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日曜日の音質

むかしむかし、駆け出しの頃に大変お世話になっていた音楽雑誌の編集部に上京がてらお邪魔した時のこと。

作業をしていた女性編集者の方と、ポーランドのあるジャズ作品について「あれはいいですよね」とうなずき合う一幕があった。ところがザッツグレイト、アイアグリーで話が済むはずが、彼女からこんな一言が飛び出したのだ。

「でもあのアルバム、録音が良くないのがちょっと残念なんですよ」

えっ。あれのどこが? そんなに録音悪かったっけ。

ちょっと狼狽してしまったためか、肯定とも否定ともつかない「うっ」みたいな声を出したきり、何も言えなくなってしまったのをおぼえている。

きっと彼女が正しいのだろう。僕は音色や音質に関してそれほど鋭敏な感覚を持っているわけではないという自覚がある。あと、これはかなり重要な点だと思うのだが、そもそも僕は「ほんとうにいい音で音楽を聴いたことがほとんどない」のだ。

その頃も今も、僕の家にはちゃんとした音響機器がない。3千円くらいのしょぼいレコードプレイヤーに、ちっさいCDコンポだけ。仕事だろうが趣味だろうが、僕はずっとそういうチープな機材で音楽を聴いてきた。いわゆる「本物」を知らない人は、自分の経験の中における最高点を本物だと勘違いする傾向にある。だから、きっと彼女が正しい。

本物との違いと言えば、こんなことがあった。青森県弘前市にある某大学を卒業後、僕は東京に出た。上京後最初に就いたバイトが、某有名レコ屋チェーンの新宿にあるジャズ専門館の店員だ。中学の時からジャズ好きで、大学時代に実際にジャズを演奏していた知識が買われ(たぶん)、面接後即採用になった。

店内では基本、店員が好きな盤をかけていた。思えば、この頃が人生で唯一「いい音」で音楽を聴いていた時期だ。ある日誰かが、サム・リヴァーズのブルーノートの名盤「フューシャ・スウィング・ソング」をプレイした。このアルバムはまだ聴いたことがなかった。天才ドラマー、トニー・ウイリアムズのシンバルレガートの怖いほどの美しさに、まさに鳥肌が立った。その時は店内に客がおらず、仕事を忘れてしばし聴き惚れてしまった。

家でも聴きたい!と思い、後日CDを購入したのだが、部屋で再生して拍子抜け。トニーのシンバルは、「あの感じ」で鳴ってくれなかったのだ。もちろん天才の演奏だから、しょぼいオーディオで聴いても充分すさまじい。でも僕の心は全然踊ってくれなかった。

この体験は僕を「録音がいいとか悪いとか言ったって、結局再生機器やプレスヴァージョンに左右されるんじゃないか。つまらねえ」という音質ペシミストに変えてしまった。

そのお店を辞める直前、僕の後釜として新人のK君が入ってきた。彼は「うどん県」(もっとも、そんな愛称がつくはるか前のことだけど)の香川出身だ。ちょっとしか一緒に働かなかったけれど、性格の穏やかないい奴だった記憶がある。ある日、仕事の合間に「ところで、東京のうどんってどう?」と訊いたら、こんな答えが返ってきた。

「あ、東京にうどんはないです」

即答だった。気のせいか、いつも微笑みを絶やさない彼の顔がその時だけ厳しく引き締まっているように見えた。うどんの「本物」を知っている彼にとって、東京のうどんとはうどん以前の何かなのだろう。これもまた、本物を知る人とそうでない人の差異について考えさせられる出来事だった。

今ではなんとかライター業を10年近く続けさせてもらっている僕がプロになるきっかけは、ポーランドのジャズを紹介するブログをはじめたことだった。もう17,8年近く前のことになる。数年続けていると、なんか変わったジャンルを書いているのがいるぞ、ということでちらほら仕事をいただくようになり、今に至る。ちなみにそのブログはもう閉鎖してしまった。

そもそも僕がポーランドのジャズにはまったのは、この国のジャズ演奏家たちの「音色がむちゃくちゃ美しい!」と感じたから。アヴァンギャルドでエクスペリメンタルな作風の人もかなり多いのだけれど、とにかくどんなジャンルのプレイヤーでも聴いていて耳疲れがしない純度の高い音を出す。

ミクスチャーな音楽性も魅力だったが、僕がそれ以上に心打たれたのはこの国のジャズの美しい音色なのだ。しかしここまで読んで来た方からはきっとこうツッコミが入ってしまうだろう。

「ふだんいい音で聴いていないお前が語る音色の美しさってwww」
「お宅のしょぼいオーディオでいったい何がわかるんだ」

確かにそれは言える。でも、僕が「ポーランドジャズの音色は美しいのだ」と言い続けてきたのが単なる妄想でなかったことは、のちにオーディオ愛好家やプロのミュージシャンの方の多くが同意してくださって、ある程度証明されたと思う。ただ、その妄想が正しかった理由は僕の耳が鋭敏だったからではなく、まさしくその「美しさ」が妄想から生まれたものだったからだ。

自分で何を言っているのかわからなくなってきたので整理する。ポーランドジャズのアルバムから僕が聴き取った「音色の美しさ」は、録音や再生の良し悪しのことではないのだ。最初に書いた、女性編集者とのやりとりをもう一度思い返したい。僕と彼女は実は同じことを言っている。

僕にとって音色の美しさとは、実際に聞こえてくる音や録音の良し悪しを超えて「きっと直に聴いたらものすごく美しい音色で弾いているはず」と妄想させてくれる音のことなのだ。編集者はそう妄想せざるを得ないことを「録音が良くなくて残念だ」と評し、僕は妄想させてくれたことそのものを美しいと評価しているという違いでしかない。

それは、僕が音楽を聴く上でのベーシックな姿勢のような気がする。僕にとっての究極に美しい音楽は、まだ聴いたことがない音楽について書かれたレヴューや評論を読んだ時に、頭の中で一瞬だけ鳴る想像上の音楽だと思っている。

優れた書評を読んだ時、購買欲をかきたてるCMを見た時、面白さを伝えるのがとてもうまい友人がある映画をほめた時。誰もが心の中で「どんなものなんだろう」と感じる。その時にきっと「自分が楽しめそうな」何かを妄想の中で漠然と形作っているはず。それはとてもあやふやで不確かなものだし、実際作品に触れた時に忘れ去られてしまうようなはかないものだけれど、妄想ゆえの甘美さがあるように思うのだ。

ポーランドのジャズ演奏家が奏でる音色はそうした妄想の発生装置なのだ。実際に素晴らしい音質で録れているものでもそうでないものも、なぜか「生で聴いたら美しいはず」と確信させてくれる。そういう音にしかない何かが、機材やエンジニアのスキルといった現実的な問題を飛び越えて強く訴えかけてくるのだ。

だから「どんな音でも妄想すればいい音色になる」とは思っていない。実際にものすごく美しい音で弾いている時にしか生まれない何かを、僕はこの上なく美しく感じる。僕の耳が鋭いわけではなくて、そう感じさせるだけのものをその音色が持っているのだ。

つまり僕は音楽についてはリアリストではないのだろう。実際に聞こえてくるものとは違うものを感じようとしているのだから。ライターとしてもそのスタンスは変わらず、音楽そのものや音色が持つ何かが生む妄想の楽しさ、美しさについて伝わるようなテキストを書いてきたし、きっとこれからも書く。

ニーズがあるかどうかは知らないし、音楽ライターとしてふさわしいものなのかもどうかもわからない。でも僕にとっての音楽の美しさはそういうことだというのは変わらない。

僕と女性編集者が絶賛したアルバムは、ポーランドのピアニストWojciech Niedziela ヴォイチェフ・ニェジェラの『To Kiss The Ivories』という作品だ。90年代に膨大なアルバムをリリースしたPolonia Recordsというレーベルから発表されたもので、僕の永遠の名盤だ。ヴォイチェフ率いるピアノトリオも、Maciej Sikała マチェイ・シカワのサックスもとにかく切なく美しい。ただし録音は良くない、のかもしれない。

残念ながらオーナーでプロデューサーのS氏が失踪してしまったため、万が一彼と連絡が取れるまで再発も配信化も実現不可能なのが決定済みだ。中古レコ屋で見かけたらぜひ買ってください。オススメは「420km from Home」という曲。僕が選曲したコンピ「ポーランド・リリシズム」に入れようとしたものの、上記理由により断念せざるを得なかった。

かわりに、このアルバムからの曲をトリオ編成で数多く再演したライヴアルバムのSpotifyリンクを張っておく。ポーランド語でniedzielaは日曜日の意味で、このライヴ盤のタイトルDomingo's Tunesはポルトガル語のdomingo 日曜日と彼のファミリーネームをかけたものになっている。この記事のタイトルはそれをさらにかけたもの。

僕がポーランドジャズから感じる「(妄想含みの)音色の美しさ」の片鱗をこの作品からも受け取ってくれると、とても嬉しい。


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オラシオ
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