誰にも見られていない日本人
人間は、人が見られていることでちゃんとするけども、見ていないとズルいことをする動物です。
このことは実験心理学でも明らかになっています。
この「クセ」を利用したルールがあります。
国家機密をアメリカなら25年、ヨーロッパの多くの国なら30年で情報公開するルールです。
いずれ「人」に見られる。ちゃんとする、暴走をコントロールしようという営みです。
ちなみに…日本では「桜の会」問題で明らかになったように、人から見られることがわかったら、シュレッダーで機密文書を証拠隠滅してしまう恥ずかしい国です(笑)
「見る神」で代表的なのは、ユダヤ教の神やキリスト教の神やユダヤ教の唯一絶対神です。これ以外にも、かつての日本で「お天道様が見ている」とか「ご先祖様が見ている」という場合も、「見る神」の存在です。
「見る人」がいなくても「見る神がいればちゃんと」します。
神を持たない社会、あるいは神が死んだ社会ではどうなるか。
それを指摘したのが、社会心理学者ミード。
「I」と「Me」の有名な対立概念です。
「Me」とは「自分が見た自分」
「I」とは「自分が見た自分に対するリアクション」
と言いました。
これは、瞑想、仏教の思想でも非常に近いものがあります。
例えば、自分が不安を感じたとしても「不安を感じているな」という「リアクション」がそうです。
「不安を感じる自分を見る自分」です。
「不安」を感じている自分(=Me)がいても、「それはそれで良い」(I)ということですね。
カウンセリングや心理療法でも取り入れられているものです。
要は、「見る神」が存在しなくても、「見る自分」の存在によって、自分がちゃんとすれば良い。
人様の不倫ごときでぴーちくぱーちく騒いでるTHE・ジャパーン(笑)では死語(笑)ですが、欧米でいうところの「主体性のある自己」(自立した個人)です。
一方で、日本では、「もろい自我」を持った人たちが、お互い肩寄せ合って、マスターベーションして気持ちよくなっている大変ひどい状態です。
日本人の大半は「中学生並み」です。特に、大人。
私が言ってるわけではなくて、「日本人の大半が中学生レベルだ」、と明確に指摘したのが、文化人類学者のルース・ベネディクトです。
太平洋戦争(1941-45年)の日米開戦の直後に、超余裕な感じで、「どうせアメリカは日本に勝つ」ので、打ち負かした後、敗戦後の日本を統治する方法を検討するために必要な、日本文化、あるいは日本人を研究するため、さまざまな研究者が集められました。
リーダーが彼女(ベネディクト)でした。
米兵は、当初から日本兵はキチガイ、気が狂っている(特攻、集団自殺)と。
日本兵は狂信的ナショナリスト(愛国者)だと思っていたら、全然違った、ということを書いています。
捕まった日本兵、ほぼ全員例外なく、食事と寝床を与えらて、ちょっと優しくした。
翌日から「聞いてもいないうちに」極秘事項であれなんであれペラペラと喋り始めた。
日本軍の武器食料弾庫の位置や作戦や米軍の戦闘機に同乗して軍事施設まで誘導してくれた。
そこには誰も愛国者はいなかった。
ショックすぎて。でも、これは日本人の本質なんですね。
彼女はそこに日本独特の「恥の文化」という概念を持ち出したわけですが。
要は、周りの視線を気にして、「日本が好きでーす」ブリッコしていただけ。
周りに合わせていただけ。
他人に合わせていただけ。
集団内で自分のポジション取りをしていただけ。
周りが●●主義のとき、自分も●●主義になっていただけ。
米の答えは、日本人に信仰者はいない。いるのは集団内での居場所取りゲームだと。
「I」の感覚の不在です。
少なくとも、まあ、アメリカ人からみたら、大半の日本人は中学生に見えたのでしょう。
「嫌われる勇気」でベストセラーになったアドラー心理学の理論も同じです。
「親から言われたからやる」「周りが見ているからやる」ではなく、誰も見ていなくても、あるいは言わなくても、ちゃんとする子どもになりなさい、と。
だから、アドラー心理学では、「ほめる/罰」は「ちゃんとする子ども」を作らないというスタンスでした。
詳しくはアドラー心理学を勉強してみてください。
社会心理学者のミードによると「信念なき人」は、子どもの心身発達過程における欠陥だと言いました。簡単にいうと、教育の失敗です。
「見る人」がいなくてもちゃんとする。
「見る神」がいなくても、「見る自分」の存在があるのでちゃんと振る舞えることが重要なのです。
「見る神」や「見る自分」が、「損得を超えた信念(内から湧き上がる力)」をもたらしてくれたら良い。
いずれにせよ、人が見ているからちゃんとするのと、人が見ていないときに信念でちゃんとするのとでは、動機づけ(やる気、価値、勇気)圧倒的に違います。
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