【商法】サラリーマン 日々学ぶなり 我が無知を
「え~、それでは、第1号議案『所属派閥の明確化に関する件』を上程します。私はこの中で比較的初期の北関東支社出身メンバーでありますゆえ、当然ながらA支社長派を自負しております。そこで、皆様におかれましては、結局『ぶっちゃけ誰派なのか?』是非この場にて明確に宣言をお願い致します。なお、K代議員は現在、A支社長の後任となったI支社長が、その後の紆余曲折を経て本社の本部長として凱旋するや否や、すっかり彼の腰巾着に成り下がってしまいましたゆえ、本件につきお尋ねする必要はございません。」・・・今年も人事異動のシーズンがやってきた。私たちは本社から再び支社へと旅立つM先輩の送別会を盛大に執り行っていた。かつては同じ支社で地方営業に明け暮れていた仲間同士が集結。参加資格はただ1つ「平社員であること」だった。
「続きまして第2号議案『人事考課の不条理に関する件』を上程します。Y代議員がイケイケドンドンだった頃、今を時めく某スーパーマーケットチェーンに新商品を2万函売り込み、いよいよ次期は本社へ呼ばれると他メーカーのセールスにまで豪語していたにもかかわらず、フタを開けてみればますます山奥の新規開拓を命ぜられる結末と相成りました。是非この真相についても皆様で協議したく存じます。」・・・サラリーマンとは、己の生活を賭けて、狭い組織の極めて小さな世界で歯を食いしばっている生き物である。だからこそ、こうした実にくだらない居酒屋トークで日常の憂さを晴らすのだ。
「さて、第3号議案に入ります。私がこちらからプレゼンのために栃木へ出張した折、当時の栃木担当メンバーが鬼怒川温泉で宴席を用意してくれました。これはこれで非常に楽しかったのですが、とある新入社員Hさんが出席者全員の写真を彼女へ送信し、無理矢理イケメン順位付けを依頼するという暴挙に出ました。その結果、私はかなり下位にランクされることと相成りましたが、あの頃の栃木担当者の面々を振り返るに、それほど私が低位置に甘んじなければならなかったのか、今でも甚だ疑問であります。本件についても皆様の忌憚の無いご意見を求めます。」・・・あれから15年が経過した。Hは無事に彼女と結婚し、二児の父親となった。優しい甘みに包まれた厚焼き玉子が大好物の関東人でも唸るほど出汁巻きが絶品だったこの店に本日招請されたのは総勢9名。この15年の間に、うち1名こそ部長級に昇格したものの、2名は退職し、腰巾着のK先輩を含めて3名は係長生活が長く、山奥生活の長かったY先輩を含む2名は、一度課長まで経験するも鬱病を発症し、本人の意向もあって平社員へ降格となっている。フィジカルに対してすら「肥満と喫煙は自己管理の欠如」といった妄言が流布されるような世の中にあって、ましてメンタル不調者への偏見が100%ゼロになることはないが、2名とも未だ頑張っている。彼らは何かのきっかけで一時的な病に伏せただけのことであって、社業の発展に尽くそうとする健全な社員である。ちなみに残り1名が私であり、この私もまた平社員である。心身共に異常なしというところだけが取り柄だ。
Y先輩が鬱になった頃、彼が唯一本音を吐露することのできる職場の“同志”は、有難いことに私だったようだ。何気ない雑談からも辛い心情が滲み出ていたが、あえて私は彼を励ますこともなく、聞き役に徹し、むしろ先輩の悪ノリに付き合った。というのも、今ひとつ職場の雰囲気がパッとしないことに私自身も疲弊していたからである。
「いや~、それにしても、相変わらずU子っち、香水キツイわ~。食品メーカーは料理のサンプルを扱うから、原理原則として強い香水と派手なネイルはNGだって注意されてんのに、あの子だけ例外なのは、やっぱ取引先の令嬢なんだろうか?」「あれは香水じゃなくて、体臭芸能じゃないでしょうか?だんだん私は鼻が慣れてきましたよ。」「いや~、オレ、耐えられないよ。このままバックレてもいい?」「今日は土用の丑の日ですよ。昼にウナギ食ったら研修が長引いたとか何とか言って直帰しましょう。」「だったらよ、折角だから昼から飲んじまおうぜ。夜んなったらそのまま祇園。あのフィリピンパブ評論家として著名なT兄貴が『京都にも良い店がありますね』って、わざわざ仙台からメールくれたんだぜ。」「ええ?あの人、今、東北支社でしたっけ?」「ああ、そんなことはまあいいから、オマエ、遠慮せずに鰻重は『松』を注文しろよ!今日はオレのアホなお遊びに付き合ってくれる感謝を込めてご馳走だ!」そんな調子でフィリピンパブに辿り着いた頃には、眼がすっかりトロンと座り、職場への不平が止まらない。「いいか、よく聞けよ。本社から営業改革をしなかったら、一体誰がするってんだ?その本社にお気楽な連中が揃って、あの陰気な課長に何を言われても服従してっから、放送事故寸前のラジオみたいになっちゃうわけよ。リスナーから1通もお便りが届かない上、パーソナリティに腕が無いもんだから、適当に曲を流し続けるだけ。そんな事業部にお客様に響く魅力的な商品なんか作れっこねえよ。」・・・もともと饒舌な人だが、酒が入ると磨きが掛かる。そんな彼が無口になっていった。“国内なのにフィリピン外遊”の数週間後、熟練した課長補佐が突然の退職を表明し、ただでさえ業務過多のY先輩がこの緊急事態をカバーする対応に巻き込まれた挙句、会社を休みがちになったという顛末である。
療養中にも彼の愚痴に耳を傾け続けた私の姿勢が奏功したのかどうかは定かでないものの、先輩は徐々に快復していった。復帰後、久々に会社のアドレスで先輩からのメールを受信する。「主治医や産業医の先生方や人事部と相談の上、一旦環境を変えようという結論になり、おかげさまで本日より東京でのリハビリ勤務に戻りました。本社では大して皆様のお役に立つこともできず、お恥ずかしい限りでございますが、色々とお力添えを頂き、厚くお礼を申し上げます。結局3回も体調を崩してしまい、ご迷惑をお掛けしたことと存じます。お詫びのしようもありません。」・・・職場の全員へ宛てた文面は余所余所しいものだったが、とりあえず元気になって何よりだった。私はすぐさま彼に返信した。「先輩のお休み中、とうとうこの部署にも、先輩の仰っていた『仕事の出来る係長2名』が、何と2名とも配属となりました。彼らが、現在の非効率な業務実態を黙って見ているはずはありませんし、もう少し職場の皆さんが明るい表情になればと思います。先輩が京都に暫く居てくれたおかげで、私も元気づけられた部分があり、心からお礼申し上げます。こちらの方々は基本的にお一人おひとり善良なお人柄なのですが、任務にどんよりとハマってしまう傾向がありますよね。積極的に交流を図るキャラが怖しいほど少ないため、チームワークも下手です。私も傍観者というわけにいかないことは百も承知なので、今度は私が『鰻からフィリピンへのコース』に有能な係長をご招待しようと計画中であります。というわけで、まずは仙台のT兄貴にご助言を賜るべく本日中にメールを発信しますので、その答えを楽しみにして、明日もお互いに鰻の如く上り調子といきましょう。」・・・斯く語る私も土曜日まで出勤せねばならぬ忙しさを空元気で乗り切っていた。あの夏から数えても10年以上が経過したが、「仕事の出来る係長2名」のうち1名が役員に抜擢されたときには、この会社も捨てたもんじゃないと感じ入った。というよりは、Y先輩が鬱になった当時の職場が、当社には珍しい“放送事故”の状態だったと解釈するのが自然だろう。暴君だった本部長だけが威勢よく号令し、参謀たちは会議でも誰も発言しない。監督の采配も無茶苦茶なら、選手も選手で無能だった。意欲が無いという点で私も無能な選手だった。但し、あのお通夜のような職場のおかげで、そんじょ其処らのトラブルには動じない経験値と、自分とは異質の社員にも常に温かい眼差しを向けようと試みる人格が身に付いたことは間違いない。
さて、出汁巻きの美味い居酒屋では、全ての議案が承認可決されたところで、送別会の主役であるM先輩から熱いメッセージを頂戴する運びとなった。
「本日は私ごときのために斯くも盛大な会を催してくださいまして、誠にありがとうございます。このような形で皆様に挨拶する機会はなかなかありませんので、1つだけお話ししたいことがあります。
世の中は、博士や大臣や社長だけで成り立っているわけではありません。馬鹿な奴、要領の悪い奴、気の小さい奴、色んな奴がいるから面白いのです。勿論、私は凡人であります故、『万人に魅力がある』などという境地に達することは出来ません。会社にはハッキリ言ってダメな奴もいますし、『ダメな奴はダメ』という思想を無理に変えることもないと思います。但し、出世しなくても、人にはそれぞれ活躍のステージがあるもので、一人ひとりに光り輝く人生があるという当たり前の道理さえ分かっていれば、他ならぬ自分自身が元気な社会人になれるはずです。この青春ドラマのように臭っさ~い説教の意味は後からボディブローのように効いてくるはずです。
硬い表情でいやいやデスクに向かいながら、上司の愚痴ばっかり言っているようなサラリーマンは、元気になれる思考回路が閉ざされているのです。我々みたいに冗談で言っているレベルなら健全なのですが…えっ?冗談でも無かったか?ガハハハ。まあ、周囲を不快にさせる社員が傍に居るときこそ、『お前自身は周囲からどんなふうに思われているのか?』と自分に問いかける意識を持ちたいものですね。私は今後も出世しませんが、職場の雰囲気を悪くする人間にだけはなりたくありません。では、この価値観と、皆様への深甚なる感謝を胸に、“珍”天地へ赴任することと致します。」・・・M先輩の「臭っさ~い説教」に全員が総立ち。皿の上の出汁巻きがプルプルと揺れるほどの拍手喝采だった。この日参集した総勢9名のうち、その後15年の間に1名だけが部長級に昇格したというのは、このM先輩のことである。
幹事が中締めに入る。「え~、では、せっかく先輩から有難いご高話を拝聴しましたので、早速これを台無しにすべく、第4号議案『周囲を不快にさせる社員の暫定チャンピオン選出の件』を上程します。本案については、事前ヒアリングの結果、見事G次長が満票を獲得しましたので、賛成の拍手をもって可決を確認します。」・・・再び皿の上の出汁巻きがプルプルと揺れる。「最後になりますが、最近、G次長がこの店で引き起こした或る事件を披露したいと存じます。いつもの通り、不潔極まりない恰好――背広に革靴という普通の恰好にもかかわらず、なぜか不潔に見せてしまう彼の技能にも目を見張るところがありますが、それはそれとして――あの不潔な恰好で入店するや否や、『とりあえず生』と注文します。間もなく生が運ばれます。ところが、それ以降はメニューを確かめることもなく、一切おつまみを選ぼうとしません。こちらが不思議に思っていると、あの汚い鞄から徐に弁当箱を取り出すではありませんか。昼休みの時間帯に忙しくて食べられなかった愛妻弁当を店内に堂々と広げ、それを肴に酒を飲むという暴挙に出たのであります。これだけでも十分に呆れますが、これだけで終わらないのが、さすが満票獲得のG次長です。『何で?って、そら、家帰ったときに弁当箱が空やないと、ヨメが不機嫌になるさかいにな』と吐きつつ、今度は一緒に居た私たちにも食べるのを手伝うように指示します。料理持ち込みでの居酒屋利用という耳を疑う行動に、彼がこの店を出入り禁止となったことは申し上げるまでもありません。彼の奥様が社宅屈指の別嬪さんであるという事実も含め、何もかもが非常に残念で仕方ありません。
それでは、M先輩の益々のご活躍とここにお集まりの皆様のご健勝を祈念して、一丁で締めたいと思います。お手を拝借!イヨーオ!」・・・北関東支社へ配属となったばかりの新入社員の頃には、その後本社でこれらユニークな先輩方の輪の中へ入ることになろうとは想像もしていなかった・・・つづく