お似合いのふたり
「ね、いま、電話できる?」
わたしからの連絡は、たいていが突然だった。
「ごめん、今日はダメなんだ」
数分後、既読がついて返信がくる。
そうだよね、急だもん、申し訳なかったな。独りごちて、淡い期待をそっと胸にしまう。彼には、「そっか、ごめんね」とだけ打って、携帯を手放した。忙しい中返してくれただけでもありがたいのに、これ以上のわがままは言えない。
けれどもそれからしばらくして、携帯が震えた。
「ううん、ほんとは俺も話したいんだけど。ごめんね」
たぶん、紙だったら走り書きだろうな。切れぎれに送られてきた文面を見て、そんなことを考える。気を遣わせてしまったな、と思いつつも少し嬉しい。
わたしからの急なお願いを断るとき、最後にそうつけ足してくれるのは彼の常だった。
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長く付き合っているふたりは、どうやら似てくるらしい。
そんな考え方は、いつのまにか自分の中で静かに馴染んでいた。
わたしは昔から、頑固なわりには他人から影響を受けやすい人間だった。子どもの頃なんて、周りのひとの言うことが、寸分たがわず世の中でも絶対的で普遍的だと思い込んでいたくらいだ。
だからいまの自分の基盤には、そういうひとたちの言葉だったり、思想だったりがかなり根づいている。口ぐせも、ものごとの捉え方も、生活の営みかたも、あるいは、どんな絵文字を使うかまでも。わたしは、自分の近くにいるひとにすぐに似通ってしまうのだ。
そういうところが芯がなくていやだなあ、と思うこともある。自分は他人をつぎはぎしているだけの、はりぼての存在なのだろうか。その人たちから盗んだところを全部引っぺがされたら、わたしには、何も残らないんじゃないか。と。
けれども、最近では、そんな自分もいくぶんか気に入るようになった。
確かに最初ははりぼてかもしれないけれど、少しずつ、その継ぎあとが見えなくなって、わたしに合うように形を変えて、ゆっくりと自分の一部分になっていくような、そんな感じがするのだ。
革ぐつを履くほどに自分のものだと思えて愛着がわく、あの感じ。
いつのまにか身についた言い回しや所作や思想にふと気づくその瞬間が、存外、好きなのかもしれない。
だから、わたしにとって誰の近くにいるか、ということは、自分がどう変化していくか、ということに近い。長く一緒にいると似てくる、というのも大いに頷けるし、だからこそ、それが誰であるかということには、慎重になりたい、とも思う。
*****
彼とは出会ってから、1年以上が過ぎた。
交際期間としてはそんなに長いわけではなかったけれど、一緒にすごしているうちにわたしは自分のいやなところを、こういう自分もいるよね、と受け入れられるようになったし、自分の可能性をもっと信じていいと思えるようにもなった。愛されることより愛することの方が難しいけれど幸せだと知ったし、愛を求めるひとではなく与えるひとになろうと決めた。早々に電話を切り上げなければいけないときには、本当はもっと話したい、と伝えるようにもなった。挙げようと思えば、まだまだ、いくらだってある。
誰かのおかげで変わっていくことが、こんなにも豊かだなんて知らなかった。
それもこれも、隣にあのひとがいて、あのひとを見て、あのひとが言葉をかけてくれたからだ、と思う。
前と少し変わった自分を見つけると、わたしはいつも嬉しかった。
彼とはもう、恋人になることはきっとないのだろう。もしかしたら、会うことすらないかもしれない。けれどこの別れは、喪失であるとか、憎しみであるとか、そういったものとは少し違うような気がする。
イヤホンをつけてシャッフルモードで音楽を聴くと、たまに彼が好んで聞いていた曲が流れてくる。
あのひとから教えてもらわなければいまも知らなかったであろうそのメロディは、今日も変わらず、優しくて力強い。