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ごみ拾いボランティアによってアップデートされつつある自分自身の価値観

身近な存在の人に触発されて、「私も何かボランティアをしたい」そういう衝動に駆られた。
その人は、NGOの事務局長を長年続けたのち、フリーランスとなってNGOを中心とした経営コンサルやアドバイス、調査などの事業に携わりながら、ボランティアをしながら旅をしている。
水害で壊れた家の簡単な修復だとDIYでやってのけてしまう。
8月~10月まで約70日にわたる北海道のバンライフを終えたその人は、今年の夏に水害で浸水した青森のおうちの修理に携わっている。

その人が、ボランティアをしている姿を見聞きするにすれて「私もやりたい」と思いう想いがこみあげてきた。
ただ、ひごろ仕事もある中で、ボランティアのためとはいえ、週末1泊2日で青森に行くのは、ハードルが高い。
そんなことを話したら、「その気持ちは嬉しい。もっと身近にスタートできるところから始めるのもいいんじゃない?」

その言葉をきっかけに、ごみ拾いボランティアを始めた。まさに1人で30分~60分、ごみ袋と手袋、ヒバサミを手にもって、家の近くをごみ拾いながら歩くというシンプルな手法。
なんだけれども、ごみを拾うことで見えてくるものがある。
一番は、何よりも、「ごみは拾っても拾っても、なくならない」ということだ。
何度拾っても、たばこの吸い殻は落ちているし、「さっきそこ通ったよね?」という場所にも至る所にごみが見られる。
それを見るとなんだか悲しい気持ちになるのだけれども、1つ気づいたことがある。
・私がこうやって散歩しながらごみ拾いして、達成感や満足感を感じられるようになるために、ごみは落とされているのかもしれないなと。

究極の考え方かもしれないが、そう考えると、ごみを落としてくれる人には感謝できるかもしれない。
私だって、今まで道端にごみを一度も落としたことがないとは言い切れない。
風に飛ばされたごみをそのままにして放置してしまったことはある。
マスクが気づけばなくなっていたということもある。
だから、私だってごみを捨てる人になりうるのだ。
だから、せめて、自分に余裕があるときはごみを拾えばいい。
ごみを拾うことで、「今日もいいことやった」という小さな達成感や優越感を感じるためには、ごみが必要なのだ。
ごみが道端に一つも落ちていなければ、「今日もいいことやった」という感覚は得られない。
道端に落ちているごみを見つけたら、「よし、今週末またごみを拾おう」と思うことができる。
そういう風に考えれば、ごみを落としてくれる人にだって感謝すらできる。
そう、こう考えることが、ポジティブシンキングの第一歩なのかもしれない。
ネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに捉える。
目の前の事実は1つ。でも解釈は無数。
そのことに気がつけた。
小さなことからでいい。「ハッピー」「幸せ」と思える瞬間や一コマを見つけて、つづっていこう。
そうすれば、きっとそれが積もり積もって、毎日がハッピーだと思えるようになる。


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