『小泉八雲と妖怪』を読む
最新刊の『小泉八雲と妖怪』を読む
小泉八雲が、ギリシアで生まれてから、日本に来て54歳で亡くなるまでを、エポック的に年齢で区切りながら書かれています。
専門書的な内容ですが、図版や挿し絵を入れて わかりやすい構成になっています。
【epoch époque 時代 (名詞)】
特に、それまでとは違った意味をもった時期・段階
はじめに
小泉八雲は、なぜ妖怪のような異界に棲む目に見えないもの達に関心を抱いたたのか?
それは、アイルランドに暮らした子供時代にあると言われています。
妖精文化の宝庫といわれるアイルランド北西部出身の乳母 キャサリン・コステルから多くの妖精物語や怪談を語り聞かせた事が切っ掛けだったとのこと。
この他、アメリカに渡ってからも、マティ・フォリー(シンシナティ時代) マリー・ラボー(ニューオーリンズ時代) シリリア(マルティニーク時代)など、八雲の周りには、怪談や霊的世界の語り部が常に存在していました。
また、日本に来てからも松江では小泉セツの存在がありました。
八雲は友人のチェンバレン宛の手紙の中で「人生に生きる目的を与え、自然を畏敬することを教えてくれたのがゴーストだ。」と伝えています。
(1893.12.14.付け)
0歳〜10歳ごろ(1850〜1860)
1850年6月27日 ギリシャ西部のレフカダ島で生まれる。
父:チャールズ・ブッシュ・ハーン
母:ローザ・カシマチ
大叔母:サラ・ブレン
乳母:キャサリン・コステル
1852年
母ローザと共に、父チャールズの実家のあるアイルランド・ダブリンに移る
キャサリンは、よくアイルランドの昔話や妖精が出てくる話、さらには怖い話を聞かせてくれた。
妖精の国アイルランド
樫の木の知恵 樹木をはじめ、あらゆる自然の中に妖精が宿ると云う信仰。
10歳ごろ〜19歳(1860〜1869)
ダブリンでは、学校に行かずに家庭教師に来てもらい自宅学習する日々を送る。
13歳の時(1863)、大叔母の希望で聖カスバート校に入学する。
16歳の時、左目を失明。(1866)
気のせいか?目以外の感覚が以前より研ぎ澄まされていくのを感じた。
大叔母が破産に追い込まれ、その結果、学費の援助が得られず1867年11月に退学した。
19歳〜39歳(1869〜1889)
19歳でアメリカに送られ、シンシナティに住むことになった。(〜27歳)
第二の父として、ヘンリー・ワトキンを慕った。
最初の妻 マティフォリーとは離婚し、ニューオーリンズへ。(27歳〜37歳)
ニューオーリンズには、様々な肌の色を持つ人が居て、フランスでもアフリカでもアメリカでもない、多様なものを包み込む独特のクレオール文化が根付いていた。
クレオールのことわざ辞典『ゴンボ・セーブ』(1885年)
『クレオール料理』(1985年)
2冊を出版する。
1884年に開催された「万博」で、日本館の責任者 服部一三と顔見知りになる。
その後、カリブ海のマルティニークへ。(37歳〜38歳)
1889年 ニューヨークへ(38歳〜39歳)
英訳『古事記(Ko Ji Ki)』との出会い
1882年 チェンバレンが英訳した本
「出雲神話」とりわけ出雲の地に興味を抱く。
ニューヨークを発ち(たち)モントリオールからバンクーバー、そして、太平洋航路で横浜へ。
39歳〜41歳(1889〜1891)
初めて見る日本
横浜着(1890.04.04.)
松江に赴任(1890.08.30.)
41歳〜46歳(1891〜1896)
熊本第五高等中学校(現在の熊本大学)の英語教師になる
『知られぬ日本の面影』(1894)
46歳〜52歳(1896〜1902)
帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)
52歳〜54歳(1902〜1904)
帝国大学を解雇後の日々
翌年 早稲田大学 講師に就任
1904年(明治37) 9月26日 心臓発作で死亡
【玉川大学出版部/ブックレビュー】
【Study_note】小泉八雲と妖怪
2023.09.18.