チャン・ガンミョン『鳥は飛ぶのが楽しいか』「訳者解説」無料公開中です!
訳者解説
吉良 佳奈江
この本は闘いの書であり、また同時に希望の書でもある。
著者のチャン・ガンミョン(張康明/장강명)は1975年ソウル生まれ。東亜日報の記者を11年勤めた後、専業作家となった。2011年のデビュー以来、様々なジャンルの小説で精力的な創作を続ける多作家であると同時に大の読書家でもある。ミュージシャンのヨジョと続けている本をテーマにしたポッドキャストは、この夏『本、これが何だって?』(未邦訳)として出版された。
あるインタビューで著者は本短編集『鳥は飛ぶのが楽しいか』について、「現実がひどく非人間的なので、その現実を文学も扱ってやらなければいけない。(……)韓国文学にはその労働小説の系譜がある」として、チョ・セヒの『こびとが打ち上げた小さなボール』(斎藤真理子訳、河出書房新社、2016年。原作は1978年発表)を挙げている。実際に本書を読んで『こびとが~』を連想したという感想も多く、著者自身そのことをたいへんよろこんでいる。また別のインタビューでは、「他の人にはちょっと書けないだろう」「チャン・ガンミョンという作家だから書けた」という意見を目にして、ようやく自分は個性ある作家になれた、取り替えの効かない作家になったなという自負心が生まれた作品集だと語っている。
確かに、さまざまな登場人物たちの視線から多彩な言葉遣いで語られる十編の物語はチャン・ガンミョンならではの作品と言えるだろう。どの作品の登場人物も表情豊かに生きている。隣国の今を伝えてくれる描写は新聞記者だったという著者の経歴が存分に生かされたものだ。しかし、本作を含め、これまでに発表されたさまざまな作品を貫くチャン・ガンミョンらしさとは「私たちは人間らしく生きているのか」という問いかけだ。特に本作では労働と住居の問題に焦点を当てており、これもまた『こびとが打ち上げた小さなボール』を彷彿とさせるところだ。
作品全体について、著者を投影したと思しき「音楽の価格」の登場人物は「2010年代の韓国で働いて食っていく上での問題をテーマにして短編集を作っています。就職、解雇、リストラ、自営業者、再建築みたいなモチーフで短編を一つずつ書こうと思います」と語っている。10編の短編は〈切る〉〈闘う〉〈耐える〉の3部で構成されている。〈切る〉と一言で言っても、女性アルバイトと彼女を解雇しようとする正社員の攻防を描く「バイトをクビに」、廃刊の決まった広報誌の編集部員が連帯しながらも脱落していく「待機命令」、大規模リストラをめぐって労働者同士が対立する「工場の外で」ではそれぞれ描き方が違う。
特に「工場の外で」は、全国組織の支援を受けた労働組合の闘争だが、闘う相手は会社だけでなく労働者同士も対立してしまう。モデルとなったのは2009年の双龍(サンヨン)自動車の平澤(ピョンテク)工場占拠ストライキだ。当時、東亜日報の経済部記者だったチャン・ガンミョンは双龍自動車の工場占拠ストライキ現場や、現代(ヒョンデ)グループの傘下に入った起亜(キア)自動車の工場ストライキを取材し、同じ時期に、労働組合のないルノーの社風を受け継いだルノー三星(サムスン)が大統領表彰を受けた記事も書いている(それらの記事のいくつかは日本語訳され今でも公開されている)。ストライキに至る経緯から組合員たちの立てこもりの様子や「解雇は殺人だ」というスローガン、反ストライキの大規模集会、休業中の社員のアルバイト生活、非組合員と組合員の衝突と、その際巨大なパチンコを使ってボルトを飛ばしたエピソードなどはほぼ事実を再現している。玉砕ストライキとも呼ばれた占拠は77日目に機動隊により強制的に鎮圧された。ヘリコプターからの催涙ガス、テーザーガンを装備した機動隊の様子が報道され、占拠ストライキは国民的な議論となった。労使間だけでなく労働者同士の対立は多くの悲劇を生んだ。会社は労組相手に50億ウォン〔日本円で約5億円〕の損害賠償請求を起こし、解雇されなかった労働者も長い無給休職期間を過ごすことになった。鎮圧の際には100名以上が負傷し、また解雇された組合員やその家族ら30名以上が自ら命を絶つ結果となった。
話題の韓国発ネットフリックスドラマ『イカゲーム』を手掛けたファン・ドンヒョク監督はこのストライキを創作の参考にしたことを明かしている。リストラにあったという主人公ソン・ギフンには『イカゲーム』の前にもう一つの闘いがあったのだ。「先輩、僕たちも一緒に〈生きる〉のではだめでしょうか?」(「工場の外で」101ページ)という言葉は、解雇予定の一人の労働者の声として、ゲームに参加して必死に闘うギフンの声として、そしてチャン・ガンミョンの声として響いてくる。
生きるための闘争が長引くにつれて生活を破綻させ心身を蝕んでいく様子は「人の住む家」に詳しい。本文中の相互扶助(プマシ)とはもともと朝鮮の農村で農繁期に互いに助け合う共同作業を指す言葉だ。現代でも利害を共にする人々が協力しあうときに使われる。確かに連帯感は一時的な高揚感をもたらす。しかし闘争の方法も要求も偶然参加することとなった団体の方針に左右され、個人の望みとはかけ離れていき、ある時点で引き返せなくなる。そして何よりこの短編は不動産という富をめぐって、持つものと持たざるものの理不尽な格差を突き付けてくる。
この短編集には韓国における様々な格差と競争が描かれている。「ヒョンス洞パン屋三国志」では巨大資本と店舗オーナーの不均衡な関係が描かれる。フランチャイズに加盟したら睡眠時間を削ってまでも本社の指示に従うのが、資本主義の金の法則なのか。道路を挟んで向かい合うライバル店同士、共存共栄の道はないのか。
そもそも労働者にすらなれない人間もいる。「カメラテスト」と「対外活動の神」は労働者になるべく奮闘する若者の話だ。韓国の若者の就職状況は日本以上に厳しく、就職のためにどんなに努力をしても一瞬の失敗ですべてが水の泡になる。ソウルと地方の地域格差も深刻で、地方大学はソウル市内の大学よりも圧倒的に就職に不利だ。なりふり構わず努力しても、一生を決めるのはほんの偶然に過ぎない。また「音楽の価格」に出てくる〈わらの犬〉のようなフリーランスは、労働者と言えるのだろうか。彼らは社会保障も薄く、生活が苦しくても自己責任とされてしまい、闘うための連帯も難しい。ここにはミュージシャンと同じく自分の好きなことを生業に選んだ、作家自身の葛藤も垣間見える。
労働小説といえば抑圧された労働者側の視点で描かれることが多いが、チャン・ガンミョンはそこから少し視点をずらしている。冒頭の「バイトをクビに」の語り手、ウニョンはアルバイトをクビにする側だ。愛想がないが口が達者で何事にも言い訳をし、労働法規を盾にしてなかなか仕事をやめようとしないアルバイトに手を焼いて振り回される。しかし、彼女の父親の友人は弁護士だし、話がこじれたら自腹を切っても構わないという共稼ぎの夫婦は生活に困っている様子はない。「みんな、親切だ」の話者も同様だ。都心のサラリーマン生活は目まぐるしく、通信端末会社は融通が利かず、妻はイライラしている。しかし〈生きてきて一番ついていなかった日〉について話す彼の視線は周りの人間に向かう。仕事ができても学歴のせいで正社員になれない契約社員、引っ越し業者で働く移住労働者、メーカーと顧客の板挟みになるアフターサービスセンターのエンジニア、携帯電話代にも事欠くピザのデリバリーの若者、当日配達の1冊の本を彼に届けるために走り回った配達員たち。彼らは、みな礼儀正しくて親切だ。なぜ自分は礼儀をつくされ、親切にしてもらえるのだろうか。自分は彼らに対して同じように礼儀をつくして親切にしているだろうか。そう思うとき、階層化された韓国の社会が見えてくる。そして、自分が誰かの上にいることに気づいてしまう居心地の悪さをチャン・ガンミョンはあえて描き出す。
「みんな、親切だ」の夫婦が賃貸で住んでいるヒョンス洞の高層マンションは、「人の住む家」でソンニョが追い出された跡地だろうか。それとも彼らのマンションの隣で、ソンニョはまだ撤去民の闘争を続けているのだろうか。駅に向かう途中に寄るというパン屋は、Pフランチャイズだろうか、Bフランチャイズだろうか、個人経営の老夫婦の店はまだ残っているのだろうか。注意深く読むと、作中の登場人物たちの動線は重なっている。同じ駅を
使い、同じ電車に乗り、同じ英会話学校に通っているのではないか、すれ違っているのではないかと想像させる。登場人物たちはみな同じ時代を生きていて、〈持つもの〉と〈持たざる者〉の生は密接につながっている。私も旅先で、疲れた顔の彼らとすれ違っていたはずだ。土地勘のない日本の読者のために日本語版では地図を作成したので、ぜひ一緒に想像してみてほしい。現在はコロナ禍のため行き来は不自由だが、今や〈持つもの〉と〈持たざるもの〉は国境を越えてつながっている。
韓国の労働文学の系譜は百年前のプロレタリア文学誕生以来、搾取される労働者の姿を描いてきた。しかし1990年以降、韓国に流入する外国人が急増すると視点が変わった。2000年の後半から2010年代前半にかけて移住労働者や結婚移住女性の置かれた過酷な状況を描いた「多文化小説」と呼ばれる作品が多く発表された。「多文化小説」の中で、韓国人は移住者に対して時に露悪的な支配者としてふるまい、時に直接的に申し訳なさを表明して、自分たちが加害者になっていないかと検証してきた。したい仕事に就くのは難しいが、したくない仕事はたくさんあって、それを外国人労働者に頼るという図式は日本と同じだ。
「みんな、親切だ」に登場する引っ越し業者も韓国人に敬遠される肉体労働の一つで、移住労働者たちが多く働く現場だ。現在、韓国は日本の技能実習生に比べて労働者としての権利を強化した雇用許可制によって東南アジアや中央アジアから労働者を受け入れている。また朝鮮半島にルーツを持つとされる人たちは労働ビザを何度も更新できるので韓国に定住が進み、特に中国の朝鮮族は韓国内でエスニックグループを形成している。しかし、彼らを犯罪と結びつけて考え、差別する風潮も根強く残る。実際に新型コロナウイルスの感染が広がった時に真っ先に攻撃されたのも彼らだった。「音楽の価格」の最後でわらの犬は中国人の父を持つ少年ジェヒに出会うが、彼がギターを教えに行く九老(クロ)区は朝鮮族の集住地であり、そこで出会ったジェヒが〈暴走する子馬〉のように反抗的な態度をとるのも、韓国社会の視線が反映されたものだ。ちなみに「音楽の価格」の話者が住む新道林も九老区にある。その駅前にはテクノマートという電化製品のショッピングモールがあり、そこには「みんな、親切だ」の妻のコンバーチブルパソコンを修理してくれない代理店が入っている。
韓国には〈モッコサニズム〉という言葉がある。モッコサルダ(直訳すると〈食べて生きる〉だが、日本語で「あんたそれで食っていけるの?」と言うときの〈食っていく=生活する〉の意味)にイズムをつけた造語だ。自分が食っていくことを最優先とする生き方のことだが、食っていくことに汲々として、余暇や恋愛を楽しむなど望むべくもない生活の余裕のなさを自嘲する言葉である。2010年代の韓国社会を反映して、今ではすっかり定着した。この本を読んだ読者のみなさんには、理解いただけると思う。
何度も不在通知を残し、ようやく荷物を手渡してから礼儀正しくおじぎをして次に向かう配達員の姿なら私たちもよく知っている。一部の富裕層を除いて、余暇を楽しむ余裕がなく多くの人が食っていくことに汲々としている状況は韓国も日本と変わらない。コロナに関する報道で日本にも安定した住居を持てない人がたくさんいることに改めて気づいた人も多いだろう。正社員と非正規雇用、本社職員とフランチャイズオーナー、自分では決められない雇用と解雇、フリーランスの不安定さ、進学をめぐる競争もそっくりだ。それでも日本と違うのは、この小説の登場人物たちが今の状況に抗い、闘っている点だ。目の前に苦しい生活があって、だから変えていこうとするのは、何より、よりよい未来を信じて希望を持っているからだ。誰かの苦しさを申し訳なく思うのも、それが仕方のないことではなく変えていけると信じているからだ。おそらくそれは物語の中だけの話ではなく、現代の韓国に生きる人たちが冷笑せずに向き合っている信念に近いものだ。
最後の短編「鳥は飛ぶのが楽しいか」は、旧態依然とした大人と対比しつつ、高校生の若者の視点が未来を感じさせる作品だ。
さて、私たちはまだ飛べるだろうか。
本編は『鳥は飛ぶのが楽しいか』でお楽しみください!
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