戦争の記憶~祖父の書より~
今年2020年は戦後75年という節目です。私の祖父は陸軍士官で、戦時中は偵察機のパイロットをしていました。幸いにして特攻隊には組み入れられませんでしたが、士官学校の同期生の多くは特攻隊として若い命を散華させたとのこと。それだけに、戦争について考えるところは非常に多く、またあまりもの残酷さ故に、孫である私には殆ど語ってくれませんでした。
先だっての7月7日の七夕の日が祖父の10回忌でした。新型コロナの影響で帰郷できませんでしたが、改めてここに祖父の手記を紹介し、二十歳そこそこの若者があの戦争の時に何を考えていたのかを残しておこうと思います。
吐噶喇(トカラ)海
壱
昭和19年11月、私は岐阜県のとある裏通りの眼鏡屋で、色眼鏡を一つ買った。度のないものを、そして色は薄茶を選んだ。それから、どこに行くあてもないままデパートに入ってみた。もうこの頃は、デパートのショーケースにも目ぼしいものはあまり残っておらず、若い女店員の姿もみられなかった。その中に、家具調度品などの売れ残りにまじって、絹に描いた虎の日本画が、無造作にならべられていた。私はその中から一枚を選んで買った。
それから、部隊の宿舎への帰途、通りかかった薬局で、思い出したように、ハリバ軟膏と香水を買った。
もうこの頃は、比島戦線の戦況は日に日に悪く、特攻隊の突入がしきりに報じられており、私の所属する偵察飛行戦隊も比島へ出発する日が近づいていた。
南方では害虫に刺されたり、皮膚病にかかりやすいから、軟膏を一つ持っていたほうが良いという話を、先輩の誰からか聞いていたのである。それから、香水の大瓶はずいぶん高価であったけれども、部隊の宿舎に起居していて、給料や搭乗手続きの使いみちもなかった独り身にとっては、たいした買い物とも思われなかった。
香水は、死んだ時、ふりかけてもらおうと言うのである。南方戦線では、屍体は早く腐敗するに違いない。火葬がすぐできない場合もあるだろう。そのような時のために、たしなみとして一つは持っておけとは、これも先輩の教えであった。ペンとノート、肌着、地図のほかには大した見廻り品も持たなかったが、それらの中に軟膏と香水をおさめた。
虎の絵は、「戦利を往きて還る」縁起をかついだつもりであった。それを飛行服の内側に自分で縫いつけた。
岐阜の各務原飛行場は、古い飛行場で狭く、着陸速度の速い新鋭機にはとても使いにくかった。それに、すぐ隣の各務原航空廠の滑走路から離陸してくる飛行機が、すぐ近くを上昇して行く。それに加えて排水が悪く、雨が二日も続くと翌日は使えなかった。
雨が上がり、やっと訓練を開始したある日、中隊指揮所にいた私は、K中尉機から、片車輪がどうしても出ないと言う無線連絡があった事を知らされた。
片車輪が出なければ、出ている方の車輪だけで着陸する以外に方法がない。私たちは、これまで何回も片車輪着陸を見てきた。そして、それは、プロペラと翼端の一部を破損するだけで、搭乗者は負傷もしないですんでいたのである。
片車輪着陸と言っても、特別の方法があるわけではない。平常の降下姿勢で着陸コースに入ってきて、普通の着陸操作と同じように、操縦桿で機体を支えて、車輪をそっと地面につける。着陸滑走の途中、翼に浮力がなくなると、車輪の出ていない方の翼が地面に接触する。ここで翼を地面に引きずりながら大きくふりまわされて止まる。
このような過程で、今度もなんとかうまく切り抜けられるだろうと思ってK中尉の着陸を待った。
やがて、東の空に機影が見えはじめ、第四旋回を終えてフラップを開き、片車輪を下げて着陸コースに入ってきたK機は、やや速度が早く、コースもやや高かった。この狭い飛行場にこのまま着陸するのは危険だと思った瞬間K機の片車輪がぬかった地面にふれた。こんな場合、普通は軽くバウンドして数十メートル先に再び接地するのに、K機はそのままのめり込むようにして機種を地面に突っ込み、尾部を大きく持ち上げ、両エンジンの周囲から真っ赤な焔をふきだしながら転倒した。ほんの一瞬の出来事であった。
機体が一面の焔につつまれるのを見ると、私はただちに事故を部隊本部に電話で急報して飛行場に飛び出した。操縦していたK中尉は、駆けつけた同僚に取り囲まれていた。彼は飛行服の膝と肘に泥がついているだけで、大して負傷したようでもなかったが、狂気のように「A少尉は!A少尉は!」と叫びながら、燃えさかる焔の方にかけ戻ろうとして同僚に取り抑えられていた。彼は、偵察席に同乗していたA少尉の安否を、必死になって気遣っていたのであった。私たちは、現場に到着した自動車に、無理に彼を詰め込んで病院に送り込んだ。
飛行機は、エンジンを構成する鉄製の部分と、翼端、尾翼の先端とだけを残して、全て燃え尽きた。デュラルミンの機体は、ガソリンの焔の高熱によって、マグネシュウムのように燃えてしまうのである。K中尉は全く幸運にも機体が転倒する瞬間、操縦席のガラスがいっせいに破れて飛び散り、大地に放り出されたのであった。
夕闇が迫っていた。狭い霊安所には、天井からひとつの裸電球がつり下げられていた。その下、土間にしかれた敷物の上に、一つの黒焦げのかたまりが置かれている。私はただひとりで、それを見守っていた。どこにも人の膚の色が見いだせない。手で触ってみると、炭化した表面は、まるで石ころのようであった。軽くゆすってみると、ゴトゴトと不安定な置物のように音を立てた。よく探してみると、僅かに一ヵ所、拇指の先くらいの大きさに膚の色の残っている部分があった。
焔の中で、身をよじらせて苦悶したであろう。手も足もちぢこまってしまって、どこが頭かどこが足か見分けのつかない焦げようであった。これがA少尉の遺骸であった。
晩秋の冷たい夜気が、いつか部屋のなかをおし包んでいた。供物、葬具などを求めに行った同僚たちは、なかなか戻ってこなかった。
弐
宮崎県新田原飛行場は陸軍航空の補給基地であった。南方戦線へ出発する航空部隊は、ここに最後の翼を休めた。私はここで、同期生H少尉に会った。彼は特攻隊長として、3名の部下を率いて、比島へ前進する途中であった。兵站宿舎の彼の部屋には、白い布に包まれた遺骨が安置してあった。彼の部下の一人が、この飛行場の近くに墜落して殉職したと言う。
私と彼とは、同じ教官から操縦を習い、同じ練習機に乗り、同じ食卓で飯を食った仲であった。卒業する時、私は偵察機に、彼は戦闘機にと、別れて以来八ヶ月ぶりの再会であったが、この八ヶ月の間に戦況は予想を超えて急速に悪化し、特攻攻撃が開始され、私と彼とは、全くその境遇を異にしてしまっていた。
彼の部屋で、同期生達たれかれの消息を語り合いながら、話題の途切れるのを、どうする事もできなかった。
彼の部下は、学徒出身らしい飛行時間もさほど長くない人達のようであった。この技量も充分でない部下を率いてこれから千二百粁もの天候の悪い洋上を台湾へ飛ばねばならない。戦闘機にとっては、これはかなり苦しい飛行である。彼にとっても、おそらくはじめての洋上長距離飛行であるに違いない。
台湾から更に、敵戦闘機の跳梁する中を、比島の航空軍司令部に3名の部下とともに、無事に到着しなければならない。それだけでも大変な事なのだ。
しかし、彼があらゆる困難を乗り越えて比島に到着しても、そこには確実な死が待っているだけである。急迫した戦況のもとでは、すぐ突入が命じられるだろう。
人間が、あらゆる困難を乗り越えて力を尽くすのは、前途に明るい光明を見いださんが為である。だが、彼の場合、それは確実に一歩一歩、市に近づく事を意味する。
それにくらべて、私が、高々度飛行を、超低空飛行を、長距離洋上航法を、あるいは敵飛行上空の侵入離脱を練磨するのは、生きぬくためである。私にはまだ、生きるために努力する余地が残されている。
あるいは、私のほうが彼よりも先に死ぬかもしれないのである。一門の機関銃も、一枚の防弾鋼板も装備していない丸裸の偵察機で、しかも単機で、敵飛行場上空に乗り込まねばならない私のほうが、危険ははるかに大きい。いやそれよりも、これからの比島までの途上で、不意に敵の艦載戦闘機の襲撃を受ける事にでもなれば、撃墜される事はまず間違いない。
しかし、如何に危険が大きくても、私は最後の瞬間まで生きようと希望し、生きようと努力することができる。
なんと大きな違いであることか。
人間にとって、生きる希望を持つことが出来ると言うことが、如何に大切なことか、暗然とした気持ちで思い知ったことであった。
髭のそりあとの青々とした丸顔のHは、伏眼がちで多くを語ろうとしなかった。私もまた、なにか言葉を口にすればそれは、そらぞらしい言葉になってしまうように思えた。
それから数旬の後、昭和19年12月21日、比島ミンドロ島沖に、殉義特攻隊長として突入した彼の記事が新聞紙上に報じられた。
その年もおしせまった12月末、航空廠から補充の飛行機を受取り、積めるだけの整備資材と写真機材とを積み込んで、先行した部隊本部を追って、私もまたこの飛行場を飛び立った。
冬枯れの宮崎平野に、温かい陽光がふりそそいでいた。霧島の山地を遠く右に見て、海岸線に沿って南下した。
都井岬上空を過ぎ、海上に出ると、海に迫って赤茶けた山肌を見せる大隅半島の荒々しい風光と、鉛色の冬の海とが、これからの前途の苛烈さを思わせた。
佐多岬をすぎる頃には、北西季節風に伴う冷たい雨気を含んだ密雲画、海面低くたれこめて、冬の南西諸島特有の険悪な気象が待ちうけていた。
高度を下げて、ある時は僚機が見えなくなるほどの雨しぶきの中を、ある時は海面が白く輝いてみえる僅かな日差しを目ざして、ある時は海面近く、ある時は雲底すれすれに、一路南へ飛んだ。
屋久島は、雨雲の中にすっぽりと姿をかくして、岸に打ち寄せる波頭が白くくだけていた。ここをすぎると、臥蛇島、悪石島、宝島など、孤島がうかぶ臥蛇島海である。
参
昭和20年4月1日、米軍は沖縄に上陸した。
上陸後旬日を経ぬうちに、飛行場周辺の様相は一変した。滑走路は拡張され、誘導路は新しく作られ、中小型機が所せましと並べられた。偵察飛行によって得られる航空写真からは、日々一大要塞と化して行くのが読み取られた。大小の艦艇はもとより、大型輸送船が周辺の海を圧し、浮きドックまでが回航されてきていた。
私の部隊は、肘まで壊滅的打撃を受けたあと福岡市蓆田飛行場(現在の板付)を基地として、第六航空軍司令部のための沖縄偵察に従っていた。
偵察機の機体中央に、焦点距離五百ミリの大型自動カメラを下向きに取り付けて、敵地の上空を一航過で通過して連続120枚の垂直写真を撮影するのである。
この写真によって、配備されている敵機の機種、機数、対空火器陣地、集積されている資材、艦艇の種類など、精密な敵状の判読が可能であった。
福岡から、片道九百粁の洋上を飛んで、沖縄島の東北端から侵入し、伊江島飛行場、北飛行場、中飛行場を経て、慶良間列島までのS字型にならんだ目標の、直上空を通過して沖縄島西方海上に離脱し、敵戦闘機の追尾を振り切ってから、機首を北に転じて帰途につくコースがとられた。
武装を全くもたない偵察機でしかも単機で、敵飛行場群のまっただ中に侵入するのであるから、危険この上もない。そのため、進入高度を次第に高くするようになり、沖縄戦の頃には、一万メートル乃至一万二千メートルまで上昇するのが常であった。
ところが、こんな高高度では、常に時速50粁乃至100粁の強い西風がふいており、これに逆らって飛ぶため、敵地上空での滞空時間が長くなり、したがって、敵戦闘機に捕捉される危険も大きかった。
それまで、誰も試みた者がなかったが、私はこのコースの逆を飛ぶことにした。いかにも、台湾に向かって飛んでいるかのように、沖縄の南西海面まで行き過ぎてから、急に機首を東方に転じて、強い西風に乗って従来よりもはるかに速い対地速度で、一気に沖縄上空を駆け抜けようというのである。
蓆田飛行場を離陸すると、すぐ背振山を越え雲仙岳の直上を通るコースをとった。これは従来のコースからかなり西に偏っている。甑島を左下にみる頃、高度六千メートル、洋上に点在する宇治群島付近で八千メートルに達する。その更に南、草垣島付近には、いつも、敵のレーダー艦と思われる水色の小型艦が、S字航跡を描いて遊弋しているのがみられた。
沖縄西方四十粁の慶良間列島は、座間味島、阿嘉島、渡嘉敷島などが、船団が集結するのに理想的な泊地を形作っている。
火山島特有の切り立った海岸線、その中の美しい緑の海をうずめて、舷側が高く幅の広い輸送船、舷側が低く細長い巡洋艦、駆逐艦、舷側が低く幅が広く大きな砲塔をそなえた戦艦、その間を小型快速艇が真白い航跡を引いて行き交い、その上を直掩の戦闘機群が、銀色の翼を輝かせて飛んでいる。米軍の物量の限りを投入した壮大な景観であった。
左エンジンの真下に、慶良間列島が見える位置に到達すると、いよいよこれから敵地上空に進入するわけである。静かに左旋回して機首を東に向けてゆくと、左翼の下に慶良間列島がかくれてゆく。この旋回が終わったとき、機は慶良間列島の直上に侵入している筈である。
私は、ゆっくり動いていく羅針盤に時々眼をやりながら、迎撃戦闘機の索敵に全精力を集中した。
西風に乗って、予想以上に速く飛んでいるらしい。それは、那覇沖から嘉手納にいたる沖縄本島の西海岸が、ぐんぐん近づいて来ることで知れた。そして、この海岸もまた、おびただしい艦船群、舟艇群でうずまっていた。
慶良間列島の撮影をおわり、徐々に機首を北東に向け、中飛行場上空にもうまく進入して、次の北飛行場に侵入する時になって、私は重大な誤算に気づいた。それは、あまりにも機速が大きすぎて、ここで思い切り大きな左旋回をうっても、とても北飛行場上空には正しく進入出来ないことであった。
最大の目標である北飛行場の撮影を止めるわけにはゆかないので、やむをえず、ここで左方向に360度旋回を行って、改めて進入し直すことにした。しかし、敵地上空に進入してから、かなりの時間を経過しているので、すでに敵のレーダーに捕捉されて、迎撃戦闘機が上昇してきているに違いない。ぐずぐずしていると、旋回半径の小さい戦闘機に、すぐ追いつかれてしまう無謀きわまりないことであった。
上昇限度一杯の一万二千メートルの高度にからくも浮いている機体は、360度旋回にはいると同時に、高度計の針がみるみるうちに逆回転して、高度を失っていった。まるで逆落としにすべり落ちるようであった。旋回を終わって、北飛行場の直上に正しく進入したときは、約千メートルもの高度を失っていた。
命ぜられた全目標の撮影を終わると、そのままの高度で全速飛行を続け、沖縄島北端の辺土岬をすぎてから、尾部を左右に振って、後下方から追尾する戦闘機の無いことを確かめてから、ようやく速度を落とし、危地を脱したのであった。
これまでに、この空に幾人もの同僚が消えていた。私が、無謀な360度旋回をあえてしても無事だったのは、敵が本気で迎撃しなかったからにすぎない。もうこの時期には、偵察機がわざわざ見てこなくても、沖縄周辺の海も陸も飛行機や艦船で満ちあふれていた。それにくらべて、我が第六航空軍が、全力を挙げて攻撃すると称して動員できる爆撃機は僅かに十機内外にすぎなかった。我が方の航空戦力は、すでにそこまで低下してしまっていたのである。
人間と言うものは、一度信じこんだら、容易に考えを変えぬものであるらしい。
沖縄周辺の、おびただしい艦船群と航空戦力、浮きドックまでも回航してきている厖大な物量とをこの眼でみても、またそれにくらべて、わが航空戦力が、特攻につぐ特攻を投入しながら、日に日に枯渇していくのを見ても、なお私は、最後には必ず勝つと信じて疑わなかったのであった。
肆
昭和20年8月15日
朝から警報の発令のない奇妙に静かな日であった。
正午、天皇のラジオ放送があるというので、宿舎の横の庭に古びたラジオを持ち出して、中隊長以下僅かの人数が整列して待った。
激しい雑音の間から、とぎれとぎれに聞き取れる変わった抑揚の声は、戦争の終結を告げていた。頭上から真夏の太陽が照りつけ、焦げるような午後がはじまろうとしていた。
午後3時半頃、戦隊本部から、あわただしく帰ってきた中隊長に呼び出しを受けた。航空軍司令部の命令で、日向灘の敵機動部隊を捜索せよということであった。空母を主力とする機動部隊がいるらしいという極めて不確実な情報があった模様だが、それ以外の情報は全然与えられず、しかも、洋上捜索の基本である捜索基点の指示もなければ、捜索経路の指示もなかった。
私のために急いで準備された飛行機は、かねてから羅針盤が狂っており、北向きに飛ぶ場合約30度の誤差があって、しばらく使用していないものであった。私はその事に気付いていたけれども、あえて気に留めなかった。東、南、西に向かって飛ぶときの誤差が普通程度であれば、何とかなるだろうと思った。写真機も必要なかった、酸素呼吸装置と、無線機さえ整備されておれば、それで充分であった。飛行計画も立てなかった。いつもの使いつけの地図1枚を持って出発することにした。敵機動部隊を発見できれば、その位置と艦船の数とを無線報告すれば任務は終わるのだし、あとは帰って来ても、来なくても良いのだという気持ちであった。
午後になって一段と多くなった積雲が陸地を覆いはじめていた。真白い雲の輝きを色眼鏡にさえぎりながら、機首を東から南東に向けていくと、、雲のすき間に中津の飛行場が見えた。積雲から積乱雲へと発達して湧き上がってくる雲をぬいながら、なおも南下すること約30分、雲の谷間に十字路の滑走路が見えた。宮崎海軍飛行場である。ここを捜索拠点として、高度を上げながら東南東に向かって洋上捜索にはいった。
洋上捜索は、海岸付近の著明な目標を基点として会場に扇形のコースを飛び、再び基点に戻ってくる方法がとられる。私はできるだけ広い海面を視野に収めるため、一万メートルまで高度を上げた。
海は全くの凪であった。水平線までゆたかな広がりのなかに、小さな積雲が点々と浮かび、潮目が海面にうねうねとつづいて、水平線は空と海と雲が一つにとけ合ってかすんでいた。
洋上に出て約1時間、すでに機は室戸岬南方役三百粁の位置に達しているはずである。しかし視界の及ぶかぎりの海面は、機動部隊はおろか漁船一隻見えぬ無人の海であった。
ここでは敵戦闘機に対する警戒は必要なかった。快調な廻転をつづける両方のエンジンの音も耳に入らなかった。左右に張った翼は、思い切りさし伸ばした私の手のようであった。あの翼の先端まで私の神経がゆき届いている。操縦桿にほんの僅かの力を加えるだけで、翼は敏感にそれを感じて姿勢を変えてゆく。機を静かに旋回させると、すでに傾きはじめた太陽を翼がさえぎって、操縦席が淡い灰色につつまれる。大洋のまっただ中、広い天と海の間の静寂そのものの世界であった。西、九州の方に機首が廻っていくと、遠く陸地は見えないけれども、そこには巨大な積乱雲のかたまりが立ちはだかり、傾きかけた大洋を背にしてオレンヂ色に燃えさかっていた。
機首を南南西に向けて、捜索コースの第2辺に入っても船影一つ発見できなかった。
もし、この海域に敵機動部隊がいるとすれば、補助艦艇まで含めて相当の海面を占めるに違いない。それに護衛の艦載戦闘機も飛んでいるはずである。極めて良好な天候に恵まれた高高度からの捜索で、何も発見できなかったのだから、この海域には敵機動部隊はいないと判断した。
そこで、宮崎に戻るのをやめて、機首を西日向けて屋久島南方海面まで捜索を延長した。
屋久島を、すっぽりと包み込んだ巨大な積乱雲の塔は、昼間の精気を失って、灰色の霧のかたまりとなって、崩れ落ちようとしていた。すでに太陽は、西の、雲とも海ともつかぬ彼方に没して、海は、いぶし銀のようなやわらかな光に変わっていた。
機は吐噶喇海にさしかかっていた。
私は、ここで捜索を打ち切ることにした。
と、一瞬、私の脳裏に、沖縄島とその周辺の海域にきらめく煌々たる夜景が浮かんだ。そうだ、これから沖縄に行こう。すでに夜に入っているだろう。そこでその中の最も大きな目標に突入して死のう。そう思った瞬間、しかし私の操縦桿は翼を大きく右に傾けて機首を北に向けると、暮れなずむ大隅海峡へと一気に高度を下げて、かけおりていった。
夏の一日が終わろうとしていた。気だるい夏の夕暮れの海に硫黄島の煙が、不気味に黒々と漂っていた。
長崎鼻をかすめて錦江湾にすべりこむと、私はふと現実にかえったように、羅針盤の狂いを思い出した。夜に入ってこれで福岡まで正確に帰ることは、到底不可能であった。今はもう何としても、飛行場を見つけて着陸しなければならなかった。
錦江湾も一面の雲であった。その下を這うように飛びながら、薩摩半島の海岸段丘をひょいと飛びこえると、静かな水をたたえた池田湖に開聞岳が黒々と影をおとしていた。そして、そのすぐ右、青黒く広がる緑の中から、知覧飛行場の場周灯が私の眼を射た。
幾人もの同僚が、飛び立って行ったまま、一片の無線連絡もなく消息を絶って、次々と身辺から姿を消してゆく中に身をおいていると、死は、身近なもののように思えてくる。
吐噶喇海上空で捜索を打ち切ったとき、たしかに一瞬、沖縄に行こうという思いが、脳裏をかすめたのであった。だが、いざその場に臨んでみると、死は、とても、そのように、なまやさしいものではなかった。
以来二十六年、この日の記憶は、重苦しく私をとらえてはなさない。
昭和46年 記