【体育祭】これだった 体育祭の 感動は
パラリンピックをみていると、ただただスゴイと感じるとともに、すぐさま後に打ちのめされる。私なんか、目も見えるし、耳も聞こえるし、両手両足も動くのに、なんと漫然とした毎日を生きているのだろう。彼らアスリートは「できない」とか「むずかしい」とか言わない。ひたすら苦しみを喜びに変える練習に人生を傾ける。
パラリンピックをみて「勇気づけられた」なんていう感想を漏らしている人には、一体どんな勇気が湧いているのだろうか。私なんか、勇気が湧くどころか、ほとほと自分がイヤになる。私はすぐに「できない」とか「むずかしい」とか言っては、苦しみを喜びに変える練習を怠っている。私はパラリンピックの期間中、そんな自分を本当に嫌い続けたあと、自分を嫌うことにも疲れてきたところで、自分の嫌いなところを1つずつ無くしていく練習から始める。
「自分を好きになる」には、まず「嫌いな自分」をとことん知り、泣きながらそれを1つひとつ克服していく工程が必要である。「自分の好きなところ」を増やす練習ができる余裕は、その工程を経てから徐々に生まれてくるものである。
人間がただ走ったり、跳んだり、泳いだりしているだけなのに、それをみた私が涙を流すのは、その人間が只者ではなく神様から与えられた試練から逃げていないからである。そして、まずはその人の見事な生き様に「感涙」を流し、次にその人に比べて実に不甲斐ない私の生き様に「悲涙」を流し、泣き疲れたあとで「さて、私の試練は何だ?」と自問自答するのが、私にとってのパラリンピックの見方である。
オリンピックの辛気臭さをパラリンピックの感動が洗い流してくれた。溜飲が下がる思いがした。高校の体育祭でもワクワクしたのに、世界最高レベルの「体育祭」がこんなにもワクワクしないものなのか?この疑問に「そんなことはない」と眩い光を放って答えてくれたのは、やはり選手の「重み」「真剣さ」「迫力」「本気の力強さ」だった。これについてはオリンピックも同じだ。オリンピックが辛気臭かったのは選手のせいではない。
私たちの生きる社会では「多様性を受け入れること」(みんなが違っていて当たり前ということ)と「共通の目標に向かうこと」(みんなが同じになろうとすること)の両方が求められる。この2つはハッキリ言って矛盾する。矛盾するけど、ただ1つ「多様性を受け入れる」という価値観だけは「共通の目標」にしようという1点においてのみ、例外的に矛盾を克服しようではないか、というのがオリンピック・パラリンピックの精神なのだと私は受け止めている。
まず、多様性を受け入れるという“約束事”の下に私たちは集まる。次に、その“約束事”を破る人々、つまり「ルールを守らないという価値観を持った人々」までは「多様性の1つ」として仲間に入れるわけにはいかない。それは「受け入れるべき多様性」の範囲外と決める。そして“約束事”に合意する人数を増やしていき、その人数規模が地球の大半を占めるように力を尽くす。これをスポーツの世界で具現化しようとしたのである。だから、胡散臭い連中が対象メンバーに含まれていても「平和の祭典」と言い続けなければならない宿命なのである。
「多様性を受け入れる」という崇高な目標には常に限界がつきまとっている。多様性を受け入れ過ぎてしまう社会では、共通の目標に向かって組織の円滑な運営に真面目に協力してきた多くの人が犠牲を払う形になりやすい。平たく言えば「一部の変わり者」が「変わり者だって多様性の1つだ」という権利主張をしはじめたとしたら、彼らに明らかなルール違反がない限り、その権利を認めざるを得なくなる。従って、共通の目標へ向かうために組織としての求心力を保とうとすれば、“指導者”はルールを厳しくしようとする。結果的に、今まで権利主張もせずにルールを順守してきた人までもが、ますます窮屈なルールに縛られるという犠牲を払うことになる。
マイノリティに光を当てるのは歓迎すべきことだが、その光の強さは、圧倒的多数の“普通”の市民が影に隠れない程度であることが望ましい。しかし、その光の量を調節することはものすごく難しい作業だから、それを私たちは“指導者”の役割に託しているに過ぎない。指導者とは常にその信託を意識した者でなくてはならない。
体育の先生は、陸上でも水泳でもサッカーでもバレーボールでも柔道でも、あらゆるスポーツの国際試合が行われるたびに繰り返し教えてくれた。
「民族も宗教も異なる状況の中、競技のルールとフェアプレーの精神だけはたった1つにする。そんなふうに簡単に言うけど、世の中にはいろんな人がいて、あらゆる場所でバラバラな考え方をもって社会生活を営んでいるんだ。そんな世の中で、例えば、将来キミたちが民間企業に就職する道を選んだとしたら、わざわざ個性と個性が集まって、共通の経営目標を達成しようとするのだから、これはもう大変な仕事なんだ。やってみたら分かる。チームワークが良く、業績が良く、従業員のほとんどが大満足で働いている理想的な会社にしていくってことがどんなに困難な所業かっていうことがな。ましてや、将来キミたちが経営者になる道を選んだとしたら、基本的に選手は1人ひとり皆バラバラなんだという前提を常に忘れることなく、それでも1つにまとまって勝てるチームを編成していかなければならない。君たち高校生くらいになると、監督って大変な職業なんだってことは感覚的に理解できるだろ。」
体育の先生は、私たちに「体育の授業から何を学ぶのか」を明らかにしてくれたのだった。「キミたちさあ、まさか、基礎体力をつけるために体育をしていると思っていたの?それじゃあ、ホントの『体育バカ』じゃん。筋トレだったら一人でもできるっちゅうの。スポーツは仲間がいないと出来ません。団体で戦う競技はもちろんだけど、一人で戦う競技でも相手がいないと試合ができない。そして試合の相手は自分を高めてくれる仲間でもある。苦しくても『自分は一人じゃない』と思うと同時に『自分に何ができるのか』と仲間を思いやる。リーダーになったら全員を思いやる。人生に不可欠なことなんだけど、さすがにこういうことだけは机上よりもグラウンド上のほうが習得しやすいんだな。いいか、キミたち、『体育バカ』にはなるなよ。」
そうか・・・オリンピックもパラリンピックも「苦しくても仲間を思いやって懸命に生きている選手の姿」に「自分のありたい姿」が重なって感動するのだろうな。
相手がいないとできないこと・・・そうか・・・アレもそうか・・・などと考えていたら放課後となった・・・つづく