SNSひま部管理あれこれ-「悟り」は開けない-
お久しぶりです。
みんな大好きほらっちょねえちゃんです。
また最近日本で大きな地震がありましたね。被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。
さて、縁あって、'ひま部'という'クソイキリインキャたちの集まり'
・・・あ、失礼🙇♂️🙇♂️🙇♂️
10代の未来ある素晴らしい若者らに大人気の'暇つぶし神アプリ'の管理をさせていただいてもうまもなく2年が経とうとしています。
で、そのアプリで子どもたちと色々話をさせていただくチャンスがめちゃあって、常々思うところがあったわけです。
まず私自身、ずっと苦しかったわけです。今も苦しいわけです。よく死にたいと思うこともある。あ、いや、別に病みアピールじゃないですよ。w
物心ついたときからのわたしの人生最大のテーマが、
・なぜ、わたしはわたしなのか
・わたしとは一体なんなのか
・ありのままの自分とは一体どんな状態なのか
・本当の自分とはなにか
・わたしがわたしであり続けることにどのような意味や理由があるのか
でした。
こんなカスにもならないクソつまらないことばかり考えていた思春期。
今もその問いは頭の片隅に残り続けてます。
小さい頃から周りになじめず、いじめられ、暴力をふるわれ、非行に走り、男性でもあり、女性でもあり、トラウマ、リストカット、自殺願望、殺人衝動、引きこもり、不登校、対人恐怖やアルコール中毒、性依存症など無茶苦茶で太平洋の荒波なみにクソ荒れていました。
発達障害という症状のせいもあってか、やはり'変な子'としていつも周りにないがしろにされてきました。
ずっとずっと「私」というものに居心地の悪さをどこかに、でも確実に感じてたわけです。
醜い情けない惨めな「私」がいる。
外に出てみりゃ、人の視線が怖くなる。
人の視線が怖いと感じる「私」がいる。
周りに相談しても、「ポジティブに生きよう」「もっと自信をもって」と言われるだけで、なんの解決にもならないし、こりゃラチがあかん。切羽詰まった状況だった。まさに地獄。
・・・なんで生まれてきたんだろう
・・・「わたし」として生まれたくて生まれたわけじゃない
・・・死にたいよ
・・・リスカしょ。。。😔
こんな感じで笑
底なし沼にどっぷりつかってた。
しかし
いやまてよ
そのうち「わたし」とか「自分」とか呼んでる存在って呼ぶものは一体なんなのか
もしかして問題はもっと別にあるんじゃないか?
小さい頭で必死に考えるようになりました。
親の影響もあってか、もともとキリスト教の信者をやっていたわけですが、高校の恩師(坊さん)の影響で、キリスト教を辞め、仏教に熱心に取り組むようになりました。
よくわたしは色々な人から《宗教にそまったキチガイ》みたいな呼び方をされることがあるけれど、これは'大きな誤解'があって、世界中多くの人間たちがごく普通に日常生活に《宗教》が根付いてるわけで、あなたたちのほうが世界からみれば《レアケース》《キチガイ》だよ、と思います。
わたしにとって宗教は《道具》です。
《少しでも楽に生きるテクニック》です。
《一つの道路標識》に過ぎない。
それが《人生のゴール》と信じると変にものごとがおかしくなっていく。
たまたまつかってみたら「あ、案外便利かも」ってなだけで、それが別に《宗教》でもなくとも、《音楽》でも、《憧れる人の言葉》でもなんでも結構。しょせんそのレベル。
日本の人は宗教に対する敷居がかなり高いなぁと感じました。
戦前の日本だって、宗教を'心のよりべ'としてしていた歴史があるわけで、毒されてるほうはお前たちやろと。
まあ、なぜ日本人が宗教アレルギーになったかなんてのはここでは省くが。
ひま部のアプリやツイッターなどで様々な人たちに本能的に共感してしまいます。
ユーザーの痴話喧嘩にはじまり、悪用なりすましされました、悪口を言われました、スクショされました、ストーカーされてます、特に女の子に対する人権を踏みにじるような許しがたいセクハラ的嫌がらせなど。おっぱい見せろだ、泊まりきてだ、今から遊ぼうよだ、ちん●見てよだ、アカウント潰しだ、脅しだ、個人情報拡散だ、エロイプだ、オフパコだ、出会い厨だ、論争で勝った負けただ、イケボだ、カワボだ、知名度だ、俺が大手だ、お前は無名だ、死にたい、いますぐきえたい、生きる意味は?誰かを殺してみたい、いじめ、人間関係、進路、恋愛、援助交際、エロイプ依存症・・・etc
まさに'歩くスラム街'とはこのことwwwww
しかし、とても嬉しく、ホッとします。(不謹慎?😱)
つまり、『寂しい、苦しいのはわたしだけじゃなかった』『君は人生をよく分かってる』と。
同じ仲間ができて安心する不思議な感覚。
もっと思考を深めると、
でもさ、なぜ、こうなるの?
なぜ、人はこのような行動をするのだろう?
一定の'答え'にやっとこさたどり着いた。
⬇️
《わたし》《ぼく》《俺》という感覚、自意識、自我があるから
⬆️
仏教では、ふつう《全ての苦しみからの解脱(げだつ)》を説く、と言われます。
《自我》(わたし)を完全にたちきって、
心を乱す煩悩(ぼんのう)も完全にきって、
《悟り》(なににもこだわらず、煩悩などにまどわされない心安らかな境地)を開き、苦しみから離れて、幸せに生きることを目的としてるのがふつう。
何かに没頭して無我夢中になってることを、《三昧》(ざんまい)と言いますよね?😀
読書三昧とか、ゲーム三昧とか。
我を忘れているという意味に使われてますが、もともとインドの言葉の仏教語からきているのです。
仏教でいう三昧の意味は、《わたし》の消滅です。
世界中だれもが大切にしている《わたし》という感覚を少しいじることで崩壊させます。
無我夢中の「無我」も仏教語からきてます。
唯一悟りを開いたと言われてる仏教の開祖お釈迦さまは『無我』という教えを説いた。
これは無我夢中でもわかるように『私が消える』『わたしはいない』ということ。
ふつう私たち人間の自意識(わたしの感覚)は、世界は『わたし』と『あなた』と『りんご』というようにそれぞれ別々にみています。
坐禅をすると・・・
ふだん
'わたし'
とかいってかたくなに信じてる'わたし'の存在が消滅して無意識になっていることがあるんです。これはスピリチュアルな話でもなんでもない。誰でもできる。
これを《無我夢中》といいます。
怖いですか?わたしやばいやつだとか思ってませんか?
人の身体に'ある操作'を加えると、人間の意識のレベルが切り替わっちゃうんです。
我々が日常で「自分」とか「私」とかって使っている意識――自意識――は、ものすごくもろいんです。
これは、ある身体操作を加えるとぶっ壊れてしまう。まじで。
地下鉄サリン事件で無差別テロを起こしたカルト宗教のオウム真理教が使ったのはそこなんですわ。
まずいことは、'ある経験'を'絶対化'して「これぞ真理だ」みたいに植え込んだのね。
私に言わせればそれは、ある操作をした結果にすぎない。
意味があるとすれば、日常の「わたし」は崩れる――自意識「わたし」の感覚はもろい――ということだけで。
かたくなにいると信じてる「私」というものは、実は非常にもろい構造しかもっていないということが一発で分かるときがある。
怖いですか?
めちゃめちゃ良い気持ちですよ(笑)
坐禅が深くなって、無意識レベルで無我夢中になると、五感がごちゃ混ぜになってくる――んですよ。
全体の感覚があるようなないような、点滅しているみたいな状態になる。
それと、体の内と外というイメージが崩れちゃうんです。
つまり、人の視線が怖いと思っても、その不安や怖さが「背中の後ろ側」にあるように感じたり、
脚が痛いなと思っても、脚が「その辺」にあるような気がするんです。
それから、何か音が聞こえてきても、頭の中で響いているのか外側で響いているのか全然分からない。
怖いですか?www
感心しますか?
感心しちゃ駄目なんですよ。
これは悟りでもなんでもない。「そうなる」っていうだけ。
ここで、大事なのは、普通「私が音を聞く」とか「私があなたを見る」「私はあなたに悪口を言われる」というこの感覚と行為――私のあり方――が一気に崩れるということです。そういうことはあるんです。
つまり、「ある体験がある事実」と、
ある体験の意味を語ることは別でしょ?
なので、体験がどうであるかということを聞いても駄目。
だから私がここで何を言ったとしても、「ああそうですか」って聞いていてよ。
もしほらっちょねぇちゃんが「これぞありのままの「わたし」だから、それを教えてあげるから、あなた五百万円持ってきなさい」ということになったら、おかしいなと思わなきゃいけないです。即わたしを警察に突き出してください。
よく例に出しますが、「ひま部は変態しかいないアプリである」と言ったとき、
この文章には「裏」が隠れているんですわ。「ひま部は変態しかいないアプリである『と思う。私は』」という、「と思う。私は」の部分が、普通隠れているんです。
だって、あなたが思ってるわけじゃないんだから。
思うのは、わたしのみ。
そうすると、この「と思う」という理由なり、根拠は何か?
「私は」というのは誰なのか?
それを我々は問わざるを得ない。
これが仏教ですわ。
よくネットで出会ったら'自己責任'と切り捨てられるが。
自己とは一体なんなのか?これを問わなきゃいけない。問わずして自己に責任もクソもないだろうと。
問題はこっち『と思う。私は』なんです。
なぜ「と思う」のか?
その「思う私」とは誰なのか?
なぜ、人の視線が怖いのか?
対人恐怖のとき必死に考えましたわ。
わたしが変に思われたくない。バカにされたくない。
じゃあ、そのわたしとは、どこいるのか?
これ、かなり若い子のコミュ障対策に効果的だよ。
お釈迦さんが見ようとしているのはそっちだと私は思うんですね。
なので、仏教を語るときなにか葬式だの法事だの陰気臭い暗いイメージがありますが、哲学的な宗教だと思ってます。
わたしとはなにか?これが本来の仏教。
それ以外の仏なりなんなり語るのはインチキ仏教だと思ってください。
割と楽しいですよ、ハマると(笑)
だれもがもって、使っている言葉は、実は人間だけに通用するもので、「宇宙の真理」ではないでしょう?
だって、川や山やひま部のアプリが言葉話すわけじゃないんだから(笑)
つまり、人間だけが言葉を使い、考える動物ですが、目の前にある対象を言葉で認識して、考えるように発達してきたのです。
これが人類の歴史です。
例えば、山は高く、川は低い、ひま部の男は変態と、女はメンヘラと認識や区別ができるようになったのは'言葉'による'思考'でしょう。
しかし、これが人を'ごうまん'(偉そうな態度)にさせた。
言葉によって考えることは'非常に便利な能力'だけど、ぎゃくに言葉があるから人は苦しむわけです。
ひま部で論争ごっこして勝った負けたとか痛いことやってる若い血に飢えた連中もそうでしょう。
人間が、論争して勝手に勝った、負けたと区別して、信じてるだけで、人間は「ある」と錯覚してますが。
ですからお釈迦さんのいう
《空》(くう)とは、
実体がないということ
わたしという実体がない
「私」という言葉があるだけだと
「あらゆるものは'空'」である
「そこにわたしはいない」
「わたしも空である」
桜が春に咲き誇り散っていくように
あらゆるもの、人の命も、いつか必ずきえていく
このだれもが感じる'むなしさ'にひま部で自覚できない若い子が承認欲やら、性欲やら暴走してる感があって非常に面白いアプリです。
人間らしくて素敵。ほんと。(ダレダオマエ)
「人間が苦しいと思い込んでるが、じつは苦しみも、楽しさもなく、実体のないものを、人間はあると思い込み、わたしがあたかもいると錯覚する。人間の感情や感覚が勝手に作り出してる脳内映画」だという
新しい見方
が自覚できれば世界が変わって見えます。
そして、前も言ったように
人が「わたし」とか「あなた」とか「言葉」で話してる限り、人は苦しみから完全に逃れることはできないはず。でも和らげることはできる。
「悟り」なんて開くことはできない。とひま部をやっていてふと思いました。
おやすみなさい。
読んでくれてありがとうございます😀