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【生物】満ち欠けを 選り好みせず 月はツキ

 「醜きものは美しきものに勝る」――そんな価値観を心の片隅でずっと引き摺っている。美しい女は自分のことをキレイだと自覚しているから「釣り合い」で勝負してくる。自分と釣り合いの取れない醜男との間では、当然自らのアドバンテージを感じているので、男に無理な要求をしてくる。相手に自分を好きにさせたい場面に遭遇した折、美しき側が醜き側を口説くのは、まるで赤子の手をひねるかのようだ。対して、醜き側が美しき側を口説くためにかかる時間と手間は比べ物にならない。見た目とは、恋愛にとって撤去の極めて困難な障壁であり、当人同士の美醜によって障壁の高低差が概ね定まる。○○地域では禿げている男のほうがモテるとか、○○時代には太っている女にほうがモテたとか、そんな時空を超えた価値観の変化に期待するのは往生際が悪い。同じ地域・同じ時代に生ける者同士を恋愛対象とせざるを得ない人生なら、無駄な抵抗は慎んで、その地域・その時代の美醜基準に従わざるを得ない。勉強や運動や仕事がデキるとかデキないとか、そういうのと一緒で、己の人生を先天的に束縛する事実をいくら嘆いたところで、その事実自体が消せるわけではないのだ。
 「醜男」と書いて「しこお」と読む場合、「強く勇ましい男」を意味することがある。その意味の通り、「恋愛の障壁が高いほど燃え上がる人」や「恋愛の駆け引きの時間と手間を楽しんでいるかのような人」に対し、私は一定の賛辞を贈り、敬意を表する。但し、「大切なのは内面だ」と云う「醜き側の価値観」を相手方へ刷り込む作業については、もうバカらしくて、やる気が出ない。美と醜の両者では、価値観が違うというよりも、それを超越して「生きている世界」「使っている言語」のようなものが違うからである。生まれながらにして外見が美しいと自覚している人は「内面も大切だ」と感じている。その一方、生まれながらにして外見が醜いと自覚している人は「内面が大切だ」と感じている。この「も」と「が」との間には、「○○主義」「○○文化」という定義さえ付与されてしまうほどの隔たりがあるわけで、両者の共通項といえば、「ヒト」という「同じ生物」に属しているということくらいのものだ。「お互いの違いを認め合う」ということは「どうしても根本的な部分では分かり合えないという事実を認め合う」ことでもある。己の理想とする価値観を説明したところで通用しないといったところだろうか、共通項と呼べるものを作ろうとしている段階で、それは、醜男が美女を、醜女が美男を振り向かせるくらい徒労感を伴う作業であることを覚悟せねばならない。
 言い換えれば、おそらく「スポーツ」という「同じ分野」に属しているというだけで、その「種目」は全く異なるという次元の話なのだ。異種格闘技戦が今ひとつ世間で流行らないことを想像してみれば容易いことである。相撲とボクシングのどちらが強いかなんて判らないし、そもそも試合を成立させるためのルール策定の段階で揉めることとなる。その時点で興醒めだ。戦っている土俵が違うのである。それどころか、ボクシングでは「土俵」とも呼ばない。「リング」であり、形も四角い。要するに、もう何もかもが異なり過ぎるのだ。そして、言葉を選ばすハッキリ言ってしまえば、だから私は美男美女がキライなのだ。彼ら彼女らには、ハナからメジャーな土俵で電車道の横綱相撲を演じられる環境が整っている。翻って私たちは、「美しさこそ勝利」という世界とは距離を置いたマイナーな競技場を主戦場とするしか、生きていく術がないのである。性根が腐っていると分かっていながら、嫉妬するなというほうが土台無理ではないか。
 この「美人界」と「醜人界」との間における文化や種目の違いが――違うのだという事実だけでも――理解できれば、あとは自分の抱いているコンプレックスと上手く付き合う方法を見出すだけだ。もともと美人であることに優越感を抱いている相手に「大切なのは内面だ」と刷り込んで、その優越感を捨てさせようとするのではなく、もともと醜人であることに劣等感を抱いている自分に「大切なのは内面だ」と刷り込んで、その劣等感を自ら捨てる。この方法を採用するほうが効率的であり、価値観の余計な対立や二極分化を回避できる。
 
 ところが、簡単に「劣等感を捨てる」とは言っても、言うは易く行うは難し。醜人に待ち受けている「落とし穴」は深く、失敗に陥りやすい。
 まず、人の美醜も含め、元来「ヒト」という生き物に宿されたDNAとして、絵画でも彫刻でも何でも、人間には「外面の美しきものは醜きものに勝る」という価値観が「先天的」にインプットされている。翻って「内面の美しさ」という価値観には「後天的」な要素が色濃い。さらに、内面の美しさとは、外面のそれに比べると、明確な基準に乏しく、あまりにも脆弱で見えにくい。よって、醜く生まれし者たちは、やがて疲労困憊し、「内面重視教」の信仰に挫折することとなる。この挫折の次に何がやってくるかというと、信者を辞めたとは申せ、残り僅かな「自尊心」と「自己愛」は捨て切れないがため、今度は、己の「内面の美しさ」を磨く方法ではなく、己の「外面の醜さ」を無理して肯定的に捉えようとする方法を用いるようになる。この哀れな努力が「醜きものは美しきものに勝る」といった崇拝へと化けてしまうのだ。これぞ典型的な失敗のパターン。自尊心と自己愛を捨て切れないのは大いに結構なことだが、劣等感を捨てるという目標をすでに見失っている。自分が内面美の曖昧な経典を信じ切れなかったからといって、外面美を敵視する対立宗教を設立し、ましてや布教活動に埋没してしまっては、ますます落とし穴から抜け出せない。
 たとえ醜く生まれても、「外見以外の種目」で多彩な能力を天から賦与された者であれば、卑屈になることはなく、「主戦場以外のメジャーな環境」即ち「美をルールとして争う土俵」でも存分に戦える。また、それほどの力量があれば、己の醜さを逆に武器として際立たせ、「デザインよりも機能性が商品価値を決める」といったアドバンテージの世間評価へと転じせしめる器用な芸当ですら可能となる。場面に応じて「美>醜」と「美<醜」との双方の価値観を巧みに切り替えることもできよう。「内面重視教」の信仰者を貫けるとすれば、このような人たちのようにも思えるが、「あちら側」の宗教も含めた広い世間から評価される必然性が高い分、弾圧に耐えてまで信仰に心血を注ごうとする必然性のほうは自ずと低くなり、気楽な人生を選択するであろう。
 一方、圧倒的多数の醜人は、信仰者を貫こうか否か、そもそも思い悩む必要はない。特別な才能に恵まれることはないからだ。外面美に恵まれない上、それをカバーする勉強や運動や仕事の才能にも恵まれない。そうなると、殊、恋愛市場にあっては「醜人(じゅうじん)」が「囚人」の如く扱われることすらある。「何で、アナタみたいなブサイクが合コンに来てるの?」「どうして、キミみたいなブスとデートしなきゃならないの?」という態度や姿勢や圧力のようなものに対し、醜人のセンサーは敏感なのである。被害妄想ではない。こればかりは美男美女には分かるまいと勝手ながら確信している。美しき本人は噯にも出していないつもりでも、醜き者の研ぎ澄まされた感知力が、その「見下した品定め」の空気を逃さない。そしてこの差別的なムードについては、事前にいくら想像できていたとしても、やはり一頻りショックを受けるものなのだ。このショックの次に何がやってくるかというと、外的環境に追い込まれた実体験が引き金となって、今度は、いつの間にか自分でも「私は囚人なんだ」と内的に自分を追い込むようになる。追い込みは徐々にエスカレートし、「私という人間はデザインどころか機能性においても商品価値が無いのだ」「つまり欠陥商品なのだ」「これは『見た目が恋愛の対象に値しない』という一種の『障害』なのだ」というふうに膨張していき、己の「障害」と「生涯」を共にしようと覚悟する。それでも「外面の美醜が人生の損得に直結しない」という自分の理想郷を作り上げたいがため、やがて独善的に「美しさこそ罰すべきで、醜さに正義あり」といった崇拝へと化けてしまうのだ。これも典型的な失敗のパターン。「外面重視教」にも信教の自由が保障されている以上、自分の容姿が醜くてモテないことを他人の美しさのせいにしても仕方ないのだが、あまりにも恋愛市場から排除されるものだから、つい逆恨みしてしまう。その逆恨みの思考回路こそが、いつの間にか自分が生来備えているはずの内面の美しさまで穢してしまう「障害」だということに、醜男醜女はなかなか気付けないものなのだ。
 
 では、どうすれば良いのか。「正解」こそ見つけられないが、少なくとも「好み」を見つけることは出来る。「好み」というのは「自分自身が妥当だと信じて納得できるモノの考え方」だ。
 「障害」の辛さは、究極的には本人にしか分からない。故に単純だ。「障害」を辛いと思わなければいい。内面の美しさを決める基準が外面のそれよりも曖昧なのは、内面の磨き方に自由度が高いという証として有難く受け止めればいい。モテなかったら恋愛市場からさっさと降りてしまえばいい。これが私の「好み」だ。
 醜人に待ち受けている「落とし穴」と失敗のパターンは、行政から障害者として認定されることもなく、障害者手帳の発行を受けることもないが、後天的な脳の思考回路の混線の類と捉えても過分ではなかろう。人は誰しも心の片隅に「障害」を抱えているのだ。本人に罪も無ければ、恥ずべきことでも無い。だから「障害」を「欠陥」などと解釈する論拠は無く、寧ろ「障害を特長ある個性とする権利」を賦与されたことに誇りを持って生きたら、それでいいのだ。生まれつきの美男美女には不可能とも云える「強靭な内面を磨く権利」を天から許されたのだ。自ら内面を穢すなんて、折角の権利を溝に捨てるも同然だ。
 「内面の美しさが、外面の美しさに勝る」という価値観に、「とはいえ外面の美しいものは、ただそれだけで美しい」という価値観との間で「正しい均衡の保ち方」があるとすれば、こうした「見えない障害者手帳によって行使できる権利」の有無というパワーバランスくらいしか思い浮かばない。これが高校の時、モテなかった自分に言い聞かせた私の結論だ。
 
 バイトの先輩・美春ねえさんは男子高校生の醜い悩みにまで首を突っ込んでくる。一体どこまで広範囲にアンテナを張っているのだろうか。美春さんほどの妖艶な佳人に生まれたなら、容姿の美醜に懊悩することなど、これっぽっちも無かろうに。
 「アナタねえ、コンプレックス持ちすぎなのよ。アナタほどの良い男を放置しているオンナはこっちから放置しときなさい!って、叱ってやろうかと思ったけれど、見た目の美醜なんかに悩んでる時点で『良い男』の試験不合格よ。だってそうじゃない。醜男の勝負どころは内面よ。商売道具の内面を錆付かせてどうすんのよ。内面で勝てたらね、後は勝ちっぱなしなの。横綱以上に天下無敵。だってそうじゃない。どんな色男だろうと老化するって生物で習わなかった?アナタが大好きな美少女だって、1秒ごとに婆さんに向かって直進しているのよ。外面(そとづら)って、ちょっと軽蔑が籠ったコトバでしょ。外面は一時の華、内面は一生の華、内面に華が開いたら一生モテモテなの。そんなことも知らずに、ホントにバッカねえ。高校で何を勉強してるわけ?
 それとねえ、生物で『退化』も習わなかった?馬には人間みたいな指がないでしょ。走りにくいからよ。世の中の殆どの動物には退化器官があって、不必要なものは失っちゃうの。人間の尻尾も消えちゃったでしょ。もちろん例外はあるらしいんだけど、退化は『進化』とも云えるのよ。アナタの良さが見えないオンナには、アナタの良さが見えるほどの視力がそのオンナには必要ないと神様が判断したの。自分とは違う生き物のメスだと思って、次の電車に乗ったらいいじゃない。とりあえず入場券だけ買って、ホームで待ってれば、電車のほうから近づいてくるのよ。それくらいの気持ちの余裕を持ちなさい!鏡を見て、外面の美がさほどでも無いとアナタが思っているなら、内面の優れたアナタに外面の美はさほど必要ないと神様が判断したんでしょ。どうして神様からプレゼントされた内面をより優れたものに進化させないの。退化と進化は表裏一体かつ一心同体なの。分かった?
 それとねえ、アナタは鏡を使わないと自分の顔を確認できないけど、オンナは鏡を通さずしてアナタの在りのままの姿を直視できるのよ。それって『アナタが鏡に映しているアナタ』とは違って見えてるかもしれないじゃない。どうせ自己評価に頼るんだったら、もっと高く評価して自惚れてみなさいよ。内面が顔に出るってね、ちゃんと科学的根拠があるの。分かった?」・・・まさしく横綱に胸を借り、醜い横っ面に張り手一発、目が覚めた心境であった。
 
 「恋愛レベルの話だったら『障害』なんてまだマシなことなのよ。ほら、何度注意されても何度も事故を起こしちゃうドライバーって居るでしょ。アレってねえ、元々車の運転には不向きな人っていうのが居て、訓練にも限界があるのよ、きっと。だってそうじゃない。訓練でどうにか治るくらいなら、同じような事故を繰り返すはずがないでしょ。そういう人はね、日常生活に異常が無くても、車の運転能力には欠けているっていう、極々軽度の脳障害の一種かもしれないわね。でも、今の技術で医学的な解決が出来ないなら、法律的に解決するしかないでしょ。これがねえ、ハンセン病の時みたいな失敗もあるから難しいなあ。医学的に障害と断定できない人に対して運転免許試験も受けさせないとなったら差別。だからといって、悲惨な交通事故が起きるのを待ってからでないとその人から免許を剥奪できない今のやり方って、不条理を感じない?表面的にしか犠牲者に目を向けていないじゃないの。結局、法の下の平等を貫くなら、もう少し運転免許試験を難しくするのが現実的なのかもね。ほら?テーマが深刻になったら、恋愛に立ちはだかる『障害』なんて、薄っぺらいもんだって気付けるでしょう。」・・・横綱の張り手は二発目も強烈だった。が、元来横綱には張り手など使う必要がない。美春さんの言葉の「張り手」は軟弱な私に喝を入れるための愛情そのものだったのである。
 その人がその種目に向いていないことが明白で、試合に出させたらチームに迷惑をかける確率が高いと予期できる場合であっても、一度はプレーに参加させて、迷惑を確認した段階でペナルティを課すのか。それとも、はじめから参加させないことによって迷惑自体を根絶するのか。どちらの選択が社会全体にとって幸福の最大公約数なのだろうか。
 
 「けどねえ、試合には出させてあげるっていうと、それも傲慢な言い方ね。その種目に向いていようと、いなかろうと、プレーには皆が参加する権利があることを可能な限り大前提とする社会が健全なのよ。正解ではないかもしれないけど、少なくともそれが私の好みかな。私たちってね、ちょっとしたきっかけで健常者にも障害者にもなれるの。障害者っていうけれど、暫定的に法律が決めた認定基準に該当するかどうかの話でしょ。福祉と価値観は別のこと。んもぅ!ほら、ウチの店にいるじゃないの。仕事のデキる人が偶々障害者だったと思ったら、片や五体満足のくせして何の役にも立たない連中がっ!ああいうの見てると、健常者と障害者って、ホント紙一重っていうか、何が境い目なのか分かんなくなってくる。両者の線引きが難しいんだったら、線引きは福祉だけの領域にして、価値観はフラットにするしかないのよ、きっと。だってそうじゃない。美男美女も醜男醜女も両方存在してこそ世の中は健全に成立するの。例えば世の中を美しき者だけで満たそうとして、醜き者に美しき者との恋愛を禁じたり、醜き者には子孫を残すことを禁じたりするわけ?そんなのハチャメチャでしょ。そういう発想が優生思想の反省点なわけでしょ。だいたいオトコがみんな眉目秀麗で、オンナがみんな明眸皓歯の世の中なんて、同じような顔のオンパレードで気色悪いし、それは『美という概念』自体を崩壊させる悪い社会の始まりよ。」・・・ピアニストを目指す彼女から、鍵盤を1つずつ丁寧に押し鳴らすように展開される持論。それは音符すら読めない私にも優しく滑らかなメロディーとなって耳に溶け入る。
 動物は生まれながらにして「生きるという本能」しか持たない。故に、断種しない。避妊しない。中絶しない。そして自殺しない。
 
 「もう1つあるわよ。私たちってね、ちょっとしたきっかけで善人にも悪人にもなれるの。善人が犯罪者にならないなんていう絶対的な保証は何処にもないし、常に刑務所の塀の上を歩いているようなものだって、よく言うじゃない。・・・アナタねえ、大学は法学部目指してるんでしょ?美醜に悩むヒマがあったら勉強しなさい!雲に隠されてしまったら、いちいち月の満ち欠けなんて気にならないでしょ。それにね、神様が光を当てる角度次第で、人間の見え方なんて『満月』にも『半月』にも『三日月』にも変わってしまうんだから、自分にツキが回ってくる順番をお行儀よく待ってればいいの。他人からの評価を良くしたいんだったら、見た目なんてどうでもいいこと気にしないで、早く宿題片付けちゃったほうがよっぽど近道よ!」・・・母にも「宿題しなさい」だなんて言われたことが無いのに、最後はいつもピシャリとコレだ。でも、美春さんに叱られている時間には、射精に肩を並べるほどの恍惚感があった。
 確かに人の評価って、一夜にして変わるよな。評価ばかり気にしていても仕方ないけれど、外面は一時の華、内面は一生の華なれば、評価の変わらない強靭な内面を磨く「宿題」に専念できるうちが華か・・・つづく

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