【古文】伏して乞ふ 治りませぬやう この病
「お仕事の調子はどう?」「それがさぁ、チラッと前にも話したけど、会社を辞めたいって気持ち、アレ、結構本気なんだ。」「会社辞めて、何するの?」「ずっとテレビを視ていたい。いや、もちろん炊事も洗濯もするし、たまには本も読むよ。」「フフフ、今でもテレビ視ながら炊事も洗濯も読書もしてるでしょ。そんなに会社がイヤなの?」「会社が心底イヤってことはないよ。けど、もう給料貰うために朝から晩まで働く必要が無くなったし、毎日神経使って細かい資料作ったり、無駄だとは言わないけど要領の悪い会議出たり、そういう生活に正直飽きたわ。」「フフフ、珍しくイライラしてるわね。ねぇ、イライラし始めた時って、主語を『私』から『あの人』に変換すると、かなり静まるのよ。心の中で『あの人はイライラしている様子である』って、自分の心境を小説みたく描写しちゃうの。そうするとイライラした気持ちがまるで他人事みたいになっちゃうのよ。」「凄いなぁ、それ、いい方法だな。さすが春子さんだな。」「フフフ、私が考えた訳無いじゃない。本か何かで知ったのよ。ああ、そう考えると、やっぱりあなたには本を読む時間が必要ねぇ。」「そうでしょ!だから会社辞めたいんだよ、フフフ、って、ごめんね、そもそもこんな話やめよう。今の時間はすごく楽しいよ。こういう時間を過ごすために仕事も頑張らなくちゃね。」「もう十分あなたは頑張ってると思うわよ。」「いや、労働意欲の無さが上司にはバレてる。今の上司はワーカホリック気味の人だから、余計に俺の言動が物足りないのかもね。」「さっきから聴いてると、いい会社じゃないの。長いばっかりで何も決まらない会議が出来るって、それだけ余裕のある会社だってことよ。びっしょびしょの濡れ雑巾だわ。まだまだ絞れる。それに、上司があなたのことに興味を抱いているなんて素敵じゃない。人って、年齢と共に自我ってやつを確立するでしょ。そうすると精神的には安定してくるけどね、その反面、他人に対して関心を持ったり、ましてや共感したりはしにくくなってくるのよ。これって良し悪しとかじゃなくって、歳のせいだし、当たり前のことだから、諦めちゃえばいいの。いちいち他人のことなんて気にしなくていいの。なのに、その上司、わざわざあなたに物足りなさを感じているんでしょ。期待されてるのね。さすがあなただわ、フフフ」「なんか茶化されているのやら、褒められているのやら。」「ヤダわ、この年齢になっても、私があなたのことには関心を持っているという証拠だって受け止めるべきよ。」「こりゃあ失礼しました。」
寝不足で会うのは嫌だから昨夜早めに眠りについたら、案の定、今朝は四時半に起床してしまった。風呂に入って、その風呂の残り湯をホースで繋いで、洗濯機を回している間に排水口と換気扇の掃除をして、仏壇に活けた花の水を取り替えて、そうこうしているうちに洗濯終了の通知音が鳴ったので、下着やタオルや靴下を丁寧にハサミで吊るして干して、会社が授業料を負担してくれるって言うから軽いノリで申し込んだ英会話の通信教育を1コマだけ受講したら、ようやく腹ペコになったので、塩鮭を焼いて、アサリの味噌汁を拵えて、葱を刻んで納豆をかき混ぜて、海苔を炙り、錦市場で購っておいた昆布の佃煮へ粗めに擂り潰した煎り胡麻を塗し、皿や盛り付けにもやや凝れば、旅館とまではいかずとも、その一歩手前くらいに達した定番の朝食が完成し、これをゆっくりと味わう――雑事を疎かにしない禅僧の修行を意識している訳では無いけれど、私の土日祝日は毎度この調子。これだけのことを済ませても、まだこれから1日が始まろうとしている時刻。他人が私の姿を客観すれば、独り暮らしを思い切り愉しんでいるように映ることだろうし、事実、二日酔いで迎えなければ、お休みの朝は充実している。それでも、である、それでも、人というのは好きな相手を見つけた瞬間、その人と会う時間の愉しさが一人で居る時間のそれを遥かに凌駕してしまう生き物なのである。今、春子さんがそう私に教えてくれている。正月に、京都まで来て、私にそう教えてくれている。
実りそうで実らぬ恋、手が届きそうで届かぬ彼女に、現を抜かし振り回される幸せ。幸せとは「求める」ものでは無くて「感じる」もの。幸せになるための人生では無い。幸せだと思えるところから人生は人生らしきものになるのである。そう心得ているから余計に、恋が実りそうなのに実らせようとせず、彼女に手が届きそうなのにその手を伸ばそうとはしない。結局は自分が可愛いから臆病になっているだけだと揶揄されても、この時間をもう少しだけ緩緩と味わいたい。元来、私って奴はワインのテイスティングみたいな間怠っこしい行為が苦手な人間の筈だ。が、たとえ苟且にして泡沫の御飯事であったとしても、確実に情愛の欠片を含んだ真心を春子さんがこの私に今プレゼントしてくれている。もうそれだけで冥土の土産には十分過ぎるではないか。たかが百年も無き人生、どうせ十年もすれば様変わりする世の中、恥じることなく、このワインを一気に飲み干してしまってもよいのだが、二人の関係には高級なワイングラスの如く繊細で割れやすい印象も未だ薄々と漂っている。さすれば、このまま暫くはスワリングを繰り返し、口には触れずにアロマに酔っていようではないか。やがて醒めると知りながら、それを忘れて熱にうなされ続けようではないか。そうと腹を決めた私は、苦しくてしょうがないくせにこの病を治そうともしない。
「う~ん、あなたの会社、いい会社だと思うのは、もう1つあるわ。」「ええ?何?」「それなりに自由な感じがするじゃない。何処とは言わないけど、『世の中は私たちの手でもっともっと進化します!』みたいな宗教っぽい雰囲気のある会社はちょっと違和感あるかな。そこまでしないとダメなのかなってね。そこで働く人達を否定するつもりは無いけど、私はうん、ちょっと苦手だな。」――彼女の言っていることには同感だった。新商品の発表、といっても既存品を僅かにリニューアルした程度の商品なのに、それを経営トップが大袈裟な身振り手振りで紹介したりする姿は“教祖”に見えてしまう。周囲にはその舞台をニコニコしながら演出する従業員が群がっていて、日頃から社是を声高々に復唱したりする姿は、彼に洗脳された“信者”に見えてしまう。そして、そんな従業員達が、新商品の発売日に開店前から行列を成した客達とハイタッチをしている姿は、お布施集めを兼ねた“布教活動”に見えてしまう。人生に何を望むのもその人の勝手だが、私の口には合わない。が、プロスポーツ選手のゲームやアイドルのコンサートに熱狂するのも同じような事なのだから、彼らの会社こそ資本主義経済の理想郷なのかもしれない。
私が春子さんにぞっこん惚れ込んだのは、「初恋の人だから」というのも勿論あるけれど、オトナになった今でも何か「考え方に共感できるから」というところもある。けれど、彼女への愛情に理由は無用だとも承知している。「この人とはこういう価値観が合っている」とか「この人と一緒に暮らせばこういう未来が待っている」とか、そうやって“理性”を持ち出そうとする人が結構いるけれど、あくまでも恋愛の原動力とは“感性”。好きになった人ならば、異なる価値観をも愛せるし、無条件に相手を好いた心というやつは「誰にも見えはせぬ未来など後で考えればよい」という法則に基づき、理性の無い世界で揺れ動く。だから「あの人、とてもいい人なのに、どうしてモテないのかしら」といくら“客観的”なお墨付きを受けたところで、実際に誰かが“主観的”にその人を好きになる保証にはならない。「好かれそうな人が好かれる」とは限らないのである。思いやりと安定感があって、いかにも家庭生活に向いていそうな男でも女でも、蓋を開けてみれば結婚できない人がいるのはこのためである。これを「不運」と嘆くのは当然だ。けれど、気の済むまで嘆き終えたら、その後は自分を襲う不思議な運命を楽しむ方向へと切り替えるのが得策だ。ここまで不運なのは寧ろラッキーだと解釈すべきではないかと、感性に従って理性的に分析するがいい。
結婚した人は云う。「たまたま結婚して子供にも恵まれたけれど、もしこの歳まで独身だったとしたら、それはそれで別な人生の可能性を切り拓けたのだろうか」と。しかし、こういった自問は、既婚者ならではの愚問。独身者はそういう思考回路を組まない。誰にも分からないことに悩むのは無駄であり、悩んだところで人生の結果が変わる保証は無いことを、幸せを望んでも手に入らなかった経験をもって痛感しているからである。だって「たまたま結婚」したんだろ。「たまたま」、是、則ち「自分にはどうにもならない」こと。予期せぬ外的要因に過度に抗っても仕方無いわけで、流されるまま生きるしかない。自分で決められるのは精々「どんなふうに流されるか」程度のことだろう。私は「たまたま」結婚できなかったのである。偶然に対して理屈が通用するという理屈があるものか。結婚できなくても就職はできたし、収入を得て恙無く生きているから、理屈抜きに幸せ。それでいい。
ほんの僅かな偽りも強がりも僻みも残さない心境で、独りぼっちの人生を斯様に受け止められるようになったのは比較的最近、即ち40代も後半になってからのことだ。生涯未婚率の基準を50歳に据えたのは、総務省なのか厚労省なのか学者なのか分からないけれど、統計学的な理論のみならず精神的な実践の観点からしても、なかなか鋭くてセンスのある人だと感心する。
そんな50歳の2年余り手前になって、私の前に春子さんが現れたのだから、人生というのは予見不可能かつ厄介なものだとつくづく思い知る。
「此間ね、何かのテレビのコメンテーターの人が言っていたんだけどね、かなり近い将来にね、機械がヒトの仕事をどんどん奪っていって、普通に会社で働いている人はあんまり役に立たなくなる時代になるんだって。」「産業革命みたいなイメージなんだろうけど、それってホントなのかなぁ。これだけ人手不足だって騒いでいるのに。」「うん、私も鵜呑みには出来ないって疑ってるよ。けどね、ベビーブーム世代の大量消費が落ち着くまで当面の間は何とかして少人数で国内需要に応えないといけないとかね、そのために労働力が必要なのに、不景気だった就職氷河期に採用人数を抑え過ぎちゃったツケを乗り越えなきゃなんないとかね、そういう条件やら課題やらはどの会社もおんなじもんだから、必ず先進的な会社から徐々に機械化の動きが始まって、社会全体へ浸透していくんだって力説するの。例えば、農業はね、システムやら大型機器やらを駆使してね、凄い能力を持った数人のオペレーターだけで収穫する感じになっちゃうし、水産業もね、一般庶民はプログラミング通りに養殖された魚介しか食べないような生活様式になっちゃうだろうって。そんなもんだから、ましてや都会のサラリーマンがやってる今の事務作業なんて、ある程度の判断力や創造性が要求される役割まで含めてね、機械がヒトより正確に引き受ける時代がやってくるのは時間の問題だって言うの。まあ、その予想が的中するかどうかは別としてね、その人の話には先があるの。」「まさか、仕事が無くなっちゃった人がどのように暮らしていくのかみたいなテーマ?」「アラ、大当たり、さすがねぇ。例えばね。機械のメンテナンス業務みたいな仕事は残さざるを得ないだろうし、収入を得るために働くことは働くんだけど、少なくとも週に5日も、1日8時間も働く必要は無くなってくるんだって。そうするとね、優秀な頭脳とか、高い志とか野望とか、壮大な構想とか、そういうギラギラしたものに満ちた人だけが寝る間も惜しんで働いて稼いで、その他大勢の平凡な人達は、労働からはかなり解放されて自由なんだけどね、お金もあまり無いみたいな状態になるんだって。あなたはどっちがいい?って、答えは決まってるか。会社辞めたいって言ってるもんね。」「いや、それもあるけど、そもそも俺はギラギラする程の頭脳とも野望とも無縁だよ。」「いや、そういうのとはちょっと違うみたい。ほんの一握りの天才とかいうレベルの人でも、本人が働きたくなければ働かないでしょ。それよりも『世の中をこうしたい』とか『人生でこれだけは成し遂げたい』とかって夢を『職業』にしてまで実現しようとする意欲のある人が、その夢に取り憑かれるようにして猛勉強をしながら働き続ける感じで、企業もそういう人財しか求めなくなるらしいの。」「まっ、それはそうかもねぇ。『やる気』ってのは、大切な才能だからなぁ。」「それ、まさにそうなのよ。『自分の関心事を仕事にしてます』『仕事こそが私の趣味なんです』みたいな人だけしかオフィスに居ないの。『方針に沿って頑張ります』みたいな普通の社員は、いくら生真面目で誠実な人でも、会社が必要としないもんだから組織に生き残れなくなっちゃうっていう、見方によっちゃ冷酷な社会が到来するんだって。」「なるほどなぁ、でも冷酷なようでも、実は働き方を選べる究極の形のような気もするなぁ。」「それ、まさにそうなのよ。『働くのが生き甲斐』っていう人しか会社に居ない社会のほうが、生産性が高いのは当然でしょ。だから、どの企業も効率化を目指しているくせに、働きたくない人まで働かせている今のやり方がおかしいって事に何故か気付いていないって断言してた。それに、仕事が好きな人だけが仕事に励んでね、残りの人は少ないお金で人生を楽しむ工夫をするみたいな状態のほうが健全な社会だし、いずれはそうなっていくらしいのよ。だって、勉強の好きな子って、親や先生が黙っていても勝手に勉強するでしょ?仕事も同じなのよ、きっと。仕事をせずにはいられないほど熱中できる人に汗を流して輝いて貰って、義務感とか責任感とかで働いている社員は要りませんって発想なのね。」「そうなると、あんまり仕事しない普通の人にとっちゃ、余暇が『余暇』じゃなくなって、ヒマが常態化する感じか…それもいいな。お金が必要な時期だけ社会貢献度の高い仕事を一生懸命考えて猛烈に働いて、あとはリタイアってことも出来るんだろうしな、って、それ、実は今でも俺が俺の人生の中でやれることなんかじゃないのかな。」「人手不足に困っている会社があなたの退職願望を引き止めなければって条件が付くでしょ。」「ああ、そうか。だからその人も『どの企業も効率化を目指しているくせに、働きたくない人まで働かせている今のやり方がおかしい事に気付いていない』って断言してたんだもんな。」「そうやって、アタマに入った科白を咄嗟にそのまま復唱できるのも、あなたの立派な能力よ。復唱なんて誰にでも出来るって思ってるかもしれないけど、実はしっかり相手の話を理解できる人にしか出来ないの。」「随分と今日は煽ててくれるねぇ。俺は春子さんの話に夢中なだけだよ。」「一旦、上司の話にもこれくらい夢中になってみたら、フフフ。」「こりゃ参ったな。」
――まずもって今後の世の中が彼女の視た報道番組のコメンテーターの言う通りになっていくとは俄かには信じ難い。が、ホントにそうだとしたら、完全に人の手にしか頼れない仕事として生き残るのは、スポーツとか芸術とか、そういう分野くらいのものなのだろうな。いや、もう1つ欠かせない仕事があった。風俗産業は無くならないだろう、ねぇ、サクラ。
旅番組を視すぎると、そこで旅先の魅力を詳しく紹介してくれるものだから、それなりに行った気分になってしまう。ましてこの歳になると、人生経験の蓄積によって、現地に行かなくても、現地で体感することになるであろう“愉しさ”や“心地良さ”が想像できてしまう。だから、あまり外へ出掛けなくなる。これがカネのかからない余暇ってやつか。いや、私の場合、全国の有名な観光地は大体もう行き尽くしてしまったということも多分に影響している。事実、私が“遠出”をする機会は、野球観戦とかサクラとの約束とかで大阪に行くのと、春子さんとの約束で東京に行くのと、業務上の出張と、この3つくらいしか無くなってしまった。否、大阪は“遠出”とは言えないな。
年明けを待ち切れない師走の二人においても、こんな会話がなされた。「金閣寺とか、清水寺とか、伏見稲荷とか、そういう所に初詣に行きたいって感じ?」「修学旅行で行ったことのある所はもういいわ。あなたが行きたいなら、悦んでお付き合いするけど。」「まさか。ホントは奈良とか滋賀とかに行きたい所があるんだけど、折角正月の京都に来てくれるのに、敢えてウチの近所から離れた所に出掛けるのも変な感じだしなぁ。」「だったら、私、嵐電に乗ってみたい。」「嵐電?そんなに鉄道好きだったっけ?」「ううん、そうじゃなくって、『オードリー』でも『カムカムエヴリバディ』でも走ってたでしょ。あの車両が通っている街の風景に触れてみたいな。嵐電にいつでも乗れる環境に住んでるなんて羨ましいわ。」「うわぁ~、朝ドラか!それ、大賛成!」
京都駅の新幹線到着ホームで彼女と母上様を出迎える。母上様には関西のお友達に会うご予定がおありとのことで、慌しく手土産だけをお渡しして八条口でお別れすると、早々に二人きり。私はタクシーを拾おうとするが、「荷物も重たくないし、地下鉄がいいよ。」と彼女。その荷物を私は彼女の宿泊先のホテルへ預けようとするが、「場所がちょっと面倒だし、イヤじゃなかったら、あなたの部屋に置いてくれる?」と彼女。四条まで二駅乗り、私の部屋にカバンを放り込んで、烏丸駅から阪急に乗ろうとすると、「大宮ってところまで一駅だけでしょ?歩こうよ。あなたの住んでいる街のまわりを眺めてみたいな。」と彼女。相変わらずざっくばらんで、さらりと嫌味なく私に要望を伝え、神社仏閣では無い日常の京都を自然体で喫しようとしている。
自分を幸せに出来るのは自分だけ。他人から愛されることで幸せになれれば、それはそれで素晴らしき人生なれど、それが叶わなかったとて、絶望したり悲観したりすることは無益であり徒爾でありナンセンス。誰とも結ばれずとも、自分で自分の人生を幸せにすれば済むからだ。極めて単純明快。ところが、恋に溺れし者はこの基本中の基本を無意識のまま忘失し、自分の幸せを他人に委ねたがってしまう。確かに、私が主人公として演じている人生の“舞台”は、春子さんの力によって華やぐ。けれど、この舞台は彼女の舞台では無い。こうした当たり前の弁別が、溺れる心に些かの余裕を生む。すると、この余裕が「彼女の舞台」「私の舞台」そして「二人の共演する舞台」を使い分けることを可能にし、寧ろ余裕こそが二人の共演を更に華やぐ展開へと導いている気がする。溺れているのに泳げる、溺れるようにして泳ぐ――やはり恋愛とは「入水(にゅうすい)」を愉しめども、決して「入水(じゅすい)」してはならぬもの。そう自らを幾度も説き伏せる私。
私の左側で微笑む彼女は、すぐ横の私が「歩いている」のではなくて「溺れている」のだと、一体どのくらい気付いているのだろうか。態と泳がせているのだとしたら、その手を差し伸べてくれても良かろうに。否、これぞ「自分の幸せを他人に委ねたがる」悪い虫そのものってことだ。
こんなにも淀みの無い女性の隣を歩く時空の快さを彼女に伝えたい。けれど、巧い言の葉が見付からない。おそらく古の人というのは、こんな場面で率直な気持ちを歌に詠んだのだろう。歌というのはフィクションだから、男女が実際に恋人同士でなくても、恋をしているようなフリをして贈り合うもの。高校の古文で業平先生からそんな事を教わった。ストレートに用件を伝えたいのであれば、日常会話で事足りる。なのに、当時の人はどうして三十一文字の制約を加えて自らの思いを表現しようとしたのか。それは、あくまでも「歌は架空の世界ですよね」という建前のおかげで、平素は恥ずかしくて言えないような本音も歌にしてしまえば相手に届けることが出来たからだと謂う。つまり恋愛、否、恋愛に限らず喜怒哀楽の胸の内を吐露するツールとして和歌は便利なものだったと解せるのだそうだ。そういえば万葉集で「筑波嶺(つくはね)の 新桑繭(にひぐはまよ)の 衣(きぬ)はあれど 君が御衣(みけし)し あやに着欲(きほ)しも」という歌に遭遇した折には度肝を抜かれた。概ね「私には高級な絹の衣があるんだけど、それよりもあなたの衣を着てみたいなあ」といったニュアンスだが、この「衣」とは何と下着のことらしいのである。当時は男女で下着を交換するのが珍しくなかったそうだが、これだけ変態的な愛情を投げかけることが許容されるのであれば、私が春子さんに「好きです」とたった一球のストレートを投じることなど容易い業ではないか。それで振られたなら、次の打者に全力を尽くせばいい。細かいコースがいちいち気になって、ついつい変化球で探りを入れがちになる自分が情けない。
もし和歌の伝統が文明開化によって切断されること無く、現代に至るまで挨拶のように和歌を交わす風習がほんの少しでも残存していたならば、私はさらりとこの息苦しさを彼女への歌に織り交ぜていたかもしれぬ…いやいや、忘れていた、私は庶民…貴族でも歌人でも何者でも無い。令和の現在、相聞歌を嗜みとせねばならない息苦しい立場にすら無いことが息苦しい。
迎春の古都、レトロな車両が天神川を渡り、太秦へと向かう。目の前にいる春子さんが朝ドラのヒロインのように煌いている。嗚呼、嵐山に辿り着くまでの15分のドラマが終わらぬ間に、恰も台本通り演技をしているかのようにして、実は本気で相手の女優に惚れてしまっていることを認(したた)めてしまいたい・・・つづく