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澁澤榮一翁の東京養育院に続く江戸の社会保障
コロナの緊急事態宣言下の上、
ニッパチの商売不振月間中。
時間があるので、趣味の江戸探訪に行ってまいりました。
変わらず、江戸階級制度の最底辺に注目していきます。
明治維新後の混乱の最中に生まれた社会的弱者を救う社会保障の一つとして渋沢栄一の「養育院」が生まれた訳ですが、その歴史を辿る最初の一歩として江戸時代の「溜め」があります。
行き倒れや無宿人、病気になった囚人などが収容された場所です。管理は非人が行なっていました。
勿論、町奉行からの指示で作られた歴とした公儀御用です。
敬愛する塩見鮮一郎先生の著書「貧民の帝都」からヒントをいただいて現地へ赴きます。
ここに関わってくるのが
以前にも投稿した穢多と非人です。
穢多頭の弾左衛門
非人頭の一人 車善七
弾左衛門は浅草新町、車善七は浅草吉原に居を構えていました。
今日は浅草溜めと車善七の居宅を訪れてみました。
震災にも空襲にもやられなかった二天門も綺麗にお化粧直しをして生き生きとしていました。
さてここ浅草寺から出発です。
言問通りに向かいます。
先日参った山東京伝の机塚を右に見ながら所謂観音裏に向かうと言問通りです。
通りを左に折れて、千束通りに向かいます。
千束通りを右に。
東貴博さんの実家「らーめんコント」の先が非人溜めとも言われた「浅草溜め」です。
付近を探索してみました。
現住所は浅草4丁目交差点付近です。
それらしいものはないようです。敷地の端に
ただ唯一の僅かな痕跡として「千束社会教育館」なる福祉関係の施設が小さいながら存在していました。
新吉原に続く車善七宅
次に向かったのは浅草溜めに程近い車善七宅。
下の写真は矢印側から撮ったものです。
奥まで徘徊しましたがなんの変哲もない閑静な住宅が立ち並んでいました。
お住まいの方々がいらっしゃったらお話でもお伺いしたいと思いましたがどなたもいらっしゃらない裏路地でした。
ちなみに塩見先生が記していらっしゃる溜めの位置と私の使っている古地図アプリの年代がズレている為、溜めの位置が異なっています。
一番上の図にあるように非人寄場(三谷のような職業斡旋場所みたいなものです)や溜めはお奉行様より500坪の土地を与えられたそうです。
図で見ると車善七宅の広さと同じくらいなのがわかります。弾左衛門もそうですが一国の御大名のような収入があったとも聞きます。
彼らの生活をもう少し調べてみたいと思いました。
今日の旅はこんな感じでした。
非人頭車善七が新吉原の街につながる場所に居を構え、非人溜めを管理し、重要な社会福祉の一旦を担っていたのは紛れもない事実です。
それは明治維新後の混乱で生まれた大規模スラムや浮浪者、労務者、乞食、売春婦、孤児など、沢山の社会的弱者を救う為に生まれた養育所、ひいては東京養育院の礎になったのです。
維新後の「賤称廃止令」で自由になった被差別階級の車善七、弾左衛門は、明治政府から引き続き浅草溜めや養育所の管理をお願いもされたそうです。
次は養育院の歴史を辿ってみたいと思います。
高輪や本所、上野、大塚など。
時間はたっぷりあってお金はそんなにない私の夢想が全開です(^^)