見出し画像

私が文章を書く理由

 かつて、私は「復讐者」だった。
 けれど、そのままじゃいけないことに気がついたのはもっと時間が経ってからだった。
「今に見てろよ」って精神、すごく大事だと思うんです。けれど、その復讐心に似たものを持ち続けるのはものすごくしんどいとも思うんですよ。


自己紹介はしたくなかった

 今まで、自己紹介というものから逃げてきました。紹介できるほどの自己がないものですから、私にとって自己紹介は地獄なわけです。それに、面倒臭い性分で、あまり私の人間性を知られたくないというのもある。

「え〜そんなこと自己紹介で言っちゃうんだ!」とか言われた暁には外に飛び出したくなってしまう。繊細なものでね、エエ。
 そもそも、自己というものは常に変化するものだし、その瞬間はそう思っていても、次の瞬間には全く別のことを考えているものなのではないだろうか。
 自己を紹介することによって、自己を「固定」したくないのだ。難儀だ。

 変わらないのは自分の名前と生年月日くらいだろう。あと、血液型?
 他のものは常に変わっていく。
 やってることだって、これからやりたいことだって変化していく。
 好きな食べ物だって、動物だって、趣味だって日々変わっていく。
 昨日の好きな食べ物はカレーでも、今日はハンバーグかもしれない。昨日の趣味は映画鑑賞だけれど、今日はカラオケかもしれないのだ。

 それに、私はずっと迷っていた。
 やっていることも、していることも、イマイチよくわからない。やりたいことも、したいことも、ハッキリわからない。どうしたいのかもわからない。
 正しいのかもわからない。間違っていることもわからない。書きたいものにも迷いがあった。
 今までの作品を全部消してみたり、アカウントを何度も変えたりしてきた。
 長すぎる迷走期はより一層私の自己を歪ませたのである。
 私とは、一体なんなのか。紹介できる「自己」はあるのか。

 「文豪になりたい」というものがある。
 これは今までもこれからも変わらない自己だろう。
「自己」の一つを紹介するべく、物語と私の関係性を明らかにしていけたらなと思うわけです。 

 なぜ文豪になりたいのか。
 なぜ「小説家」ではないのか。
 なぜ趣味の範疇にとどまらないのか。
 その理由をお話しできればと思います。

 作者はあまり自己を開示しない方がよろしいという風潮もありますが、知ったこっちゃありません。私が明日死んだら誰が私のことを語るというのですか。
 誰かから見えた「私」の話はいっぱいあるでしょうけれど、私から見えた「私」の話は私しかできませんからね。

物語に取り憑かれた幼少期

 物語と私の関係性は20年以上前にまで遡る。ちょうど自我が芽生え始めた三歳である。自分と同じ歳の子供たちと一緒に過ごすことになった(幼稚園入園)。
 幼稚園には給食を食べたのち、休み時間なるものがある。外で遊ぶのもよし、人形遊びをするのもよしな時間である。
 同い年の子供たちは一目散にグラウンドに飛び出して、遊具で遊ぶのに、私はというとポツネンと1人でいたらしい。

 何をしているんだと。
 早めに迎えにきた母親が見たのは、誰も近寄らないような古びた本棚から絵本を引っ張り出してひたすらに文字をなぞっている娘の姿だった。
 協調性、社会性、コミュニケーション能力、全てを子宮に忘れてきたご様子。ちなみに私の弟はそれらを全部持っている。

 保育士からは「お友達が全然いないみたいです」というようなコメントをもらっていたらしい。余計なお世話だ。人間のお友達がいない私を、両親は心配するどころか、面白がった。トンチキな両親である。

 けれど元々皮膚が非常に弱かった私を心配して、両親は「埃だらけの本よりも、新品のものを読んだ方が健康に良い」と判断したそうで、私に大量の絵本をプレゼントしてくれた。家でたくさんの本が読めたので、幼稚園ではだんだん「お友達」なるものができてくるのだが、それはまた別の話。
 文字も読めなかった三歳で、どうして絵本に惹かれたのだろうか。何が書かれているのかもわからないのに、なぜ文字をなぞり続けていたのか。
 おそらくこの時から「文章」というものに惹かれていたのかもしれない。

 時が進んで、小学生時代。この頃には完全なる「本の虫」が爆誕していた。
「どんな時でも挨拶だけは忘れるな」と躾けられた私は、幼稚園の時よりも「お友達」の数は多かった。教師に「お友達が少ないようで」と言われたのはその先、高校時だけだ。

 文字が読めるようになった私が次に目をつけたのは小学校の図書室だった。絵本を次から次へ読み漁っていた私は、親から買い与えてもらうよりも自分で借りてきて読んだ方がより効率的に本が読めることに気がついた。
 買いに行くペースよりも、読み終わるペースの方が明らかに早かった。小学校の図書室には大量の本がある。私にとっては遊園地よりも魅力的な場所であった。
 この時点で物語に取り憑かれていた。

 ここで、覚えている奇行を一つ。

 私の通っていた小学校で図書室が開放される時間は登校してきてから朝礼が始まる前までの「朝休み」、昼食後の「長休み」の2つだった。どちらも20分程度の短いものだが、小学生にとっては1時間くらいの体感速度である。
 私は早く学校に到着するやいなや、図書室に駆け込み、昨日読み終わった本を返し、次に借りる本を見つけて、借りる。そして10分休みの時間と授業の時間を使って読み切って、長休みで朝休みに行ったことを繰り返す、というもの。
 調子が良い時は、20分の間で本を読み切って、本のおかわりをすることもあった。
 児童文学に始まり、伝記、歴史まんが、料理本……本棚三つ分くらいは読んだ。
 このキモムーブにより、一時期「一番本を借りた人」になったりした記憶がある。

もう一つ、覚えているエピソードを。

 算数の授業中だった。教室の前半分を使って足し算引き算の問題の演習をしていた。四角く区切ったスペースを「エレベーター」と称して、何人かのクラスメイトが先生の指示に従って、出たり入ったりして実際に数を数えながら足し算引き算を覚えるというもの。
 クラスメイトは率先してエレベーターの乗客役になりたいらしく、我先にと先生のもとに集まっていた。

 そんなことはつゆ知らず(多分知っていただろうけれど)私だけが授業も聞かず、興味もない風に本を読んでいたのだ。
 忘れもしない。『まじょ子』シリーズのどれか。ページをめくる手が止まらない止まらない。

 突然、「立ちなさい!」と響く大声。なんだろうと思って顔を上げると、担任が鬼の形相でこっちを見ていた。クラスメイトたちはキョトンとした顔でこっちを見ている。

 もしかして、「立て」と言われているのは私なのか? 不思議な顔をしながら、立ち上がると、担任はそのまま穏やかな表情になって授業の続きを始めた。この時の寂しさと疎外感は強烈に覚えている。完全に私が悪いのだが。
小学1年生にして、「廊下に立ってなさい」ムーブをかまされたのであった。この頃から「学校の教師」なるものに苦手意識がある。

 学年が進み、4年生になった頃、私はちょっとした出会いを経験する。私と同じくらい本を読む「友人」に出会ったのだ。その子は背がものすごく高く、ものすごく話の合う女の子であった。
 彼女は好奇心が強く、また私も好奇心が強かった。小学生というのはそんなものだ。いつしか我々は児童文学では飽き足らず、書店に繰り出すようになっていた。インドアぼっちだった私は初めて「友人と遊びに行く」という実績をここで解除するのであった。
 そこで、出会ったのがライトノベル。最初に読んだのは『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』だった気がする。あれ、『デュラララ』だったかな。ともかく、青い鳥文庫よりも分厚く、巻数もあって、そしてキャラが個性的で、軽快なストーリーと出会うのであった。
 彼女一緒に読み進めて「ここが良かった」「この展開はアツい」「このキャラが好き」などと語るのはとても楽しいものがあった。

 私が「本の虫」から「オタクくん」になるのに時間はかからなかった。もしかしたら元々「オタクくん」の素質はあったのかもしれない。
 ライトノベルから、アニメの存在を知った。深夜アニメを見るようになってから、昼間のアニメに対する見方も変わった。いや、昼間のアニメが先だったか。忘れた。

 「オタクくん」となった私は、キャラクター萌えの概念を知ることになるのだ。小説を「物語」として読むだけではなく、個々のキャラクターの良さ、その関係性の尊さ、などなどに強い魅力を感じていった。もはや作品を見ずとも、キャラクターが「こんなことしていたら、アツい」と考えるようになっていた。

 友人と話すにつれて、「自分たちでも作ってみないか」という話になった。あの背の高い彼女のおかげで、私は物語を「書く」ことを始めたのだった。
 これはどういうことか。
 本来のコンテンツに依拠することなく、自分の脳内で物語を作り出すことが可能になる、ということなのだ。別名、二次創作。

ゴリゴリオタクくん時代

 そこから、例の彼女と一緒にノートを購入し、自分の「推し」であるキャラクターが活躍する話を書きあった。
 いわゆる、リレー小説とでもいうのだろうか。交換ノートの亜種ともいう。とはいえ、小説とも言えないお粗末なものだった。キャラクターのセリフを書き連ねる台本に近いものだった気がする。

 「オリジナルキャラクターとか作ろうよ!」「新しい舞台設定作ろうよ!」といった風に段々独自の世界観が生まれ始めてきました。インターネットで知るよりも先に「夢創作」なるものをしていたのだった。
 学年が進むにつれて、2人で始めたものが、3人、4人と増えていきました。

 そこで初めて「書く」楽しさを知りました。読み合う楽しさを知りました。
 自分の妄想を言葉にして、白紙のノートに世界を創り上げていく作業が楽しくて仕方がありませんでした。誰かの妄想を見るのも面白かった。

 おそらくあれが一番最初の私の「物語」だったのだろう。
 みんなで作る、オリジナルの世界、「推し」の活躍。
 それは小説にとどまらず、イラスト、漫画にまで広がった。いろんな側面から見るみんなの世界がキラキラしていて、とても楽しかった。

 けれど、それも長くは続きませんでした。そう、「オタクくん迫害期」がやってくるのです。
 10年前、まだまだオタク文化は迫害対象だった。「アニメ好きなやつ、キモー」的な人の方がマジョリティなのであった。

 それに無邪気な小学生である。ノートを取り上げられて、バッサバッサ投げられたこともある。陰口を叩かれたこともある。オタクいじりされたこともある。
 とんでもない字の汚さから解読されたことはなかったけれど、もしされていたら飛び降りていた。
 迫害期は長く続いた。繊細すぎるくらいに繊細だった私は、それらの行動によって学校にノートを持っていくのをやめた。

 二次創作を大っぴらに行うのは恥ずかしいことなんだということをひしひしと感じた。「二次創作って、気持ち悪いんだ」。そんな風潮になってきた。だんだん「友達」は離れていき、残ったのは例の友人ともう1人、そして私の3人になっていた。

 そんな時に登場したのがインターネットだった。

大インターネット二次創作時代

 小学校高学年から中学生、果ては高校生まで私はネット依存に陥っていった。1日に3時間以上はパソコンの前に座っていないと落ち着かない。激ヤバ人間だ。
 視力を犠牲に、広大なインターネットの可能性をみた。検索エンジンから広がる大量の情報。
 二次創作、めちゃくちゃあった。ここで私は再び活動を始めることになるのだ。二次創作の小説を取り扱うホームページがあったのだ。

 リアルの世界は変わらずオタクくん狩りが行われていたものだから、私を含むオタク仲間たちもインターネットにのめり込んでいった。
 外で好きなアニメの話をしなくなっていた。しても、こっそりと。ヒソヒソとやっていた。

 友人と別れ、荒れた中学校に進学してしまったがために、「オタクくん迫害期」は激しさを増す一方だった。
 なぜヤンキーと呼ばれる人々は異常にオタクくんたちを嫌うのか。
 関わってすらいないのに、なぜか一方的に冷たい視線を投げ続けられた。
 彼らにとって、学ランを改造したり、襟足を伸ばしたり、スカートを短くしたり、目を二重にすることのほうが重要らしかった。

 というか、一般的に物静かな人、何をしても傷つかなそうな人をターゲットにして「いじる」傾向がある。「いじる」「いじめ」は紙一重なんですけどね、エエ。
 耐えれば何とかなるというものでもない。我慢すればするほど激しさは増すのだ。好きなものが違うだけで迫害されるのは悲しいものだ。私はとにかくターゲットにならないために、息を殺していた。普通の行動を心がけていた。

「よぉ、小説家!」

 が、見つかってしまった。話が聞こえていたのか、誰かが「密告」したのか。小説とも言えない、セリフの羅列だとしても、あの時の私の中であれは小説だった。教室というのはものすごく狭い世界なのだ。
 全然話したこともない、意地の悪そうな女の子にそう言われた。みんなに聞こえる声で。その「小説家」に込められている悪意が怖かった。

 当時、繊細すぎるくらいに繊細だった私は、その一言に詰まった悪意と嘲りを一瞬で感じ取ってしまったのだ。完全に心も閉ざした。ヤンキー怖い。
 そして二次創作もやめた。小説を書くのもやめた。
 同じ時期くらいに、隣のクラスで、「二次創作」をしている子が「いじめ」られているのを知ったからだ。その子は漫画を描いていた。

「アニメを見てる奴は気持ちが悪い。二次創作は、もっと気持ち悪い」そんな風潮は中学3年間続いた。繊細すぎるくらいに繊細な私は、アニメからも遠ざかった。

 壁に耳あり障子に目あり。誰も信用できなかった。
「友達」の話をひたすらに聞くに徹した。自分の存在をちょっとずつ消していった。自分の意見は言わないようにと自分を殺した。
 その代わり、インターネットで自分の居場所を探すようになった。顔も知らない誰かと匿名で言葉を交わす方が心地良くなっていた。文章の方が自分の気持ちを伝えやすいと感じるのはこの頃からなのだろうか?

 それからというものの、人間関係でゴタついていたり、揉めたり、色々しているうちに、かなりヒネた中学生が完成してしまったのだ。もう顔の見える相手には本音は言わないぞと固く誓ったりもした。イタタ。

 そんな中、二次創作の筆をぽっきりと折った私であったが、インターネットでいろいろな世界を覗き見することは続けていた。
 そこで、巡り会ったのだ。
 一次創作に。

大インターネット一次創作時代

 世の中には、オリジナルの物語を書く人がいる。まぁそりゃ、二次創作があるんだから、オリジナルの物語を書く人がいるのは当然なのだが、その人々の存在をようやく発見したのだ。
 そこに広がるのはゼロから構成されるオリジナルの世界だった。
 小説投稿サイトも、この頃に知った。

 それらの作品を眺めて、思ったのだ「私もやってみたい」と——。

 折った筆を再び持ち直した。
 そこから、私の創作ライフがスタートするのであった。

 一番最初に書いた「小説」は今でも覚えている。600文字くらいの短いものだ。ゲーム中毒の女がパソコンに吸い込まれていく話。
 13歳か14歳か、その辺で書いたもの。

 書き上げるのに、数時間かかっていた気がする。

 小説を書くというのが、どんなに難しかったことか!
 あんなにもたくさん読んでいたというのに、自分の言葉で表現するとなると、頭が真っ白になった。

 自分の言葉で一から何かを生み出すことがどんなに難しいことだったか!
 書きたい場面はあるのに、どうしてもうまく表現できない。言葉にしてしまうと、全部違う気がして仕方がない。ようやく絞り出して書いたのが、600文字の小説だった。

 それがどんなに面白くて楽しいことなのか!
 
辛くて苦しいはずなのに、文章を書くことがこんなにも達成感に溢れているなんて知らなかったのだ。

 この面白さに気づいた私は、どんどん小説を書いていった。
 探偵の元に転がり込む化け猫の話。
 嫌いな友達を肉塊にして同化する話。
 首飾りでタイムスリップする話。
 よく書いたもんだ。今でもそのサイトを探せば残っているだろう。というか残っていた。恥ずかしい。

 まぁ、最初の小説についたコメントは「小説のルールを守りましょう。読む気にもなりません」でしたけどね。
 さすがに繊細すぎるくらいに繊細だった私はショックを受けた。ちょっと泣いた。
 しかし、ここで折れるわけにもいかなかった。誰かの評価なしに「楽しい!」と思えるものを見つけられたから。
 誰からも認められなくても、やり続けたいと初めて思えたから。
 顔の見えない相手を跳ね除けてでも、進んでやろうと思ったのだ。

 その指摘された小説のルールとやらはとてもシンプルなもので、それすなわち「文章を書くときのルール」であった。インターネットというのはものすごく便利で、ちょっと検索すれば答えは出てきたのだ。

 当時の私の小説は、そりゃあ、まぁ、お話にならないくらいにつまらなかった。設定はめちゃくちゃ、話の展開もボロボロ、言葉のセンスもない。何が起こっているのかもわからない。読み返してもそう思う。なんだこれは。

 それでも当時は本当に楽しかったのだ。自分の世界を言葉で作るのが、面白くて仕方がなかった。
 それからもたくさんの話を書いて、ネットの海に放流した。評価が全くつかないこともあったけれど、気にしなかった。ほんの、偶につく「面白い!」が少しだけ嬉しかった。

 高校に進学しても、小説を書くことはやめなかった。けれど、このことは誰にも言わなかった。
 これ以上自分の趣味にとやかく言われたくなかったのだ。自分の好きなものを嫌いになりたくなかった。承認欲求とか、その辺のエゴの塊を全部押し殺して、「友達」と接していた。
 その代わり「自分のことを話さないつまらない人」になってしまったし、「自分のことを話せない人」にもなってしまったけれど。話さないは、話せないに転ずることに気がついた。

 そんな折、SNSで「一緒に小説書きましょうよ!」って声をかけてもらって、初めてサークルに参加しました。忘れもしません。初めて、いろんな人と小説を書くことの楽しさを知りました。
 そこで「文学フリーマーケット」の存在も知りました。
 なんと、本は出版社を通さないでも印刷できるんですって! 生まれて初めて私の「本」ができました。
 老婆がチェンソーを振り回し、木こりと空中戦をする話。たまに見返しては「そうはならんやろ」と突っ込んでいます。いつか書き直したいと思ったり、思わなかったり。

 声をかけてくれた人と、その中のメンバーの1人は今でもとてもとても大切な人です。多分、この2人がいなかった今でも書き続けることはなかったでしょう。孤独に書き続けるのも悪くないですが、「この話、めっちゃ面白いです!」が聞こえる執筆も良いですね。むしろ、良いですね。
 ビッグラブ。

 物語を考えるのは元来、好きだった。
 10代の私のことを、父は「空想癖がある」とか言って、母は「妄想ばっかりしてる」とか言っていたので、私が小説を書き出すのも時間の問題だったのかもしれない。というか、両親にはなぜか小説を書いていることはだいぶ昔からバレていた。おお、恥ずかしい。
 でもこのトンチキな両親のおかげで、今の私があるのだ。感謝しても、しきれない。

 そんなこんなで、私はインターネットにどっぷり浸かって、せっせと小説を書いては投稿する日々を送っていた。ここまでは趣味の話だ。
 ずっと趣味であり続けると思っていたものは、ある日突然姿を変えるのだった。突然、じゃなかったかもしれない。
 私の中で「小説」「趣味」から別のものに変わっていった。

復讐者時代

 元々、趣味の範疇にとどまっていた「小説」はいつしか、将来の夢になっていた。
 きっかけは大学の文芸サークルである。
 高校でも人間関係に悩まされた私は、思い切って「友達作るの、やーめた!」をしたのだ。
「友達」というのは無理して作るものではないのだ。無理やりつるむ必要も、行きたくない場所に行く必要もないのだ。無理して作るのではなく、自分と趣味の合う人を探そうと思った。

 そんな尖った新入生が偶然見つけたのは、文芸サークル。ちょっとだけ覗いてみた。面白そうな人がたくさんいたのを覚えている。

 サークルに通ううち、仲間ができた。
「めっちゃ面白い!」
「続きが読みたい!」
 初めて、顔が見える人に小説を見せた。
 生まれて初めて、肉声の感想をもらった瞬間だった。

 見せるまではオドオドキョドキョドしていた。
「なにこれ?」「どういう意図?」「なにが書きたいのかわからない……」
 そう言われると思っていた。けれど、真逆の反応だったのだ。
 それが、めちゃくちゃに嬉しくて、たまらなく幸せで、繊細すぎるくらいに繊細だった私はあとちょっとで泣くところだった。危ねぇ。

 そもそも心を開く、だとか、人を信用する、だとかを今までしてこなかった。
 自分の好きなものを見せるのにはかなりの勇気が必要だったのだ。
 でも、文芸サークルなら。文章を書く人たちの集まりなら、きっと。
 ちょっとした賭けでもあった。その賭けに大勝利したのだ。私には素敵な仲間ができた。

 その「面白い」で、「趣味」は「仕事」に傾いた。
 もしこれを仕事にしたなら、いろんな人に私の小説を見てもらえる。そうしたら、もっと面白いと思ってくれる人がいるのかもしれない。

 喜んでくれる人が1人でもいるなら、頑張れそうな気がした。
 職業にしたい! 小説家になりたい! 無邪気なものだった。
 仲間は両手を叩いて応援してくれた。本になったら買うよ! って言ってくれた。

 そんなことを当時の彼に伝えたら、鼻で笑われた。
「現実見ようよ。なれるわけないじゃん」
「恥かいてほしくないんだよ、俺」
 私に挫折して欲しいのかして欲しくないのか、どっちなんだお前は。

 とにかく、私の夢は叩き潰された。ちょっと人を信じ始めた私は再び心を閉ざすのだった。

 繊細すぎるくらいに繊細な私は、めちゃくちゃ凹んだ。顔の見える人間からの意見を受け止める術を知らなかった。嬉しい言葉も、嫌な言葉も、同じくらいの重さで心に刺さった。
 でも、彼の方が正しいって思っていたから、私の夢が間違っているんだと、思っていた。
 大学卒業したら、就活して、企業に勤めるんだ。そう考えていた時期もあった。
 同じようなことをもう1人からも言われ、私はさらに凹んだ。
 面白いって、思うんだけどなぁ。私の小説、つまんないのかなぁ。

 でも、全部を諦めるつもりにもなれなかった。
 大切な人から言われた「面白い!」を忘れなかった。忘れられなかった。

 だから思ったのだ。今に見てろよと。
 いつか、めっちゃすごいものを書いて、誰もが感動するようなものすんごい話を書いてやるよと。
 そこから、私は「小説家になりたい」と口に出すようになっていた。

 今まで下に見てきた奴ら、今私が何をしてるか知ってるかと。
 今まで馬鹿にしてきた奴ら、今の私の姿を見てみろよと。

 そんな復讐心の塊で狂っていた。
 かつて、私は「復讐者」だった。
 けれど、そのままじゃいけないことに気がついたのはもっと時間が経ってからだった。
「今に見てろよ」って精神、すごく大事だと思うんです。けれど、その復讐心に似たものを持ち続けるのはものすごくしんどいとも思うんですよ。

 大学3年の秋、運命の出会いを果たす。
 とある先生だ。
 私は素直に「小説家になりたいんです」と言った。その日は研究室配属の面談の日だった。
 ほぼ初対面の先生に、私は自分の夢を吐露していた。その人の授業が一番面白かったから、この人の研究室に入りたいと密かに思っていた。研究はできないかもしれないけれど、小説を書く情熱は誰にも負けない自信があった。そりゃ、小説を書く学部でもなんでもないから当たり前なのかもしれないが。

 なので、私は言ったのだ。自分でもどうして言い出したのかわからなかった。でも言わなくちゃと思ったのだ。理屈はない。この人になら言っても良いと、なんとなく思えたのだ。
 親にだって言えていないのに、なぜかこの先生は大丈夫だと私の勘が告げていた。

 その人は目を輝かせて言った、
「僕もね、小説家になりたいと思っていたんだよ!」
 
言ってよかったと思った。

 彼は私の夢を笑わない初めての大人だった。

 配属が決定されてからも、私は小説を書き続けた。
 小説とはほぼ関係ない研究室なのにも関わらず先生は私のことを気にかけながらも、他の生徒と平等に扱ってくれた。

 先生は厳しい人だった。
 私の小論を読んでは、
「とても小説家になりたい人とは思えないような文章で——」と評価した。その度に辛かったが、自分で読み返して合点がいった。

 主述が一致していなかったり、誤字があったり、なにが言いたいのかわからなかったり。勢いのまま書いた文章。
 ぐちゃぐちゃの心情がそこにあった。めちゃくちゃだった。

 先生はとても厳しいけれど、とても優しい人だった。
 私の繊細すぎるくらいに繊細な部分は、人の発言の中の悪意を敏感に感じ取っていた。
 今まで色んな人からケチョンケチョンにされてきたが故に、その悪意には敏感なっていた。陥れてやろうという気持ちは、ちょっとでもあると発言に、表情に、滲み出てしまうものだ。

 しかし、先生の言葉には悪意がなかった。言葉こそ乱暴でひどい時もあったけれど、その発言の中に悪意がなかったのだ。純粋に、心の底から思ったことをそのまま言っているのだ。
 これは、できそうでできないことだと思う。
 大人を見て、優しい人だなぁと思ったのは生まれて初めてだったかもしれない。

 ストレートに表現し、自分の感想を直球で投げる大人に、今まで出会ったことがなかったのだ。

 とてもありがたかった。
 適当な、上っ面の「イイトオモウヨー」よりも断然信頼できた。
 繊細すぎるくらいに繊細だった私は、先生や、サークルの仲間たちのおかげでちょっとだけ強くなった。
 ちょっとだけ自分を信じてみようと思った。自分の本音を話してもいいんだなって思えた。モラハラからも卒業できた。

 そこで気がついた。「今に見てろよ」の精神がいかに衝動的で、脆いものか。
 衝動だけでは物語は書けないのだ。物語は繊細で、緻密で、脆いものなのだ。不安定な世界をたくさんの言葉で固定するものなのだ。衝動だけじゃ、書けないのだ。

 今まで勢いのまま文章を書いて、何の見直しもせずに提出、投稿をしていた。
 小論も、小説も、エッセイも。

 見返せば、誤字だらけ。その癖をやめなかったのは、やめられなかったのは私が「復讐者」だったからだ。今に見てろという気持ちが強すぎて、自分が何になりたいのかすら見失っていた。

 私の「小説家になりたいんです」は、「小説で売れて、今までバカにしてきた奴を見返したいんです」という言葉が隠れていた。
 その気持ちを無意識で気づいたのか、「小説家になる」と息巻いて1年もたたないうちに、自己紹介で「小説を書いています」と言うのが恥ずかしい時期が続いた。自分の夢に胸が張れなかった。

 ようやく目が覚めて、落ち着いて、自分のことをゆっくり考えた。
 私は一体誰に馬鹿にされているんだろう。過去、辛い思いはたくさんした。
 じゃあ今は? ゆっくり見渡して、それからようやく気がついた。

 私を馬鹿にしている人などどこにもいなかった。
 私の夢を応援してくれる人が、いてくれたのだ。
 私が少しでも小説家になれるようにと背中を押してくれる人が、そこにいたのだ。

 私が本当は何になりたかったのかを思い出した。
 私が好きなのは、「文章を書くこと」と、「物語を創ること」だ。
 その形は小説に限ったことではない。
 エッセイも書くし、論文も書く。詩も書いてみたい。
 すなわち「文章を書く人」になりたいのだ。

 「文豪」になりたい。非常に優れた文芸家に、なりたい。自分の中にある文学を、一番キラキラした形で遺せられたら、最高じゃないか。それが文豪なのだ。
 ただし「文豪です」と自己紹介するは違う。文豪というのは他者から得られる評価によって得られる称号みたいなものなので、これを名乗ることはできない。

 今は「文筆家」と名乗ってる。正直、名前はなんでもいいとは思うんだけれど、けれど固まりつつある「自己」に名前をつけるとしたら、多分一番しっくりくるのが「文筆家」なのかなと。一番文章を書く職業の中で幅が広そうな名称をチョイスした。
 小説家でもエッセイストでもなんでもいいけれど、とにかく私は文章を書くのだ。文章で物語を描くのだ。

「あれ(研究室配属の面談の時)は覚えてるよ~。なんか、復讐心に取り憑かれてるみたいだった
 酔っ払った先生が教えてくれた。
 もっと早くに教えてくれよ。でも、気がついて良かった。

 丁寧に文章を書こうと心がけ始めた日。それがこの記事を投稿し始めた日だ。
 まだまだ書き始めだ。詰めは甘いし、誤字もまだまだ残っていたりする。
 まだまだ「文豪」の道のりは長いけれど、一歩を強く強く踏みしめたいのだ。

 長い間書き続けてきたけれど、忘れかけていた「書く」楽しさを最近、ようやく思い出した。
 2023年になって、素敵な人と出会えて、ようやっとなんで「書いて」きたのかを考えたのだ。

そして、今

 私は「文章を書く」面白さを思い出した。

「物語を作る」と「文章を書く」は違うことだ。今までの私は「物語を作る」楽しさだけに突き動かされていた。文章は、物語を言葉にするだけのものではないのだ。
 言葉って、ものすごく面白いのだ。 
 私の考えていることが言葉になって、文章になって固定されていく。
 指が自然と動く。楽しすぎないか? たまに感情や情緒がとっ散らかってめちゃくちゃになってしまう時もあるけれど。

 こんなに楽しいことはないだろう! 
 実体のない「私の物語」は「私の文章」によって言語化されていく。
 読み返して、ああでもない、こうでもないと表現を少しずつ変えていく。

 こんなに面白いことはないだろう!
 読み返して、書き直すたびに私の物語が少しずつはっきりしていく。
 この面白さに気づくと同時に、「復讐者」だった私の時を思い出して、恥ずかしくなる。

 結構最近まで私は復讐に燃えていたのだ。姿の見えない敵に向かって闇雲に虚勢を張っていたのだ。
 いつの間にか私の中で創作が「純粋に楽しむもの」から「有名になるための手段」になってしまっていたのだ。
 道具の一つとして、創作を捉えてしまっていたのだ。違うだろと。そんなんじゃないだろと。

 なぜ文豪になりたいのか。
 なぜ「小説家」ではないのか。
 なぜ趣味の範疇にとどまらないのか。

 長らく忘れていました。そして、ようやく思い出したのでした。
「面白い!」が聞きたいのだ。「感動した!」が聞きたいのだ。
 私の「面白い」と「感動」を、届けたい。
 今、ものすごく書くのが楽しい。
 今の私が、今までで一番好きだ。

至って普通の私の話

 私の過去は暗いのだろうか? 辛いものなのだろうか?
 そうは思わない。至って普通の、過去の話なのだ。
 そりゃ、まだまだ人を信じるのは怖い。自分を見せるのはとても怖い。
 でも、それはみんながそう思っていることでもないのか? と思うのだ。

 辛かったことの一つや二つ、あるもんだ。
 誰だって経験しうることを私は経験してきたと思っている。繊細すぎるくらいに繊細な私はいちいち傷ついていただけなのだ。

 でもまぁ、10代って、そんなもんなのだ。

 残酷かな、大切に抱えていたものを取り上げられて、晒しあげられてめちゃくちゃにされることもある。
 されたし、されているのを見たこともある。してしまっていたかもしれない。
 あの二次創作の漫画を描いていた子は今も元気でやっているだろうか。

 私が誰かの発言で傷ついたのと同じように、私の何気ない言葉で傷ついた人も多くいるだろう。
 私の夢がへし折られたのと同じように、誰かの夢をへし折ってしまっているのかもしれない。人って、生きてるって、そういうものだと思う。
 理不尽はいっぱいあるし、私もまた理不尽の一つでもあるのだ。

 その中で、耐え抜く人間が生き残るのだ。自分の足で踏ん張れる人間が、強いとされるのだ。けれど、耐えることがどんなに難しいことも同時にわかっている。挫けてしまう人が大勢いることも知っている。 

「今に見てろ!」って気持ちは悪いものではない。復讐心には強いパワーがある。夢を守る殻になりうる。夢を潰されそうになった時に、守ってくれるのが「今に見てろ!」という気持ちなのだと思う。
 殻が分厚くなりすぎて、自分の夢の本当にキラキラした部分が翳ってしまうかもしれないけれど。

 何度も心が折れたし、「もう書かない!」と思った時もあった。散々泣いて、散々悩んで、散々考えて、散々遠ざけて。
 でも「書かなくちゃ」と思ってしまうのだ。
 書くのをやめることは、私にはできない。できないのだ。

 自分の頭の中にあるものを文章にしている瞬間が一番楽しい。なにも浮かばない時すら、楽しい。何を書こうかなと考えるだけで、ウキウキする。
 時間を忘れて考え続けてしまう。書き続けてけまう。

 楽しすぎる。こんなにも楽しいものがあってもいいものなのか。

 考えていることを、書いて、吐き出して、読み返して、整えて、読んでもらうのだ。

 なぜ書くのか。なぜ読んでもらいたいのか。
 知ってもらいたい。そんな気持ちがあるからなのだ。

 自分を認めてほしいんじゃない。私の考えを見てもらいたい。この二つは微妙に違う。
 こんなところにこんな考えがあるよ、と。こんな物語があるよ、と。
 
それだけでいいのだ。
 こんなこと考えてもいいんだよ、と。こんな物語があってもいいんだよ、と。

 自分のために書いていると同時に、見えない誰かのためにも書いているのだ。
 それは苦しんでいた過去の私のためかもしれないし、苦しみ続けている誰かのためかもしれない。

 私の過去を、私の未来を、私の文学を。
 私の文章が誰かの癒しになってほしい。
 そんな願いが少なからず隠れているのだ。

 物語かもしれない、エッセイかもしれない、詩かもしれない、短歌かもしれない。
 色々な文字で、文章で、私の中にあるものを創るのだ。
 これが終わるまで、私は書くことをやめないだろう。

 文章で大金持ちになりたい、とかはない。ただ、ちょっとご飯が食べれて、住める場所があれば良いのだ。
 私のアイコンにあるキャッチフレーズは『屋根がなくとも、生きていく』。
 これにはそのような想いがこもっています。床さえあれば横になれるので。
 腕が何のために二本あるのか。枕にする用と雨風を凌ぐ用です。冬は寒いので布団が欲しいですがね。

「書かなくちゃ」というエンジン

 私の中にあるものを全部吐き出せるのか、おそらく答えはノーだろう。何でもかんでも書けばいいというわけでもないのだ。
 私は、私の中で輝いたキラキラしたものを書くために、文章を書いている。
 私が強く「書かなくちゃ」とエンジンがかかる時、それはものすごく素敵なものに出会ったときだ。
 それはだったり、だったり、こころmojiだったり、竹あかり(まだ言葉にできていない)だったりする。

 そんな素敵なものにたくさん触れていたい。魂が揺れる程の感動が私の「書かなきゃ」を爆発させるのだ。

 ずっと小説を書いているのは楽しいし、物語を生み出すのも楽しい。
 けれど、その感動に出会ったら最後、何がなんでも書かなくてはと思ってしまう。ご飯も寝るのも忘れるくらいに書いてしまう。時間を忘れてしまう。
 この数ヶ月、いや、ここ一ヶ月。そういうことが多い。

 これはつまり、「感動」をたくさんキャッチするようになったとも言えるし、「本当に文章を書いている」とも言える。はたまた「ものすごいエネルギーが湧いてきた」のかもしれない。とにかく、「書きたい!」が湧き上がって止まらないのだ。
 つまり、何が言いたいかというと「私は元気です」ということだ。まだまだ迷うかもしれない。まだまだ悩むかもしれない。
 でも、今までで一番書くことに向き合っている。

 これがおそらく、本来の、小説家になりたかった、物語を文章にしたかった幼い頃の私なのだ。

活動サイト

 こないなところで小説を書いてます。
 何回も作り直しているので作品数は少ないですが、これから多分もっと増えます。
 もう逃げも隠れもしませんよと。


 
 


いいなと思ったら応援しよう!

堀尾さよ
いただいたご支援は移動費やイベントの資金にします。

この記事が参加している募集