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帝都スラム 東京養育院 その一

明治維新後、何もかもが急激に変化した時代、
その流れに取り残された人々が生活に貧窮し、帝都はスラム化、
街には乞胸や乞食、孤児、病人などが溢れた明治初頭(1870前後)
初めて養育所という名の近代日本社会保障が芽生えはじめた頃…。

徳川幕府が治めていた日本は平和だったと思います。
不満はあれど社会システムは上手く回っていたんでしょう。その証拠に往時の江戸の人口は100万人を超えていたとも言われていますから。
世界一と言われています。
下層階級から武士階級までそれぞれの役割や矜持を持って生きていた時代に訪れた開国の波。
「そのまま江戸の世が続いていれば、さぞや面白い国になったろう」などと
薩摩、長州を怨みつつあれこれ思索するのもまた一興です。

明治維新以降の日本の社会保障の成り立ちを塩見鮮一郎先生の著作を助けに巡ってみたいと思い立ちました。(表紙写真は非常に珍しいもので明治維新当初の橋の下に住む孤児たちだそうです。)

今回は板橋区大山(最後の東京養育院) とその前の豊島区大塚、養育院の元になった下谷も「浪人保育所」を廻ってきました。(歴史的には前後します)


現在の豊島区南大塚にある
都立大塚病院がその場所の一つです。(下2枚は東京都文化財情報データベースより)
その痕跡を探すために細かく廻ってみましたが、
残念ながらそれらしきものはありませんでした。

江戸時代より明治大正昭和平成令和。
ここまで時代が変わるとその痕跡を探すのは大変難しく想像力だけが味方です。

わたしの家にに程近い、板橋区大山にある
「東京都健康長寿医療センター」
ここが最後の東京養育院があった場所です。

渋沢栄一翁の銅像があります。
平成11年に都議会で「東京養育院条例」が廃止され
その幕を閉じます。

さて、時間があったので、台東区台東の東京養育院の前進になった「浪人保育所」(追って時系列に沿って整理しようと思います。)跡地にいってみました。
版籍奉還の後、お役御免で浪人になった武士階級も大変な苦労をしたようです。街には浪人による犯罪も増えたようでした。

下谷竹町は現在の台東区台東三丁目に位置しています。もとは藤堂藩中屋敷です。藤堂藩とは伊勢国津藩の別称だそうです。
矢印の方向から見た現在の写真です。
藩邸のあった場所には小さな路地以外隙間なく個人宅が建ち並んでいました。


ご覧のように普通の住宅街でした。小さく区切られた元藩邸。路地を通りながら昔日を想像しました。
生きる事が辛い立場の人たちの拠り所だったこの場所の歴史をここに住む人は知っているのかな?などと思いを巡らせたりもしました。

明治維新後の版籍奉還で、その土地を返還後、
明治政府がその利用方法の一つとして浪人保育所として運用されたそうです。その後
明治大正昭和の時代を経て、どのタイミングで庶民に分譲譲渡されたのか?
そこも知りたいと思いました。

2021年秋晴れの自転車日和の1日に
出掛けられて最高でした。
次は三田や高輪、新宿など東京の西側にあった養育院創世記を取材しようと思います。

バラバラに取材して時系列に沿ってはいないのですがそこも楽しく、最後に個人的にまとめて悦にいるのがわたしのスタイルです。

どうかご容赦ください。

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