「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史❹ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭
神となった国司信濃
慶応元(1865)年2月に須佐で益田右衛門介を祀る笠松神社が創建され、萩城内で毛利元就以下「四公」に戦勝を誓う臨時大祭が斎行されると、宇部でも変化が起きる。
益田や国司信濃と同様、禁門の変で賊として処刑された福原越後を宇部村の琴崎八幡宮に神として合祀する動きが表面化するのだ。
本シリーズⅢ「維新の真相❹」の「神となった福原越後」の捕捉になるが、宇部市立図書館蔵の『維新招魂社縁起』には、その時の様子が次の一文で示されていた。
「慶応元年乙丑五月十六日爰ニ初メテ神霊ヲ仮リニ琴崎神社エ勧請シ椿郷神社ノ祀官青山下総ヲ召集シ祭典ノ礼ヲ行フ祭主ハ嗣子福原五郎也」(「維新招魂社年代沿革記」)
慶応元年5月16日に福原越後の招魂祭が琴崎八幡宮で行われたときの祭主「福原五郎」が福原越後の跡継ぎである福原芳山のことであった。また、招魂祭を斎行した「青山下総」が萩椿八幡宮の第9代宮司・青山上総介の変名だった。
このとき青山は、山口明倫館文学寮編輯局の国学者でもあった。
すでに見たように、彼こそが明治維新後に上京して靖国神社の初代宮司になる青山清のである。 ちなみにこのとき用いた「青山下総」の変名は、文久3(1863)年末に山口明倫館の編輯局に提出した『大八洲廼調(おおやしまのしらべ)』でも使っていた。国賊として刑死した福原越後を産土神社で神とするなど非合法活動の最たるもので、徳川幕府が知れば長州藩自体が危うくなる行為だった。
ところで琴崎八幡宮への福原越後の合祀直前であった慶応元年5月8日のこととして、吉敷郡上郷の豪農・林勇蔵の日記(『小郡町史史料集 林勇蔵日記』)に「福原駒之進様 九日 山口御出立ニして宇部え御引越」と見える。
宇部での招魂祭を準備するため、越後の嗣子である福原芳山は1週間ほど前に山口城から宇部に引っ越したようだ。
一方で琴崎八幡宮での招魂祭から1ヶ月が過ぎた6月15日の林勇蔵の日記には、「福原駒之進」こと福原芳山が小郡の郷勇隊の「稽古」を見学し、柳井田の武波平左衛門の家で「小休」したと記されている。
福原越後を神として祀ったことで、討幕のための軍事訓練が開始されたのであろう。
実際、5か月後の11月1日の林勇蔵の日記には、「真光寺へ福原農兵着」とあり、「宇部農兵御家来銃陣」の訓練が小郡の下郷津市の真光寺で行われた様子が伺える。
刑死した三家老の残る一人は国司信濃であった。
その国司も、福原越後の琴崎八幡宮への合祀(招魂祭)から1ヶ月後の慶応元年6月15日に、采地の万倉村で神として祀られるのである。
そのときの様子が、『国司信濃親相伝』に美登理神社の「神体代替の経緯」と題して次のように記されている。
「美登理神社の神体は親相の遺志により、時の神職河本若狭が〈跡たれて〉の短冊と志津の兼光の短刀を国司家から受けて、慶応元年(一八六五)六月十五日山口の神職佐甲但馬を請待して鎮祭、神号は若狭の父河本越前により美登理神社とされた」
招魂祭を行った佐甲但馬(さこうたじま)は青山上総介(青山清)と同じ山口明倫館の国学者であった。その佐甲が万倉の国司家居館地で招魂祭を行い、国司信濃を祭神に祀る美登理神社を創祀した。いま、奥万倉の伊佐地のバス停近くに残る国司信濃居館跡の奥に鎮座する小祠が、その美登理神社である。
御神体は遺書に従った前掲の「跡たれて…」の短冊と、生前に愛用していた兼光の短刀だった。 『益田 福原 国司 清水 四大夫履歴』(山口県文書館蔵)によれば、6月15日は三家老に対して「藩主其冤を憐ミ罪状ヲ取消」した日と見える。
したがって国司は毛利敬親が罪を消したタイミングで神となったのである。
美登理神社の祠の前に建つ一対の石道燈籠と石鳥居には、それぞれ「慶応三年丁卯六月吉日」の文字が確認できる。
この時期から12月の王政復古の大号令までの半年間が、幕府勢力と討幕派が神経戦で対峙するもっとも深刻な時期である。年が明けた慶応4年は明治元年で、新年早々に鳥羽・伏見の戦いがはじまるからだ。
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