【地学】南海も 回り回れば 北の海
父母も他界し、兄弟も親戚も居ないし、結婚も諦めた。生きているうちに住む家も、死んだ後に住む墓も、すでに持っている。とっくに住宅ローンも完済した。こういう人間は、生活を維持するための日用品以外に欲しいモノやサービスが全く無い。そして、こういう人間でも生活を維持するために収入を得る必要がある場合、その手段として自分にとって不要なモノやサービスを売る仕事に関与せねばならないのが辛い。「私が客ならこの商品は断る」という思いと葛藤しつつ、自分と同じ思いかもしれない他人に対して押し売りを続けなければならないからである。その点、「どうせ働くなら、自分にとっての必需品を作っている会社に入れば、サラリーマン生活が多少つまらなくても長続きするだろう。」と就職に際しての助言を下さった大学の教授にも、それを受けて熱心に企業研究をした過去の私にも、感謝している。ところが、もはや今の私は「必需品を作っている会社」にも飽きてしまった。週に5日もフルタイムで労働し、企業のために人生の残り時間を犠牲にしてまで収入を得る必要が無くなったからである。そりゃそうだ。家賃もクルマも扶養家族も無い。ギャンブルも派手な遊びもしない。もう遠方への旅行にも興味が湧かないし、娯楽といってもテレビさえあれば十分。贅沢さえ望まなければ、老後まで困らないくらいの資産目途は立っているのだ。
こんな私でも、もちろん過去には欲しかったものに満ちていた。少なくとも母が他界するまでの間は、母に余生を愉しんでもらうための収入を欲していた。大学生の頃は大企業の正社員への切符を手に入れたかったし、中高生の頃は有名大学への切符を手に入れたかった。上昇志向とか出世欲とかの類では無く、単純に貧乏だったからである。
その貧乏な家に育った私が小学生の頃に欲しかったものは何だったのだろう。そんな取るに足らない事を考えながら、靴を磨く日曜日。「明日、会社に行きたくないなあ」と心の底から嘆きつつも、明日の朝出勤するための靴を磨く矛盾がさらに嘆かわしい午後。薄くクリームを塗ってブラッシングする。あとは軽く襤褸でツヤ出しをするのみ。あれえ…おかしいなあ…玄関の端っこに古い手拭いがあった筈なんだが…。ああ、埃が付かないように下駄箱の脇に仕舞ったのだったな。と、戸を引くと、勢いよく開いたせいか、滅多に覗かない下駄箱の奥に道具箱の類が幾つか並んでいる様子に気を奪われ、手拭いのことなど下駄箱の脇ならぬアタマの脇へと追いやられてしまう。それら箱のうち1つが、暗がりから不自然に風雅な光を放っているのだ。素人の粗削りながら彫刻刀によって模様が刻まれ、丁寧にウォールナットの着色ニスが施されている。
それは私が小学校の図画工作の授業で制作した“宝箱”だった。筆記用具や文具を入れるには蓋が大層で、底には足まで付いている仰々しさである。かといってドライバーやペンチを収納するには小さ過ぎるし、木製なので傷付きやすい。それでも大切な思い出の作品を捨てるには忍びなく、下駄箱に潜ませたことは朧気に憶えている。が、一見使い途の無さそうなこの箱に過去の私が果たして何を潜ませたのか、その中身まではとんと忘れてしまった。“宝箱”なのだから、かつての私の“宝物”が隠されているに違いない。夏場の異常な暑さで塗料の一部が溶けたのか、本体と張り付いてしまった蓋へ慎重に平刀を挿し込んで力を込めると、抑圧から解き放たれたようにパカっと開く。蝶番は錆びていないようだ。まさか一度目の年男・12歳による彫刻刀の作品をこじ開けるのに、四度目の年男・48歳の私が、再び当時の彫刻刀を用いるとは思ってもみなかった。
中に格納されていたのは、トランプカードよりはやや小さく、花札よりはやや大きいサイズのチケットだった。ざっと20枚以上は束になっている。輪ゴムはすっかり経年劣化しているので、輪を外すというよりは1枚目の券のオモテと最後の券のウラにベタッと貼り付いたゴムを剥がすような感覚で束を解いてみると、その約20枚は大きさのみならず、いずれも同じ色調、同じ紙質で揃っていた。
それもその筈。小学校6年生だった1年間、私は半月に1回のペースで同じ場所を訪れていたという記憶が徐々に甦ってくる。我が贔屓チームの試合ですら、シーズン中に月1度の観戦がいいところ。まあ私が小6の年は東京ドーム元年で、パリーグのお荷物球団のゲームであっても、日本初の屋根付き球場を物見遊山したいという需要により、信じ難い程の千客万来ぶり。そのために席が取りにくかった影響もあったのだろうけど、年間で精々6~7度程の観戦だった。その私が4月から3月までの12ヶ月間、月に2回も通った“行楽地”とは何処だったのか――それは何とプラネタリウムだったのである。家から30分程、即ち渋谷から水道橋までの電車移動と変わらないくらいの時間、自転車を走らせると、子供にも――否、子供が故に――いつも気軽に観覧できる席がそこにあった。今は値上げしているのだろうけど、こども料金は100円であったことを券面から確認できる。考えてみれば後楽園球場の外野スタンドも子供向けファンクラブの会員は全試合無料だったから、年会費を観戦ゲーム数で割ったら数百円のレベルだったという印象だ。
小学生の頃の私は「読書感想文コンクール」や「写生会」や「自由研究」では目立つ子だったが、勉強の成績では至って普通の子。私の世代でも中学受験をする子は多かったけれど、我が家は裕福でも無ければ教育熱心でも無い。塾にも行かない私は泥んこになって遊んでばかりの洟垂れ小僧だった。寧ろ理科なんかは苦手なほうで、さほど天文好きの少年だった訳でも無い。教材として星座早見盤は配られたものの、出番は林間学校の一度きり。都会っ子だったものだから、実際に夜空と見比べることなんて無かったし、星の名前なんて学習しようともしなかった。いくら暇だったとはいえ、こんな子がどうしてプラネタリウムに目覚めたのだろう。
むろん解説員の見事なナレーションと演出による季節折々のプログラム本編にも夢中だったけれど、私がもう1つ目当てにしていたのは、おそらく映画館宛ら球体全面をスクリーンにして映し出す特別番組の数々だったと振り返る。内容は「宇宙の不思議」とか「銀河系の誕生」とか「地球の仕組み」とか、そういったものだ。とりわけ自分自身の住む地球の話には、あの仰向けのリクライニングシートにも拘らず前のめりになった。大陸が少しずつ動いていると謂うのは、ガキだった私でも何となく知っていたが、これが大昔は1つだったと謂うのである。しかも、これから何億年も経てば、今、アフリカとか南北アメリカとかユーラシアとかオーストラリアとか複数に分かれている大陸が再び1つになる可能性があると唱えるのである。そんな事、一体どうやって調べたのか。一体どうやって予測できるのか。ましてや、大陸は地球の上に“載っている”のではなく、厳密に言えば“浮かんでいる”状態にあるだなんて、贔屓チームが優勝争いをする光景くらいにイメージの掴めないことだった。
当時、巨人戦以外のプロ野球、それもパリーグの試合なんて、テレビ放送は疎かラジオすらも稀であり、球場に足を運んで生で観るしか方法が無かった。そうなると、休日に水道橋で催されるデーゲームなら一人でも行けたけれど、さすがに小学生にとって川崎や所沢は遠かった。なお、この年の10月19日に川崎で歴史的なダブルヘッダーが繰り広げられ、残酷な死闘の決着と同時に、試合の無い所沢が歓声に包まれた。手に汗握る展開のみならず、川崎のナイターがテレビで全国中継されたという仰天の出来事にも私は胸を熱くしたものだった。中学生になって川崎への“遠征”も楽しめるようになったが、高校生になると、まるで私の成長を待っていたかのように、敵方のほうがより遠い幕張へと本拠地を移転した。同じ東京湾沿いの工業地域なのに、京浜から京葉に引っ越したら、チーム名も「星座名」から「海兵隊」に変えちゃったり、ペットマークも「風船ガムを膨らませた男の子」から「帆船とカモメ」に刷新しちゃったり、ユニフォームにピンク色を使っちゃたり、何だか中学まで地味だった子が急に高校から垢抜けた子に変身しちゃった感じだった。相変わらず水道橋で巨人の陰に隠れるようにしてオレンジ色のまま頑張っている私たちは「取り残された」ような気分だったけれど、パリーグの仲間達が実力だけでなくセリーグ並みの人気をも獲得しようと懸命に励んでいる姿にはワクワクするものがあった。
高校生になると、もう1つ心躍る事があった。かつて地球上の大陸が1つだった事や、大陸が地球の上に“載っている”のではなく“浮かんでいる”事について、それなりに理解できるようになったのである。マグマ大使こと「地学」の先生は落語部の顧問。プラネタリウムの解説員のように穏やかな語り口とは正反対に、今日も軽妙な口調で一席披露する。が、その内容は「毎度バカバカしい噺」に非ず、今日も追い付くのがやっとの猛スピードで図解や式が黒板を埋め尽くすのだった。
「お客さんねぇ、今からたったの百数十年前にですねぇ、エアリーさんっていうイギリスの天文学者が居たんですよ。この人、インド・ヒマラヤ地域での重力異常の研究を経て、地殻均衡、え~、ひと言で説明すると、密度の小さい地殻が密度の大きいマントルの中に浮かんでいるような状態になっている事を導き出したのです。アイソスタシーとも呼びます。えっ?分からない?お客さんねぇ、アルキメデスの原理、教えてあげたでしょ。そうそう、器にたっぷり注いだ水の中に氷を入れますと、氷のほうが水より密度が小さいから浮きますね。で、器から溢れ出た水の量が、水の中に浸かっている部分の氷の体積に等しく、その重さが浮力というわけです。これと同じこと。実験は出来ませんが、マントルの器に地殻を浮かべたとしたら、溢れ出たマントルの量が、マントルの中に浸かっている部分の地殻の体積に等しく、その重さが浮力というわけです。
では、マントルも水のように液体なのかと言うと、それは以前の授業で説明した通り、固体です。岩石も硝子も非常に固く、ハンマーで叩くとか、地震とか、急激に加わる力に対してはすぐに『破壊』が生じます。ところが、千年、万年のオーダーで力をゆっくり加えてやると、力を除いても元に戻らない『塑性変形』をして、液体と同じような動きを見せるのです。例えば、細長い千歳飴を両手に持って強引に曲げようとすると折れてしまいますよね。しかし、飴を舐めて柔らかくして、口に咥えて徐々に力を加えれば曲がります。あっ、お客さん、今のは『口にくわえて』と『力をくわえて』をキレイに掛けてみたんですよ。拍手をお忘れなく。さっ、ここまでが基本中の基本です
氷河期の氷期には大陸を分厚い氷河が覆っていました。現在のグリーンランドや南極にある『氷床』とも呼ばれるやつです。スカンジナビア半島なんかも大昔は氷河の重さでマントルの中に深く沈んでいたんですね。これが氷河の融けた今では、荷重が取り除かれて、アイソスタシーの原理によって地殻が隆起しているものとされているのです。
この考え方を応用すると、現在では存在していない氷河の厚さが計算できます。氷河の密度をρ₀、地殻の密度をρ₁、マントルの密度をρ₂、地殻の厚さをh、氷河の厚さをx、地殻の隆起量をD1(過去の地殻のマントルに沈んでいる深さ)-D2(現在のそれ)とします。するってぇと、氷期①には、ρ₀x(氷河の重さ)+ρ₁ h(地殻の重さ)=ρ₂ D1(浮力)という式が成立します。現在②はその場所には氷河が在りませんから、ρ₁ h(地殻の重さ)=ρ₂ D2(浮力)となります。するってぇと、①-②=ρ₀x=ρ₂(D1-D2)となり、故にx=ρ₂(D1-D2)/ρ₀で氷河の厚さは求められるのですな。現在も存在している南極の氷河の密度を0.8g/㎤、マントルの密度を3.4g/㎤、その場所の地殻の隆起量を300mとして、これらの値を代入すれば、氷河の厚さは1,275mだったものと推定されるわけです。
因みに氷河もその名の通り『河』であります。もともと雪を圧縮したものが1日あたり10~20㎝というスローペースで山から下り、途中で融けて水となって流れていきます。従って、氷河が浸食し、運搬してきた堆積物――これを『モレーン』と呼ぶのですが――モレーンを調べると、礫と砂と泥が混ざり合っています。則ち、川の石が上流・中流・下流で大小異なるという『分級作用』が全く無いのですね。さっ、ここまでが地殻の垂直方向の変動に関する噺でした。
お次の噺も面白いですよ、お客さん。今からたったの80年前にですねぇ、ウェーゲナーさんっていうドイツの地球物理学者が居たんですよ。この人、大昔――どれくらいかって言うと2億5000万年前――にですねぇ、現在の大陸はパンゲア(超大陸)と呼ばれる1つの大きな大陸を成していた――『大きな大陸』って、『小さな小兵』みたいな表現で、ちょっと気持ち悪いですが、我慢してくださいね――この超大陸に罅が入り、割れて、現在のような大陸分布となっている事を導き出したのです。ヨーロッパの世界地図は両端を太平洋で切っています。日本が極東と呼ばれている所以ですね。するってぇと、彼は大西洋を挟んだ両大陸の凹凸が似ている事に気付き、かつて大陸は1つだったんじゃねえか、と勘付くわけです。お後は旦那、証拠を並べるのみでござんす。パンゲアだった約3億年前の氷河堆積物の分布が、大陸の切れ目同士でパズルのピースのように一致しました。昔の生物、つまり化石の分布を調べ上げても、メソザウルスが南米の東側とアフリカの西側の双方で見つかりました。現在の動植物の分布でも、レムールがマダガスカル島とインドの一部だけに生息しているのがとても偶然だとは思えませんし、その他、特定のカタツムリやミミズの分布も大西洋の両側で左右対称だったりするのです。
でもねぇ、世の中には何にでも文句を付けたがる輩が居りましてねぇ、彼に反論する『反ウェーゲナー学派』も当時は元気があったんですな。千切れた新聞紙はどの部分も同じでなければならないのに、ウェーゲナーは自分の説に都合良いとこだけを説明しているだの、動物の分布はランドブリッジで説明できるだの、そもそも大陸を動かす原動力について言及していないだの、色々云うわけです。ああ、ランドブリッジというのは、ベーリング海のアリューシャン列島みたいな感じ、庭園の飛石みたいな感じです。一列に並んだ小島伝いに動物は移動し、その後ランドブリッジは海に沈んだという考え方ですな。
ところがどっこい、お客さん。1950~60年代、皆さんの生まれるふた昔くらい前に、ウェーゲナーの説を正しいとする新証拠が次々と発見されます。その大きな一歩が古地磁気学の発展でした。溶岩の中に含まれる磁鉄鉱(magnetite)が結晶して冷える時には、その当時の磁力線の方向に磁化します。この残留磁気を測定することによって、インドが南半球から北上し、赤道を横切り、北半球まで移動した事実が証明されたんですな。磁力線というのは、南では上向き、赤道付近では横向き、北では下向きになりますから、デカン高原の岩が動かぬ証拠、いやいや動いた証拠と相成りましてございます。
因みに、地球の中の永久磁石は、北がS極で、南がN極です。方位磁針が北のS極に引き寄せられるから北をN、南のN極に引き寄せられるから南をSと定めたようですが、却ってややこしいというか、磁性体としての極は地理上の方角とは逆です。ここは間違わないようにしてくださいよ、お客さん。それにしても滑稽ですねぇ。もし磁石の極と方角の呼び名を統一するように定めていれば、『北海ホークス』だったかもしれませんよォ。アレっ?知ってますよね、南海ホークス。こりゃあ、南海だけに、ちいとばかり古くて難解なネタでしたな。では、御後が宜しいようで。」
――いやいや古くも無ければ難解なネタでも無い。鷹が西へと飛び立ったのは、私の中学校入学と同年のこと。私が生まれて間もない頃まで獅子が棲んでいた平和台に、平和を象徴する鳩では無く、まさかの鷹が舞い降りた。スーパーマーケットが鉄道会社から球団を買収した事にも耳を疑った。ましてや、頭文字『N』の親会社を母体に有する我が贔屓チームが、この授業の十年後に『北海』の冠を戴く事になろうとは、どうして想像できただろうか。その直後には、猛牛の解散があったり、独眼竜を崇め奉る杜の都に犬鷲が誕生したり、もう私の眼は地球儀のようにクルクルと回りそうだった。
そうだった、そうだった、思い出した。貧乏な家に育った私が小学生の頃に欲しかった高価なものといえば、グローブやらファミコンやらも勿論だったけれど、「地球儀」もその1つだった。平面の世界地図では無くて、ちゃんと実際の姿に近い球体で、大陸の形や自分の位置を観察してみたかったのである。
予てより図書館とかでクルクル回していたけれど、手に入れて家でじっくり眺めてみると、地軸が公転軌道面に対してこんなにも傾いているものかと改めて驚いた。平たい表面から主な山岳地帯が隆起しているタイプの地球儀に東急東横店で一目惚れ。1万円以上もするものを両親が誕生日にプレゼントしてくれたのだった。そのおかげで、あんなに険しいヒマラヤ山脈も球体を俯瞰する規模ではもんじゃ焼きの土手にも心許ない程の低さであることを改めて実感した。とは言え、龍の落とし子の如くスラリと伸びたアンデス山脈の凹凸を指でなぞれば、その西側の領土をチリが守り切れた理由が分かる気がした。加えて、北はボリビアとペルーから勝ち取り、南はアルゼンチンから勝ち取っている。それなのに、北は乾き過ぎているし、南は寒過ぎるから、人口は中央部に偏っている。北は鉱山、南は海峡の利権が絡んでいたとか謂うけれど、何も4,000km以上も背伸びしなくたって生き延びていけただろうに。大陸の成り立ちも不思議だが、その大陸の上で人間のやっている事はもっと不思議なものだ。一方、ヨーロッパは憶え切れない程の国々が集まっているのに、この丸い地球全体の中で占める面積となると比較的狭い。チリの縦の長さをヨーロッパに当て嵌めてみると、スカンジナビア半島の北端からギリシアの南端までにも収まり切らず、地中海を越えてリビアに迫る距離である。こういう見方なり経験なりが子供にもさらっと出来るのが地球儀ならではの長所ではなかろうか。そもそも日本の世界地図だと大西洋が両側の切れ端なものだから、大西洋を挟んで「欧」と「米」を見比べることが殆ど無い。――こんな具合に、理科は苦手でも、地理には関心が高かった少年は、チリの細長さに度肝を抜かれたという次第である。
そういえば、ここまでチリに魅了されながら、アンデス山脈の実際の姿を写真で見た経験が今まで48年の人生において一度も無いことに気付く。物持ちの良さが自慢の私は、早速中学校の地理の教科書を開き、ラテンアメリカの頁を確認する。自然でいえばアマゾン川の蛇行やイグアスの滝が、インフラでいえばパナマ運河やイタイプダムが、農業でいえばエクアドルバナナのプランテーションやパンパの放牧が、それぞれ写真で紹介されている。あとはメキシコの遺跡やペルーの露天市やリオのカーニバルといった文化を伝える写真とか、日本が資金援助した大規模な製鉄所や自動車工場の写真とか、そういうものが並んでいる。しかし、アンデス山脈の写真が全く無い。例えば最高峰のアコンカグアがどのような形の頂でどのような色の山肌なのか、その姿を伝えるものが無いのである。アングロアメリカの頁にはロッキー山脈の写真がカラーで載っているのに。まさか日本アルプスと似たような景色なのだろうか。そんな筈は無いな。
色褪せた教科書を片手に持ったまま、いつの間にか私は、中央高速を飯田まで営業車で南下する道すがら、右側に木曽山脈の駒ケ岳、左側に赤石山脈の仙丈ケ岳を望んだあの青い冬の日にタイムスリップする・・・つづく