WBCと岸田首相のしゃもじ
WBCが開催され、3月21日には日本がアメリカと決勝戦で優勝を巡って争い、最後は大谷選手が投手としてトラウト選手を三振に打ち取って勝利を確定させるという劇的な結末を迎えた。日本中で大変な盛り上がりが見られ、私も個人的にとてもワクワクとしながら、可能な時には試合をネットやテレビで観戦していた。少しだけ違和感を持ちながら。
そのような時に、21日に岸田首相がウクライナを電撃訪問し、ゼレンスキー大統領と会談したという。20日からは中国の習近平国家主席がロシアを訪問し、プーチン大統領と会談した。少し前の3月1・2日にインドが議長国で開催されたG20の外相会合に日本の外相は欠席したという。伝えられているところでは、中国を警戒する気持ちからインドは日米印豪でつくるクワッドの枠組みに参加しているが、ロシアに制裁を与えることには慎重だという。「いったいどのようなことが起きているのだろうか」と心配になるのだが、そのことについて踏み込んだ解説を行ってくれる報道は少ない。WBCももちろん楽しく重要だと思うのだが、やはりこのような国際情勢については、日本と世界の将来にかかわる事柄なだけに、さらに詳しく知りたいと望むのは自然な心情である。
その代わりに、岸田首相のウクライナ訪問と関連してもっとも報じられているのは、「しゃもじ」である。広島出身の一族に属する首相が、地元の宮島の名産であるしゃもじに「必勝」と書いて贈ったことである。しかも宮島のしゃもじには、日清・日露戦争で戦地に向かう兵士が積極的に奉納し、その習慣が盛んになった由来があるらしい。そのような由来がある品を、現在ロシアと戦争状態にあるウクライナに日本が贈るというのは、もし呪術やまじないを重視する立場の人が聞けば、ただ事でない振る舞いだろう。実際、ロシアの関係者の中には反発するコメントを発表している人もいるようだ。
私は、日本が西側陣営の一員としてウクライナを応援し、ロシアに対抗する姿勢を取るのは賛成である。しかしそうであっても、戦争当事国のウクライナに、一気に心の奥深くまで同一化しているかのような必勝と書かれたしゃもじを贈るような行為には、以下に述べるような理由で慎重であってほしかったと思っている。
しゃもじのことが国際的に重視されるとは思わないが、もし広く知られたら「広島」のイメージが分裂するだろう、とは考えた。戦後の広島は、被爆地として平和と核兵器廃絶に向けた一つの象徴的な意味を持つ地名である。しかし必勝を期して戦地に向かう兵士が詣でるところとしての宮島を有する広島は、事実大日本帝国における重要な軍事拠点だった。戦後にそのイメージは伏せられてきた感がある。そのイメージを書き換える可能性のある行為を、広島と縁の深い首相が行うことには、慎重であってほしかった。5月に行われるG7の会合では、各国首脳を宮島に案内するのだという。その時に宮島のことは、どのような場所として紹介されるのだろうか。
私が講談社現代ビジネスに寄稿するようになったのは、福島県で起きた原発事故がきっかけである。その時に、日本人の集団としての意識が「保守」と「リベラル」に分裂していて、そのために統一性のある意思決定を続けることができなくなっていることを指摘してきた。
https://gendai.media/articles/-/51030?page=4
一貫性のある信念や方針が不在なために、多くの日本人が常にその場の状況に全力で反応するしかなくなり、影響力の強い存在に同一化する(戦後ならばアメリカである)か、場当たり的で滅裂な言動が出現してしまうかのどちらかの結果に陥る可能性が高い。この場合の「保守」と「リベラル」は、あくまで「」つきで正確な呼び方ではない。自民党支持層と野党支持層というと限定し過ぎになってしまうだろう。精神科医なので、同じような心の反応のパターンが、次のようにくり返されると気になってしまうのである。
〇原発事故の場合
政策として進められてきた原子力発電所の事故-放射線の低線量被ばくによる健康被害発生のおそれ-「リベラル」による過剰な放射線の健康被害の喧伝-「保守」によるリベラルの「過剰な喧伝」の現実的な弊害の強調-「保守」が優勢な空気の維持
〇岸田首相のしゃもじの場合
岸田首相からゼレンスキー大統領への「必勝しゃもじ」の贈答-日本の国際的な立ち位置を変更する意図を政権担当者が持っている可能性への懸念-「リベラル」による日本の平和主義の社会的・政治的・文化的影響を損なう悪影響の喧伝-「保守」によるロシアの侵略行為によるウクライナが経験する悲惨さと「しゃもじを批判すること」の非倫理性の強調-「保守」が優勢な空気の維持
この構造は、例えば新型コロナウイルスに対するワクチン接種を巡る議論など、他の場面でもくり返されている。しかも残念なことにそれらの議論にはほとんど生産性がない。
このような意識の分裂がどこに由来するか遡るとするならば、注目しなければならないのは戦後の憲法9条と日米安保条約・日米地位協定との関係だろう。あるいは「核兵器」を絶対拒否する姿勢と、アメリカの核の傘の中に入り、安全保障の問題についてそこに完全に依存して生きてきた姿勢との関係と言ってよい。戦後の日本が、この問題について「オモテとウラ」の使い訳で問題を先送りにするばかりで、突き詰めて物事を考え、自分たちの将来のための決断を行うことを避けてきたことの弊害は、とても大きい。
この問題について、やはり政権与党は国民に対して不誠実な態度を取ってきたと思う。核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」という非核三原則を唱えた佐藤栄作元首相はノーベル平和賞を受賞したが、実態は日本の核武装についての研究を指示するなどの行動を取っていた。現在アメリカ側の資料が開示されたこともあり、非核三原則が主張されていた時期の日本国内の米軍基地に、頻回に核兵器の持ち込みが行われていたことが判明している。
しかし悪いのは政府だけだろうか。国民も悪いと思う。「日本はアメリカの属国である」と表現されるような内容の日米安保条約や日米地位協定について、知ろうとすれば今の時代ならば簡単に大量の資料にアクセスすることができる。(例えば、最近の講談社現代新書で取り上げられた内容にも、次のようなものがある。https://gendai.media/articles/-/107250?imp=0)特に、この問題に一番直接的に巻き込まれている沖縄の関係者からの発信には、相当に熱心なものがある。それなのに、それらの事実への国民全般の無関心は著しい。面倒くさいことにかかわりたくない、経済さえ順調に回ってくれればよい、軍事にかかわるきな臭い意思決定などとは無縁に生きていきたいというのが本音なのだろうか。マスコミも、政権与党に対しての批判的な議論を紹介することが不可避となるこの話題について取り上げることを、権力に忖度して控えているのだろうか。
日本の「リベラル」な知識人たちからの、この点に関する発言が少ないことを、私は批判的に考えている。もし本当に平和主義にコミットした発言を続けるのならば、自分たちの立っている足場がアメリカの核の傘の下にあるという矛盾に誠実に向かい合い、それを克服するための必死の努力がなされるべきだと思う。そして日本がアメリカに依存せずに自分たちの安全保障を成立させ、その流れに世界を巻き込んでいくために理論を確立し、それに基礎づけられた実践が目指されるべきである。たとえば加藤典洋の『戦後入門』などは非常に重要な著作だと考えるが、この本はそれに相応しい注目と尊敬を受けていない。このような営みにコミットせずに、アメリカとそれと同調する日本政府が与える保護を十分に享受しながら、その両者の振る舞いを論難しているだけと見なされるような言論ばかりを発表し続けるのならば、その陣営の影響力は次第に縮小していくだろう。
その次の展開として私が危惧するのが、あまりにも日本の「リベラル」からの発信内容が乏しいために、戦後の民主主義・平和主義が達成したことの価値が全否定され、日本が戦前の価値観を称揚する軍事国家のような姿に先祖帰りしてしまうことである。戦後に本当に日本社会は民主化したのだろうか。民主主義の本質にコミットすることなく、それをマッカーサーのようなアメリカの偉い人に従うことと属人的に理解し、従う相手を天皇からアメリカに代えただけではないか。戦前の日本社会を規定していた「国体」の意識は存続しているという指摘も、くり返し行われている。今回取り上げた岸田首相の「しゃもじ」には、そこにつながるものが感じられる。しかし本当に戦後には、それを超える日本人の精神の展開はなかったのだろうか。
冒頭にWBCの盛り上がりについて「小さな違和感」を持ったと書いたが、その理由は、戦前・戦中の日本社会を覆った大政翼賛会的な空気につながるものを感じたからだ。どさくさに紛れて、「日本的な集団主義の精神性が優れているから、個人主義の外国に勝つのだ」といった主張を行った人もいた。1次リーグ後半のマスコミの報じ方を見て、日本が勝ち進んだ状況で、決勝トーナメントで当たる可能性の高い強豪国の分析を行う記事が少なく、すでに勝ったチェコなどの国を格下に見る視点でのほほえましい記事が多かったのを見て、「ああ、やっぱり日本人の脆弱なナルシシズムを脅かさずに、それを満足させるような記事が売れるんだな」としみじみと感じた。
しかし、大谷翔平選手は、本当にすごかった。稀代の才能を持って生まれた人物が、生まれてからのすべての時間、工夫と努力を全力で傾けて生きてきたようにすら見えてしまう。すでに多くの偉業を達成し、現在もその達成を増やし続けている。私は大谷選手と何の縁もゆかりもない人間だが、それでも同じ日本人というだけで心理的に一部同一化し、その偉大さの端につながれるように感じただけで誇らしかった。そしてその誇りには、単なるナルシシズムではない、現実的な根拠のある歓びがともなっていた。
それだけに、純真無垢に野球だけにひたすら向かい合って来た人物が、周囲の意図によって特定の文脈に置かれることで汚染され利用されることは起きないでほしいと思っていた。しかし大谷選手をはじめWBCに出場した日本の選手たちは、そのような余計な心配を超える姿を見せてくれたと思う。大谷よりはちょっとだけ透明度が落ちそうな(それは適切な自己主張があるという良い意味でもある)ダルビッシュ有選手が、すこし古いが2020年に日本的な根性論に批判的なコメントを出してくれたことをありがたいと思った。https://real-sports.jp/page/articles/345850526409163798?fbclid=IwAR37w-DRyIHA7N6Hco97f9W7j1TRDwEsGIrKGrGSLnvFbD_gnPNehYJsSZI
個人的には、ずっと不調だった村上選手が準決勝でサヨナラヒット、決勝でホームランを打ってくれたことが、とても嬉しかったことを記しておきたい。最後にこのような機会に立ち合わせてくれた、全ての関係者に感謝の言葉を申し上げたい。
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