なぜ、羨望について知ることが大切なのか
人間の感情の中で、最も恐ろしいものを羨望だと考えています。
他の人の持つ良いものを、羨ましく思う心。しかし相手と自分の両方の存在を承認した上での嫉妬ならば、それは人間関係を活気づけるものともなりえます。
問題は、自分の存在への確信が薄く、「自分の場は容易に他者に奪い取られてしまう」という不安にとらわれている場合です。他者の良いものを認めることは、自分の持つ良い場所を奪われる恐怖と結びつきます。したがって、他の人が自分よりも良いものを持っている時に、その良いものを持つと感じた対象を破壊し、なきものにすること、そしてできれば、他者の持つ良いものを自分の自分のものとして奪い取りたいと願うのです。
ちなみに「感謝の思いなく仕事を押し付ける」というのも、羨望の現われと解釈されることがあります。
ある分析家は、羨望のことを、同胞が母から授乳する姿を、蒼ざめた視線で見つめる幼児の姿として表現しました。
日本は優れた文化を持つ社会ですが、「内輪の関係で生じる羨望」の感情を抑制する文化的な仕組みに乏しいのではないか、という懸念を抱いています。
権威を重んじる文化はありますから、すでにestablishされた存在に賛同することは、それほどに難しくはありません。
しかし、establishされていないもの、それも内輪の「タテ社会の序列」の中で、自分と同格、あるいは下、と感じている存在の優れたものを、優れたと認めることが著しく苦手であると考えます。それを認めるよりも、羨望によって破壊しようとしてしまう。
「出る釘は打たれる」社会ですから、この社会で生き抜く処世術としては「能ある鷹は爪を隠す」ということになります。それだけで閉鎖的にやっていかれる時代は良かったのですが、西欧流のグローバルな自己主張が要請される時代状況と、この行動規範は明らかに矛盾し、混乱をもたらします。
アイデアや能力のある人が、周囲の人の羨望を刺激することを恐れて、それを表現できることのできない集団は、内発的なイノベーションを起こすことはできず、世界が速い速度で変化することに遅れをとることは明らかでしょう。
もちろん、羨望は人類共通の弱点かもしれません。聖書だって、その冒頭近くのカインとアベルの物語のように、羨望が引き金となる兄弟間の殺人を描いています。
しかし宗教や、近代的な法や哲学が機能している社会では、「閉鎖的な集団が抱く感情」の暴走を牽制する文化装置が、ある程度は機能しています。
一方で日本では、閉鎖的な集団が抱く感情、特に恐ろしいのは羨望による破壊性ですが、それが高じた時に、それを牽制して水をさす文化的な仕組みが、現在は壊れてしまっているのではないか、という危惧をいだいているのです。
この20~30年の日本の停滞は、一人一人の日本人、あるいは一つ一つの日本人の小集団が、羨望による破壊性を自覚できず、それを矯めることができなかったことも原因の一つだと考えます。
「周囲の人を見まわして、その羨望を刺激しないように、そのすべてをなだめながらでなければ、何も進まない」社会では、生産性が低過ぎます。
私が行いたいのは、このことを見える化して、それを何とかするための文化的な事業なのです。まだ、漠然としていますけど。
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