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【三田三郎連載】#003:酒の飲み過ぎによって私が恐れるようになった3つの質問

※こちらのnoteは三田三郎さんの週刊連載「帰り道ふらりとバーに寄るようにこの世に来たのではあるまいに」の第三回です。
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酒の飲み過ぎによって私が恐れるようになった3つの質問

 ①休日は何をしているのですか。

 微妙な距離感の相手と何らかの事情で世間話をしなければならないとき、しばしば持ち出される質問である。トラブルが生じにくい、当たり障りのない質問だと思われているのだろう。だが実際のところ、それは私が最も恐れている質問なのだ。休日は必ずと言っていいほど、二日酔いに苦しめられて何もしていないからである。

 休日の前夜は深酒をする。前夜に深酒をしていれば二日酔いになる。ゆえに休日は二日酔いになる。誰にでも分かる三段論法だ。私は論理というものが持つ厳粛さを思い知らされながら、休日はひたすら二日酔いと格闘している。いや、格闘しているというのは気取った表現だ。本当のことを言えば、一方的に打ちのめされている。マウントポジションを取られてボコボコである。だから、休日は二日酔いの猛威が過ぎ去るのをじっと待っている、というのが実態を正しく反映した表現になるだろう。吐き気や頭痛、倦怠感など、二日酔いが繰り出してくるバリエーション豊かな攻撃を、ただただ無抵抗で耐え忍んでいるのだ。

 無抵抗で、というのがポイントだ。二日酔いを治すためには、水をたくさん飲んだり、サプリメントを摂取したり、風呂に入ったりするのが巷では有効とされているようだが、そんな方法に頼るのは率直に言って素人である。そもそも二日酔いに対しては一切の抵抗を試みてはならない。下手な真似をして二日酔いの逆鱗に触れるようなことがあれば、収まりかけた症状のぶり返しという形で凄惨な報復を受ける羽目になる。無理に二日酔いを抑え込み、調子に乗って外出でもしようものなら、突如として公衆の面前で嘔吐してしまうといった破局的な事態を迎えかねない。二日酔いを甘く見てはいけない。マフィアだと思って接するくらいでちょうどいい。大人しく休日の自由をまるごと差し出して、相手に一刻も早く立ち去ってもらうのが賢明な対応である。

 さて、以上を踏まえたうえで、「休日は何をしているのですか」という質問に対する適切な回答を考えてみたい。
 まず、正直に「二日酔いに耐えているので何もしていません」とは答えられない。親しい相手に対してならそのように答えても問題ないが、そもそも親しい相手であれば他人行儀に改めて休日の過ごし方を聞いてくることはないだろう。反対に、休日の過ごし方を聞いてくるような距離感の相手に対して、いきなり二日酔いがどうのこうのと答えるのは、さすがにそこまで無頼漢に徹しきれないというか、世間体を捨てきれないところがある。何とも厄介なパラドックスに陥ってしまい、論理構造的にこの回答は成立しないのだ。

 では、二日酔いの件は伏せて、端的に「何もしていません」と答えるのはどうか。結論から言うと、これもまずい。こんな答え方をすれば、休日の消費活動を放棄することによって資本主義に対するアンチテーゼを体現しようという、独自の思想を持った人物だと勘違いされてしまうからだ。もしレトリックを弄して「何もしないを、しているのです」などと言っても駄目である。それでは大手広告代理店勤務のいけ好かないコピーライターだと思われてしまう。

 ということで、袋小路である。ここまで思索を展開してきて辿り着いた結論は、「休日は何をしているのですか」と問われたら、もはや私は嘘をつくしかないということだ。どうせ嘘をつくなら、休日はボルダリングでもやっていることにしよう。

 二日酔いの頭の中で開かれる内臓たちへの謝罪会見   三田三郎

 ※

②なぜ酒を飲み過ぎてしまうのですか。

 これもシンプルだが恐ろしい質問である。この質問は酒飲みに対して高い殺傷能力を持っているのだが、にもかかわらず無邪気に発せられることが多いから余計に恐ろしい。さながら、愛情表現のために人間を抱き締めては怪力のあまり殺してしまう悲しきモンスターのようである。

 さて、この質問については、申し訳ないがそんなことを尋ねる方が悪いと言わざるを得ない。というのも、そもそもこの質問に対して明確な返答ができる人間であれば、自分のキャパシティを超える量の酒を飲んでしまうような事態には陥らないからである。さらに言わせてもらうならば、その質問についてはこちらが答えを教えてほしいのだ。二日酔いの朝を迎える度にいつも、なぜ飲み過ぎてしまったのかと自問せずにはいられない。だがそれは、問いを差し向ける相手を間違えている。その答えを知っているのは、飲んでいる最中の自分だけだからだ。そして、酒を飲んでいる最中のどの時点で判断を誤ったのかというのは、考えれば考えるほど深みにはまるような、一種の哲学的難題なのである。

 1杯目を飲み始める段階では常に、今日は1杯でやめておこうと思っている。だが1杯目を飲み終わる頃には、2杯目を飲もうと即決している。この場合、2杯目を飲もうと決めたのは1杯目を飲んだ時点の私であって、素面の私ではない。したがって、素面の私には責任を問えない。では、1杯目を飲んだ時点の私に全ての責任があるのかと言えば、もちろんそんなことはない。3杯目を飲む判断を下したのは、2杯目を飲んだ時点の私だからである。1杯目を飲んだ時点の私に「なぜそんなに飲んだんだ!」と詰め寄ったとして、彼は2杯目を注文した点について謝罪することはあっても、それ以降は自らのあずかり知るところではないと抗弁するに違いない。そして、2杯目を飲んだ時点の私を詰問したとしても、結果は同様である。彼は3杯目を注文したことの非は認めつつも、それ以降については管轄外だと言い張るだろう。n杯目を飲んだ時点の私には、n+1杯目を飲む判断を下したことについての責任しか問えないのである。このようにして、飲み過ぎをめぐる最終責任は、少しずつ酔っ払っていく私(たち)によって順送りにされてしまう。そして、最後の一杯を飲んでいる私を問い詰めたところで、彼は次の酒を頼まないからその点についての責任はないし、むしろそこで飲酒をストップするという英断を下した点において賞賛されるべきだし、そもそも泥酔してふにゃふにゃになっているので責任どうこうといったややこしい話は通じない。結局、いつの時点の私も、飲み過ぎの最終責任を引き受けてはくれないのだ。

 では、「なぜ酒を飲み過ぎてしまうのですか」という質問に対してはどのように答えるべきだろうか。まず大前提としては、先述の通り、そんな質問をする相手の方に非がある。とはいえ、それで無視したりごまかしたりするのでは同じ穴の狢になってしまう。ここはひとつ大人になって、可能な限り誠実な回答を試みたい。ただ、これもまた先述の通り、論理的に正確な回答を与えようにもそこには根本的な困難を伴う。

 そこで、いささかトリッキーな方策にはなるが、ハードボイルドな口調で「飲んでいるときの俺に聞いてくれ」と答えるのはどうだろうか。実際に素面の私は飲み過ぎの責任を全面的に引き受ける主体とはなり得ないのだから、論理的にも倫理的にも間違った回答とは言えないだろう。また、この回答がエレガントなユーモアとして機能すれば社会性も放棄せずに済むし、うまくいけば酒に一家言ある理知的な人物といった雰囲気を醸し出せるかもしれない。

 もし、さらに詳しい説明を求められるようなことがあれば、一転して高揚した口調で「酒を飲んで酔っ払っていく私の姿はポストモダンにおいて断片化する自己のアナロジーなのです」と強弁するのはどうだろうか。こう書いている私自身もその意味が十全には分かっていないが、論理の整合性は実のところ二の次であって、とにかく早口でまくし立てて相手に反論の余地を与えないことが肝要である。

 万が一、それでも相手が許してくれないのであれば、もはや嘘をつくしかない。ただし、悲しい嘘はやめておこう。何らかの悲劇に見舞われているから飲み過ぎてしまうというのは、確かに相手を黙らせるには十分な説得力を持つが、そうした嘘は酒飲みの矜持を著しく傷つけるものである。できることなら楽しい嘘をつきたい。例えば、「毎日が幸せで仕方ないのでついつい飲み過ぎてしまうのです」といった具合に。なんだかこっちの方が悲しい嘘であるような気もするが。

 1杯目を飲む決断は僕がした2杯目以降は別人がした   三田三郎

※ 

③好きな食べ物は何ですか。

 深酒ばかりしていると、こんなありふれた質問ですら恐ろしくなる。好きな飲み物であればいくらでも列挙できるのだが、好きな食べ物というのはなかなか答えにくい。私にとって食べ物というのは、酒との関連によって意味を持つものであり、その点においてあくまで酒の従属変数でしかないからだ。したがって、特定の酒と好んで組み合わせる食べ物はあっても、酒から独立して絶対的に好きな食べ物というのは存在しないのである。

 一般的には、まず食べ物があって、それに飲み物を組み合わせようとするだろう。私もある時期まではそうだった。だが、深酒を繰り返すようになってしばらくしたある日、その主従関係が明確に逆転した。先に酒の種類を決めてから、それにマッチした食べ物を選ぶようになったのだ。まさに飲食のコペルニクス的転回である。飲酒論的転回と呼んでもいい。この鮮烈な転回を経てからというもの、私はすっかり変わってしまった。

 第一に、酒を伴わない朝食や昼食に意味を見出せなくなった。「アスリートにとって午前中は排泄のための時間だ」などと言っては朝食を抜き、「ドクター中松だって一日一食だ」などと言っては昼食を抜く。正直に言うと二日酔いだから早い時間帯は食欲がないということも多いのだが、酒から独立して存在する食べ物への関心が急速に失われていったのは確かである。

 第二に、重たい料理は体が受け付けなくなった。具体的には、ラーメンやカレー、カツ丼といった類のものである。そうした食べ物は、本来は酒に従属する立場であるということを弁えずに自己主張してくるから苦手だ。食べ物の領分というものを理解していないのである。

 第三に、できることなら液体だけを摂取して生活したいと思うようになった。よく誤解されるが、私は別に酒以外の飲み物を忌み嫌っているわけではなく、むしろ晩以外はお茶やジュースを好んでがぶがぶ飲んでいるくらいだ。ただ、固体である食べ物は咀嚼を要求してくるから思いのほか大変である。酒とセットであれば、そうした咀嚼の大変さも容易に喜びへと転化してくれるのだが、食べ物単体ではなかなか厳しいところがある。

 こうした事情を踏まえて、「好きな食べ物は何ですか」という質問に対処しようと思うのだが、ここではあえて簡潔に答えることとしたい。私の好きな食べ物は「柿の種」だ。どんな酒のつまみにもなり得るからである。 

歯で噛んだり舌で潰したりしなくてもいいからいい 液体はいい
三田三郎


著者プロフィール

1990年、兵庫県生まれ。短歌を作ったり酒を飲んだりして暮らしています。歌集に『もうちょっと生きる』(風詠社、2018年)、『鬼と踊る』(左右社、2021年)。好きな芋焼酎は「明るい農村」、好きなウィスキーは「ジェムソン」。
X(旧Twitter):@saburo124


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