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努力ってなにかね?セロ弾きのゴーシュより

 セロ弾きのゴーシュを最初に読んだ時、この本は、セロを弾くのがあまり上手ではないゴーシュが、毎晩入れ替わりにやってくる動物たちに演奏を聞かせているうちに上手になり、本番の演奏会で成功する、という話だと思っていた。

 しかし私は、この本を読み、努力とは何かを深く考えるようになった。

 ゴーシュは、これまでも練習をさぼってきたわけではない。毎晩遅くまで一生懸命練習していた。ただそれは、独りよがりの練習だったのではないだろうか。長い時間を費やすだけの努力は、努力のうちに入らないのだ。

 人は時として、自分の頑張りを認めてもらいたいものである。
「頑張っているね」「よくやっているね」と言ってもらいたいものだ。
 結果が努力に比例しないこともよくあることだ。だからこそ、プロセスの部分もわかってもらいたいのだ。
 しかし、その思いが強くなりすぎると危険だ。
 努力してきたというプライドが壁を作り、自分よがりになり、人からの忠告やアドバイスも素直に聞けなくなってしまうのだ。

 ゴーシュは、猫が来た時には、心の心情、怒りの感情を。かっこうが来た時には、基礎の大切さを。小狸が来た時には、道具の癖を知り、野ねずみの親子が来た時には、音楽の持つ力の意味を知り、慈悲の心が芽生えたのではないだろうか。それがわかったのは演奏会の後になるが…。
 ゴーシュは、今までにない形の練習を不本意ながらも死に物狂いでやった。その結果、大きな拍手、鳴り止まない拍手を生んだ。
 楽長がゴーシュを指名し、アンコールをやらせたのは、その努力が本物だとわかったからではないだろうか。
 この時のゴーシュはまだ自分の努力の結果をわかっていなかった。
 楽長に馬鹿にされたのだと思い、半分自暴自棄のような気持ちでアンコールの演奏をしていた。
 ゴーシュはこの時、自分が「俺は人一倍努力してきたんだ。頑張ってきたんだ。」などという、頑張り自慢など微塵も思っていなかった。とにかく無我夢中で今までやってきたことを出し切ったのだ。

 最後、ゴーシュは、「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。俺は怒ったんじゃなかったんだ。」と、空を眺めながら言っている。
 これは、かっこうとのやりとりの中で、基礎を疎かにしていた自分に気づいたのだ。なのに、自分の非を認めることが出来なかったのだ。だから、恥ずかしくなり、それを誤魔化すために怒ったような態度をして追い出してしまったのだ。
 それをゴーシュは演奏会全てが終わった後にわかったから、かっこうが飛んでいった方向へ向かって言ったのだ。

 自分を誤魔化しているから本質に気づけない。
 気づけないから成長しない。
 成長しないから努力が努力ではなくなってしまう。
 独りよがりの努力の怖さがこの壁にあると思う。

 「頑張ったね」と褒めてもらうことは決して悪いことではない。
 ただ、そこをゴールにしてしまうことが問題である。

 頑張っているのに、結果がなかなか出ないことがある。周りに認めてもらえない時もある。

 そんな時は、一度立ち止まりたいと思う。

 もしかしたら自分が独りよがりの努力をしているのかもしれない。
 他人のアドバイスに耳を貸していないのかもしれない。
 プライドが邪魔をして、基礎を疎かにしているのかもしれない。

 一旦立ち止まり、自分を俯瞰してみるようにしたい。

 セロ弾きのゴーシュから、努力の本質と内観する大切さを教えてもらった気がする。

#読書の秋2021

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