリイカ』2022年1月号、特集:柳家小三治)など。訳書に、ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『受肉した絵画』(水声社、2021年、共訳)など。
Twitter:@s_waterloo