親世代の優しさに触れる

今日は娘のベビーくもんの日だった。ベビーくもんは娘が、5ヶ月になる頃に始めた。職場復帰するタイミングで辞めるか迷ったのだが、続けることにした。

続けることを決めた理由は、くもんの先生の優しさに私自身が子育てを認めてもらえている感覚がもてて、自分の励みになっているからだ。

初めての子育てでは、常に「これでいいのかな❓」とどこか疑問が残る中で、日々が過ぎていく。特に私は、産後すぐ、義理の母の言葉にグサグサきてしまい、あの年代(自分の母親世代)のおばちゃんたちに苦手意識がついてしまった。

とはいえ、「あの年代のおばちゃんたち」と一括りにして苦手意識を持つことも、間違っているとはわかっているのだ。そして、決して「おばちゃんたち」に悪気はなく(だから厄介(笑))、私や子供たちのことを思って色々言ってくれているのもわかっている。でも、正直にいうと、「余計なお世話」と思ってしまう(笑)。

「家族のこと」というのは、本当にそれぞれの家族の、多種多様な考え方で成り立っているので、外野がどうこう言えることではないと、家族を持って初めて感じるようになった。

今でこそ、「余計なお世話発言」には、さらっとスルーできるようになってきつつはあるが、それでも自分のメンタルが万全でないときは、ぐさっときてしまうこともある。

最近では、慣らし保育中の娘の様子を聞いてきた私の母に、娘の様子を伝えると「もう、そんな長時間の預かりなの❓かわいそう。早く迎えに行ってあげなよ」と言われた。

なんの気ない言葉なのだが、母親の私が聞くと、否定された気持ちになってしまうのだ。

預けると決めて、今、慣らし保育をしているし、自分も葛藤しながら、でも決めたことだからと過ごしている中で、外野からそう言われたから、ぐさっときてしまったのだと思う。

まぁ、母は「かわいそうに」が口癖なのかと思うほど、よく「かわいそう」と、いう人なので「またか」と思ったが(笑)。(私は「かわいそう」という言葉が大嫌いだ(笑)。)

母の言葉を聞いて、「娘ってかわいそうなのかな❓」と、少し気にし始めている自分がいた。

そんなちょっとモヤモヤした感情を抱えながら、娘のお迎えに向かうため、家のドアを開けると、ちょうどマンションの隣の方が、お孫さんの保育園のお迎えに行くところだった。

その方は、私の母よりやや歳上で、毎日お孫さんのお迎えや、家事などをサポートしていらっしゃる、スーパーおばあちゃん。

会ったタイミングで「お迎えですか❓」と聞かれたので、「慣らし保育中で、大丈夫かなぁと心配になってきたので、少し早めにお迎えに行くんです。」と話したら、その、スーパーおばあちゃんがこう言った。

「きっと大丈夫ですよ。私も去年は、慣らし保育中のお散歩中に、道でばったり会ってしまった、泣かれて、心が痛くなったんですけど、今じゃ、そんなこともあったなあって思うくらい、本人は楽しんで保育園に通っていますよ。保育時間が長くなっても、保育園から連絡がないということは、無事に娘ちゃん、過ごせているということだと思います。お母さん、心配ですよね。でもきっと大丈夫ですからね。」と言ってくださった。

この言葉を聞いて涙が出そうになった。なんだか、自分がしている選択を、「間違ってないから大丈夫だよ」と背中を押してくれている気がして、嬉しかった。

そして、今日のくもんでも同じように、いわゆる「あの世代のおばちゃん」先生が、同じように、暖かい言葉をくださった。」

「娘さんもお母さんも、必ず新しい生活に慣れるから大丈夫ですよ。お家では、とにかく甘えさせてあげてくださいね。おっぱい欲しがったらとにかくあげちゃって大丈夫。大きくなってもおっぱい飲んでいる人なんていないですからね。(このとき、なかなか卒乳できないことにも焦っていた)お家で、たっぷり甘えさせてもらえる経験があるから、外の世界でも頑張れるし、それがだんだん楽しくなっていきますからね。お母さんも無理しないでくださいね。」と。

私が思っていた「「あの世代のおばちゃん」革命」が連日にして身近で起きた(笑)。

私も年を重ねても、自分の価値観を押し付けるのではなく、相手の背中を押して、安心させる言葉かけを常に心がけたいし、娘に対しても、常にそういう言葉かけをしたいなと思う。

最後に、書きたしたいことを思い出したが、

今日、昼過ぎにいつも行くカフェに行ったのだが、いつもは店主が一人で切り盛りしているのだが、今日は、娘さんと一緒に、二人で店に立っていた。

二人で仲良く会話をしながら仕事をしていて、その姿がとても素敵だった。私もこんな風に娘との関係を築いていけたらなあと思った。

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