卵のお菓子
全員が大阪の言葉を話せないのは偶然だった。浩子は千葉から、私は名古屋から、それぞれ一年前、祐介くんはつい三か月前に福岡から来た転校生だった。
浩子は千葉の前には東京にいて、私は埼玉、名古屋から大阪へ、祐介くんも九州の中をいくつか回って、五つ目の転校だった。転校生同士という気安さはあったけれど、転校生が一緒にいれば、他の子たちとは仲良くなりづらい。それを知っていたからか、同じマンションに住んでいながらあまり話すことはなかった。
私はどうにか仲良しを作り、祐介くんは、物珍しさからまだ皆にいじられていた。浩子だけは一人でも平気なのか、孤高を保っていた。
三人は毎日マンションの入り口で顔を合わせた。子供たちは距離を保っていたけれど、母親同士は茶のみ友達だったので、子供たちもなにかと存在を意識していた。
自由研究の班分けのくじ引きで、偶々私たちが一緒になったのは、転校生三人には少々重荷だった。
最初、浩子と私が「星のことを調べよう」、「この町の歴史は？」とか、「つまらない」、「面白くない」だの言い合っていた。ふと、二人の視線が黙っている祐介くんにいった。
「田上くんは？何か調べたいものないの？」
「…お菓子。おばあちゃんが神戸にいて。神戸はお菓子がすごくおいしいんだ。神戸に行くと色んなお菓子屋さんに行くんだけど、アリアスってお菓子屋さんのケーキがおいしくて。ちょっと周りが堅くてね、ついてる砂糖がジャリリってするんだけど、中の柔らかいところと合わさると溶けるんだ」
ヨダレが出そうな私たちは、ジャリリの砂糖と溶けた砂糖を食べたいがためだけに、祐介くんの意見に従うことにした。
調べものだなんて言って、私たちがしようとしたのは食べ歩きだったけれど、おとなしい祐介くんの楽しそうな様子に喜んだおばちゃんが感謝しきりで、私と浩子のお母さんもだめとは言えなくなった。千里中央から子供だけで行っていいのは江坂まで、大人と一緒なら梅田まで。うちにはそんな取り決めがあったのに、それから私たちは日曜ごとに三宮まで行った。
ある日、アリアスの前まで来た時のこと。裏口に入っていく外国人の女性を見かけた。女性は、私たち三人が大好きな卵菓子の箱をいくつか抱えていたけれど、出て来る時には何も持っていなかった。
「あの！」
女性はビックリして振り返った。
「あの、僕、卵のお菓子大好きで。僕らお菓子のことを調べているんです
卵のお菓子、おばさんが作ってるんですか？」
女性は「わからない」と言うように首を振った。祐介くんはそれでも諦めない。鞄から卵菓子の残りを出して口に放り込んだ。女性はビックリしながらもニッコリ笑って、何度か頷いた。
女性、アンナさんの家に行くまでどんな会話をしたのかあまり覚えていない。確か祐介くんだけが一生懸命お菓子の話しをしていたように思う。日本語がわからないアンナさんは、ニコニコ笑いながら、祐介くんの話しを聞いていて、時々私たちを見て笑みを浮かべながら首を傾げた。
アンナさんの部屋は、目を引く素敵な洋館の多い北野にあった。周りの家々とは違ってこじんまりした造りの集合住宅で、部屋の中もアンナさんに似ていた。彼女のつくる卵菓子に白を沢山入れたような壁紙には、黄色い小さな花と緑の葉が散りばめられている。
クリーム色のソファに沢山のクッション。
花瓶。外国語の本。
木製の飾り棚。中に入っているのは、どこの国のものと一言で答えられない様々な小物だった。
日本語が話せないアンナさんと私たちの会話は、お菓子作りだった。最初に教えてもらったのは、卵菓子ジェマ。卵に砂糖、レモンの皮、お酢！それにアーモンドの粉を入れて出来たお菓子を自分たちで作った時のうれしさを今も思い出す。だけど、私たちはジェマを家に持って帰らず、近所の公園のベンチに座って、三人で食べた。子供心にも親に言ったら怒られるとわかっていたのだ。その日から、私たちの神戸行きはアンナさんの家に行くことに変わった。
ハマンタッシェンは、ジャム入りのバタークッキー。少しの塩を入れるのがポイントで、中のジャムもアンナさんの手づくりだった。ジャムやピーナッツクリームの他にも、油と芥子の実を入れたこしあん入りのハマンタッシェンもあって、アンナさんは身振り手振りで「なんでも入れていい」と言っていた。悪者の（彼女は、頭に人差し指を立てて悪い顔をした）ハマンの帽子に似てるから、ハマンタッシェン。
大人になった祐介くんが「いろんなお菓子を勉強したい」と最初に入ったお店は、お坊さんの笠を模した和菓子を作っていて、「ハマンタッシェンみたいだよね」とお土産に持ってきてくれた。そう言えば、アンナさんの身振り手振りの中で、私たちのはやりになったしぐさがあった。「たーくさん」と言う時には、大きく手を広げて、「ちょっと」と言う時には、こぶしを合わせて体まで縮めていた。
お菓子はなんでも美味しかったけれど、お昼時に出してくれるスープは、あまり好きになれなかった。マッツォボールという名前の大きな丸い小麦粉のお団子が入っていて、それが食べても食べても減らないのだ。
何度彼女の家に行ったのだろう。ずいぶん時間が経って思い出す今では、五回も六回も行ったような気もするし、ほんの三回程度だったような気もする。でも、ある日突然終わった私たちの最後の時間のことだけは、鮮明に覚えている。
いつものようにアンナさんの家のチャイムを鳴らした。ニッコリ笑ってドアを開けた彼女の顔が恐ろしい形相になって、目を見開いた。家に入りかけた祐介くんを突き飛ばし、アンナさんは、激しくドアを閉める。何度かチャイムを鳴らしても、ドアが開けられることはなかった。「もういいよ」突き飛ばされた祐介くんが怒って言う。私たちはトボトボと三宮までの道を帰り、その後、もうアンナさんの家へは行かなかった。
あの日撮った写真がある。怒った祐介くんとキツネにつままれたような気持ちの私、悩んで考え込んでいる様子の浩子はずっと喋らなかったが、「やってられない！」という祐介くんの一言で、万博公園の遊園地に行くことになった。お金はあまりなかったから、乗り物に乗ることなど大して出来なかったけれど、楽しいフリをした私たちは、浩子が「お父さんが買ってくれた」と持ってきていたカメラに収まった。
大人になった今、あの写真を見ると、アンナさんの恐ろしい形相の意味がわかる。ジェマはポルトガルのお菓子、ハマンタッシェンはドイツや東欧のお菓子。ハマンタッシェンに入っていたこしあんは中国。色んな国の色んなお菓子。ユダヤ人の彼女がどこをどのようにして日本にやってきたのかはもうわからない。あの後、何年か経ってから一人で北野に行ってみたけれど、もう彼女の家は跡形もなかった。三人とも、何年か後に一人一人あの場所に行っていたのだと後から知った。
写真には、灰色と白の縦縞の服を来た祐介くんが写っている。アンナさんのつらい記憶を呼び覚ましたその服を「わかった時に捨てたよ」と、大人になった祐介くんは言っていた。