法螺貝談義(第57話)
一大事の法螺貝。
一大事と聞くと大事件みたいなニュアンスで使われていますが、この言葉は仏教が由来です。
法華経という教典の中に「一大事因縁」という言葉が出てきます。
これは、この世に釈尊が現れた理由(目的)のことを指します。
不安や迷いを感じやすい現代において、釈尊の身体を通した実践の教えは世界中で注目を浴び見直されています。
一大事とは、その智慧を教え(開)、示し(示)、理解させ(悟)、納得して自ら道を実践する(入)ことであり、開示悟入という偉大な事柄(釈尊の目的)という意味合いです。
法螺貝に話を移します。
音を聴くとは現在にしか成り立ちません。
過去の音はもう聴けませんし、未来の音はまだ聴けません。
普段我々は今を忘れ、心は過去や未来に行きがちで、心ここにあらずの状態になっています。
あれが欲しい、これが欲しい、まだまだ足りない、ああでもない、こうでもないと思っている時は、過去や未来に浮遊するアタマの世界に浸っています。
こういう状態の時は身体を忘れています。
現代は情報に溢れかえり、それが舞い込むツールも多いので、これだと一日の中で身体の感覚を感じない時間も多くなります。
法螺貝の音は「今」に還してくれます。
聴くということは「今ここ」の身体感覚に還ることでもあります。
法螺貝は仏教では説法のシンボルで、過去や未来に浮遊する妄想の迷い(煩悩)から、法螺貝の妙法音により長眠(眠りこけた迷いの状態)から驚覚させ、気付きへの入り口を与えてくれます。
法螺の音で三昧(三昧法螺声)に住すれば今現在の瞬間の身体に還ります。
「今ここ」の状態のことを、仏教で「三昧(さんまい)」と言い、今に落ち着いた状態で迷いから離れ物事を〈ありのまま〉に観ることを「六根清浄」と言います。
六根とは「眼耳鼻舌身意」の事で〈見る、聴く、嗅ぐ、味わう、感じる、思う〉といった感覚の入り口のこと。
普段は六根からの情報に○とか✖︎とか〈ワガママ〉な思いを付与していますが、先ずはそのこと自体(迷い)に気付くキッカケも法螺貝は与えてくれます。
迷いとは、迷っていることにすら気づいていないことを迷いと言います。
迷いそのものの中にあるという自覚を持つことがとても大事です。
一大事の思いを持って法螺貝を吹きたいと思います。
YouTube「立螺」