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副汐健宇の戯曲易珍道中⑩~野沢尚『眠れる森』〜

絶賛、停滞街道まっしぐらなこのシリーズ💦
貴重な指を運んで頂き、誠にありがとうございます!

こちらは、マネタイズや集客云々を飛び越えて、100%私の身勝手なる趣味で始めております。付いて来られる方だけ付いて来て下さい(艮☶=山=上から目線💦)

・・・と、いきなりの本題に入りますが

”山水蒙”と”雷火豊”の違い、というものに、今回の戯曲の題材を選ぶに当たり、改めて想いを馳せました。

       ”山水蒙”(さんすいもう)

           ☶
           ☵

”象に曰く、蒙は、山下に険あり。険にして止まるは蒙なり。”

山(☶)の下に水(☵)がある卦。水があれば霧が吹き出て、靄が生まれ、山の姿が霞んで行く。

何事も漠然としていて、明らかにする事が出来ない。
また、山水蒙には、「初筮に告ぐとは、剛中を以てなり。再三すれば涜(けが)る。」という文も添えられています。
同じ事を何回も自身の納得行くまで占えば、易占の神聖さが汚されるので、するべきでは無い。もしも同じ問いを何度も易占に求めたなら、”明らかに出来ない”山水蒙しか出ず、真剣に問いに答えてくれなくなるだろう、というものです。

一方で、
        ”雷火豊”(らいかほう)

           ☳
           ☲

”象に曰く、豊は大なり。明にして以て動く、故に豊かなり。”

”豊”は、盛大の意。

明(☲)をもって動く(☳)。耕作による実り・・・。

・・・と、一見、山水蒙と比べる要素が無く、雷火豊の方が圧倒的に良いイメージを持たれると思いますが、

雷火豊の二爻の爻辞を読みますと・・・・・・

”六二は、その蔀(しとみ)を豊(おお)いにす。日中に斗を見る。”

・・・”日中見斗”・・・

日除けの蔀が大き過ぎて屋内に日光が入らない。
日中でありながら、北斗七星が見える程の暗い状態である。

・・・とあるように、光が満ちる一方の陰には暗部が宿っている事を示した興味深い卦であります。

・・・山水蒙の靄にかかった姿と、雷火豊の抱える闇・・・・

そういった周易的視点を持った上で、今回、取り上げさせて頂く戯曲は・・・・・・

『野沢尚シナリオ集Ⅱ 眠れる森』野沢 尚
               (幻冬舎文庫)

です。

ちょうど、今から24年前の1998年10月期~12月期、
フジテレビの木曜22時に放映されたドラマ
『眠れる森』です。

(以後、ネタバレ要注意!!!)

主人公の大庭実那子を演じていらっしゃるのは、中山美穂氏、
そして、そんな彼女を見守る照明関係の仕事をしている青年・伊藤直季を演じていらっしゃるのは、木村拓哉氏。
そして、同じく優しく実那子を見守りながら、実はその正体は・・・の婚約者・濱崎輝一郎を演じていらっしゃるのは、仲村トオル氏。
直季の親友・中嶋敬太を演じていらしゃるのは、ユースケ・サンタマリア氏。
謎の前科者・国府吉春を演じていらっしゃるのは、陣内孝則氏。
直季の恋人・佐久間由理を演じていらっしゃるのは、本上まなみ氏。
直季の父親・伊藤直巳を演じていらっしゃるのは、夏八木勲氏。
・・・で、あります。

最終回(1998年12月24日のクリスマスイブに放送)の瞬間最高視聴率30%を超えたと言われる、今も語り継がれるべき、傑作ミステリードラマです。

脚本を書いた野沢尚氏は、他にも、『この愛に生きて』(フジテレビ 主演:安田成美)や『青い鳥』(TBS 主演:豊川悦司)、『氷の世界』(フジテレビ 主演:竹野内豊)等、多くの傑作ドラマの脚本を手掛けられ、本作で向田邦子賞受賞という栄誉も授かりました。
また、脚本だけで無く、『深紅』『魔笛』『破線のマリス』『烈火の月』等の小説も多く書き、『深紅』では第22回吉川英治文学賞も受賞されています。
『魔笛』は、現在の宗教観を巡る問題も投げ込まれていて、再読したい程の印象に今も個人的に残っています。

『深紅』は、本作に近い設定で、生き残った被害者家族がどう矜持を持って生きて行くか、という問題に根差した、微細な心理描写に満ちていて、小説ならではの臨場感や恐怖を存分に味わえた、私にとって一夜に読み終える事が出来た数少ない小説の一つです。

『眠れる森』の大まかなストーリーは・・・
主人公の大庭実那子は、濱崎輝一郎との結婚を控え幸せの絶頂にいますが、幼少期の記憶の一部を失くしてしまっています。ある時、「十五年後に、僕たちの森で会いましょう」と書かれた手紙を見つけ、過去を見据える為にその森へ行くと、伊藤直季という青年が待っていました。直季は、「あんたは俺の一部だから」と、実那子に今後様々な試練が降りかかる事を漠然と予言します。・・・そして、実那子は、自身が一家惨殺事件の生存者だった事を思い出し・・・

というものです。

『殺し屋シュウ』そして、サッカーをテーマにした『龍時シリーズ』等、ポップな設定や文体の作品もありますが、全般的に、野沢氏の、内面の深みを抉るような文体にはまっていて、野沢氏の作品に対して”硬質かつ重厚”な印象を抱いていた私は、本作の脚本を一読した時、直季のセリフが、かなり”キムタク寄り”に書かれている事を思い、かなりの”当て書き”をして”キムタク”のイメージを崩さないよう四苦八苦していた氏に思いを馳せ、勝手に微笑ましく感じてしまった記憶があります。
野沢氏の青春小説『反乱のボヤージュ』で、かなりチャラい感じの大学生が出て来るのですが、野沢氏の作品のキャラクターは、一見軽い感じの方でも、どこか品性が伴っていて、知的な印象を漂わせる所があり、そこが強烈な個性となって私に訴えて来るのですが、今作でも、それはユースケ氏演じる中嶋敬太にも感じました。
また、今作は、当初、”キムタク、初めての悪役に挑戦!!”という触れ込みで紹介されていて、当時、”ロンバケ現象”で日本ドラマ界の頂点にいた木村氏が、どんな悪役を見せて、否、魅せてくれるのだろうという期待感が生まれていましたが、話が進むにつれて、木村氏、否、伊藤直季が”実はいい人”という事に”漠然と”気づき始め、急激に冷めてしまった苦い記憶があります。シナリオをしっかり読み込めば、本作の主題はそんな浅い所には何一つ無い、という事を突き付けられ、襟元を正すしかありませんです💦。


■第一幕 十五年目のラブレター

※18〜19ページより引用

居酒屋(夜)

  安くてうまい料理で、腹ごしらえの実那子と輝一郎。
―省略―
輝一郎「(本の受け売りのように)人間の脳っていうのは森羅万象の中で最
 も複雑な構造物で、たとえると、天の川の全部の星をかき集めて、銀河を
 ソフトボールくらいに圧縮したものが(実那子の頭を両手で持つ感じで)
 これなんだってさ」
実那子「へえ」
輝一郎「脳はどんなコンピューターよりもソフトにできていて、そこに収ま
 る記憶は図書館の本棚に並んでいるように、おとなしくじっとしてるわけ
 じゃない。絶えず作り直されてる」
実那子「生きれば生きるほど過去は増えてくわけだから、整理したり削除し
 とかないと、頭の中が過去だらけになって窒息しちゃうよね」
輝一郎「古い記憶は上書きされたり省略されたりしている。つまり昔の出来
 事を思い返すたびに、元の出来事とは似ても似つかないものになってるん
 だ」
実那子「あるかもね、そういうことって」
輝一郎「ある学者が、試しに現在というものがどのくらいの長さなのか計算
 したんだってさ。それによると、現在とは平均して八秒程度の長さで、八
 秒が過ぎれば次から次へと過去の記憶になって人間の魂の間を流れていく
 ・・・・・・だからそんなものは放っていけばいいんだ。実那子は今を生
 きればいいんだよ」
実那子「八秒の今?」
輝一郎「そう、たった八秒の現在を精一杯にさ(ビールを飲み干して)、生
 、おかわり!」

⇧・・・今回は、一つ一つのシーンに無理に六十四卦を当てはまる暴挙は控えめにしたいと思います。ドラマ評論の方に舵を切って行きたいと思います。その中でも、上記の輝一郎のセリフは、周易、占いを嗜む私にとって、刻印のように胸に刻んでも良いように思いました。”八秒”・・・現在、過去の状況から”未来の状況”を占術を使って紡ぎ出す時に、この、過去から現在にかかる”八秒の橋”をどう渡るか、という事は、特に卜術(周易、タロット等、偶然出た象徴から答えを導く占術)に取り組む際、しっかり意識に止めて行きたい、”時間”というものを、しがない占い師の一人として、見つめ直すキッカケになりました。

・・・多少の脱線にはなりますが💦
”八秒”・・・八・・・八卦!!!
人は、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤・・・・・・結局は『易経』の輪廻を生きている。どれ程足掻いても、『易経』から逃れられない!!!
と断じたら、一笑に付されるでしょうか?

47~49ページより引用

※森の中

直季「新しい自分」
実那子「(立ち止まり、振り返る)・・・・・・」
直季「名前も仕事も、友人も恋人も、全部捨てて新しい自分になりたいっ
 て、思ったことないか?」
実那子「・・・・・・(何が言いたいのかと、凝視)」
直季「あんたは今ここで生まれるんだ。来年は一歳、再来年は二歳
 ・・・・・・体は大人でも、目の前の人生には新しく覚えなきゃいけない
 ことばかりで、毎日が冒険の連続だ。そういうのを夢見たことない?」
実那子「(勝気な顔で)ない」
直季「過去なんて関係ない、現在と未来だけあればいいっていうのは、そう
 いうのを言うんだよ。人生のやり直しっていうのは、今までの全てを捨て
 るってことだ。誰も自分のことを知らない場所で、別の大庭実那子に生ま
 れ変わればいいんだ。そういうのを夢見たことあるだろ?」
実那子「ないわよ」
直季「・・・・・・(見透かしたように、ふふっと笑う)」
実那子「あるわけないでしょ!」
―省略―
直季「未来だけでいいんだよ、実那子には」
実那子「・・・・・・(徹底的に拒絶したい半面、何やら磁石のように引き
 つけられるものを感じる)」
直季「今、実那子は生まれたんだ」

⇧ 上記の、実那子と直季がはじめて出会ったシーンにも、敢えて六十四卦を当てはめる事は控えます。ただし、やはりこちらでも、”時間”というものを、占い師としてどう伝えるか、という事を考える上で重要な手立てになるシーンだと思います。「今ここで生まれ、来年は一歳、再来年は二歳・・・」という直季のセリフがありますが、皆、頭ではそうありたい、生まれ変わりたい、とは思っていても、どうしても過去を探り当てようとしてしまいます、どうしても過去を掘り起こして、そこから怒りや悲しみを取り出してしまうのが人間です。過去を完全に無かった事にして生きられれば苦労しないよという事なのですが・・・過去を掘り返してしまう事の意味を、今一度、占い、というものを取っ払っても、見つめ直してみても良いかも知れません。

■第四幕 暴行

※154〜155ページより引用

―省略―

直季「過去は現在の第一稿なんだって」
実那子「第一稿?」
直季「ほら、作家が書く最初の原稿のこと。つまり過去っていう第一稿があ
 るから、現在という完成作品ができるってこと・・・・・・だけどさ、過
 去の記憶ほど頼りないものはないんだよ。過去が現在をもたらすんじゃな
 くて、実は過去のほうが現在によって刻々と変わっている・・・・・・言
 ってること、分かる?」
実那子「(本の受け売りで)記憶を取り戻す能力は時間がたつにつれて衰え
 る。一カ月もたてば経験したことの八五パーセントは、日記とか写真とか
 いった助けがないと脳の闇の中に消えてしまう。記憶の損失率ほど激しい
 ものはない」
直季「勉強してんじゃん・・・・・・だから過去の記憶によって自己アイデ
 ンティティが存在するなんて話は嘘っぱちなんだよ」

⇧ 上記のディスカッションも同様です。”過去は現在の第一稿”。過去が現在をもたらすのではなく、現在の捉え方次第で過去も変わる。なので、過去は絶対では無い。前を向いて生きろというメッセージなのでしょうが、やはり、それでも確かな過去を求めてしまう、人間の弱さが炙りだされる事への葛藤として語り継がれるべきディスカッションでしょう。占い師の一人として身につまされるような議題です。

※166〜167ページより引用

新居マンション

―省略―
  実那子は自嘲のような、寂しげな笑みを浮かべる。
実那子「今と未来だけで生きていけるなら、どんなにいいかって思った」
輝一郎「・・・・・・」
実那子「だけどね、やっぱり人間は過去がないと生きていけないんじゃない 
 かな。それがどんなに残酷なものであっても」
輝一郎「・・・・・・」
実那子「たとえば、失敗した過去があるとしたら、人間は二度と同じ過ちを
 繰り返さないように注意する。そうやって成長する。もし成功した過去が
 あるなら、人間はもう一度同じ成功を夢見る。そこで挫折することも、そ
 の人間を大きくするわけでしょ」
輝一郎「・・・・・・そうだな」
実那子「どんな過去でも、それは人が生きてくための道しるべになるの。私
 にはそれがないの。どんな両親だったのか、どんな家庭の幸せがあったの
 か、私は頑張って知らなきゃいけないんだと思う。だって、これから輝一
 郎と夫婦になるんだもん、家族ができるんだもん」

⇧ やはり、時間軸、過去の捉え方、未来の見据え方、を、一人の人間としても、占術家としても、このドラマ程教えられるドラマは無いのではないでしょうか。眠ってる場合じゃありません(?)
上記のシーンの実那子のセリフに共感を覚える方が殆どでは無いでしょうか。私もその一人です。占い師としても、未来だけを鑑定するのでは無く、その方がどういう過去を生きて来たか、そこからどう過ちを犯さずに、どういう道、スタンスを選べば良いか、という事を、”当てもの”というエンターテイメントをベースにしながら真剣に紡ぎ出す、そこに占いの難しさ、そそて、”漠然とした”充実感があるのでは無いでしょうか。

※169〜171ページより引用

直季のアパートの部屋
  直季は部屋に上がると、突っ切り、窓辺に立つ。
  土間に突っ立っている実那子に、「もっと近くに来いよ」と態度で示し
  ている。
実那子「・・・・・・(恐れつつ、部屋に上がる)」
直季「眠いんだ、話ならさっさとすましてくれよ」
実那子「また近づいてきた」
直季「・・・・・・?」
実那子「恐ろしいものが近づいてきて、少しづつ正体が分かってくる」
直季「・・・・・・フラッシュバックか?(内心、危機感)」

―省略―
実那子「私の記憶がどこで狂わされたのか、あなたは知ってるはず。殺人事
 件の記憶が、どこでどんなふうに交通事故の記憶にすり替わったの!」

―省略―
直季「(追い詰められ)今、実那子は生まれた・・・・・・それでいいだ
 ろ」
実那子「そんな話、もう聞きたくない!」
直季「来年は一歳、再来年は二歳・・・・・・覚えなきゃいけないことが沢
 山あって、毎日が冒険の連続で(と、かつて言ったことを繰り返すばか
 り)」

⇧ この直季でも分かるように、顔を背けたくなるような過去を抱えた人にかける言葉として、来年は一歳、再来年は二歳・・・という呪文のような言葉しか見当たらないという現実。そして、それでも過去を知りたい人にとっては、呪文は呪文でしかないという現実があるという事です。占い師として、空しい呪文を唱えていないか、今一度反省させられる思いがしました。

■第五幕 隠れ家

※188〜189ページより引用

コテージの中

―省略―

直巳「記憶というのはもともとあやふやで、変化を好む生き物です。昔、私
 と同じような実験をした学者が論文にまとめています。埋め込んだ記憶は
 、十五年というのが耐久性の限界なんです。いつか偽物は力をなくし、心
 の隠れ家から本物が殻を破って現れる」
           ⇧
このセリフは、記憶や想い出の儚さを謳うと同時に、『易経』そのものの資質も言い当ててはいないでしょうか? まさに”変化”を好み、一見、四難卦と呼ばれるような卦が出ても、フレキシブルに前向きな活用をして行ける・・・・・・易と人生そのものの親和性をまざまざと思わされたセリフでした。

■第九幕 マリアは見ていた

※358〜360ページより引用

コテージの中
  直巳はパチンとロケットの蓋を閉じ、床に置いた。
  斧を再び手にし、研ぎ始める。
  その音が殺気めいて、家の中に響く。
直季「俺、やっと分かったんだ。どうして実那子だけがあの家で生き残った
 のか」
直巳「・・・・・・(研ぐ)」

―省略―

直季「何故だ? 実の娘だからだろ?」
直巳「・・・・・・(研ぐ)」
直季「どうして親父は、実那子の記憶を消そうとしていたのかも、これで分
 かった」
直巳「・・・・・・(研ぐ)」
直季「実那子が見たものを全部消したかった・・・・・・そういうことだ
 ろ?」
直巳「・・・・・・(研ぐ)」

―省略―

直季「黙ってないで、何とか言えよ」
  声が次第に震えてくる。目も潤み始める。
直季「違うなら違うって、言ってくれよ」
直巳「・・・・・・(研ぐ)」
直季「違うって言えよ、親父!」
  悲痛な叫びと共に、涙が噴き出した。

―省略―

  黙ったままの父親に、もう沢山だ、もう分かった・・・・・・と言いた
  げな直季の涙。
  感情が破裂する。
直季「あの一家を殺したのは・・・・・・親父なんだろ!」
  直巳は斧を研ぐのをやめ、ゆらりと振り返った。
  暖炉の炎が深い陰影を刻み、魔物のような表情だった。

⇧   上記、最後の2行のト書きは、個人的に野沢尚節に溢れていて、とても好きです。シナリオのト書きは通常、”○○、歩いている。””○○泣く”等、ある程度、ラフにドライに書かれているものが多いのです。映像にする事に差支え無い程度の文章であれば許される筈なのですが、野沢氏は、ト書きの細部まで拘り、ト書きに心理描写を緻密に盛り込む事で、一種の文学作品としても存分に渡り合えるような奥行きを配しています。しかも、映像に移せる範囲内での表現にきちんとなっているので、撮影スタッフの方々は、野沢氏のト書きをどう映像に残すか、充実感を常に覚えながら、詩的なセンスを常に試されながら意気に表現されていたに違いありません。

上記の本文の最後の行、”暖炉の炎が深い陰影を刻み、魔物のような表情”というのが、まさにそれです。
私も、勝手に意気に感じながら、この文章を六十四卦に翻訳したいと思います。

     山火賁(さんかひ)の九三
           ☶
           ☲

賁は、文飾、飾る、を意味しています。火が山下(さんか)にあり、山が美しい映えを見せている・・・

”賁は、亨る。小(すこ)しく往くところあるに利ろし。”

何故、九三(三爻)にしたかといいますと・・・

”九三は、賁如たり、濡如たり。永貞なれば吉なり。”

九三は、坎(☵)、水の主爻を得ています。
水→黒、闇

映えた炎の光に彩られながら、闇を隠しているような直巳の状況をまさに言い当てています。
そして、九三は、二つの陰爻に挟まれている。
”深い陰影”という表現が、陰陽の間を窪みを思わせます。

しかし、思い切りネタバレになりますが、実際、直巳は一家を殺してはいない無実でした。しかし、直巳の抱える侘しさや、苦悩が、まさに山火賁の九三を通して表情に浮き彫りになった瞬間と思えてならないのです。

■第十幕 サンタクロース

※368〜369ページより引用

安宿の部屋

―省略―

※敬太は由理に以前から片想いをしていて、彼女の恋人である親友の直季に屈折した嫉妬を密かに覚えている。

  中華弁当を広げて腹ごしらえの二人。
敬太「お前さ・・・・・・(何気なさを装うが、感情が滲み出てしまう)由
 理とはその後、どうなってんの」
直季「どうって・・・・・・(説明が難しく)」
敬太「まだ踏みきれないのか」
直季「・・・・・・」
敬太「なら、俺、さらっちゃおうかな!」
直季「四年、それ言い続けてない?」
敬太「借金取りに追いかけられて、生傷だらけのクソみたいな人生だけど
 さ・・・・・・光り輝いている由理が、俺の救いなんだ」
直季「・・・・・・」
敬太「でも、よく考えると、由理が輝いてるのは、お前が光を当ててやって
 るからなんだよな。お前がいろんな角度から、由理に最高の照明を当てて
 るんだよ。そういう由理に、俺、惚れてるんだと思うと・・・・・・何だ
 か、悔しいワ」

⇧ この敬太のセリフをしゃべっているユースケ・サンタマリア氏のお姿が自然と目に浮かび、元々、硬質で重厚な文章が真骨頂である野沢氏の”当て書き”の才気に個人的に感嘆するしかありません。
上記の最後のセリフ、”由理が輝いているのは、お前が光を当ててやってる”というセリフから、
 
            雷火豊(らいかほう)
              ☳
              ☲

の、”日中に斗を見る”のフレーズが、自然と呼び起こされます。
一見、キラキラ最高の輝きを放っている人も、否、そうであるからこそ、自然と周囲に闇を投げかけているという残酷でぞんざいな真理が窺えてしまいます。その北斗七星は、敬太にはどんな姿に映っていたのでしょうか?    

■第十一幕 殺人者

ビル屋上

※414ページより引用

※とある事情で、片想いの由理を殺してしまった敬太を静かに追い詰めている直季。

―省略―

敬太「何だか俺たちって、ずっと騙し合いだったな(と寂しく笑った)」
直季「・・・・・・」
敬太「こええよ、何だか、由理に会うのが・・・・・・許してくれないよな
 あ、俺のこと(と、際へと少しずつ)」
直季「やめろ」
敬太「生きるのなんて、もう沢山よ俺」
直季「(必死に)なあ、聞いてくれ、俺の話・・・・・・どんな過去や、ど
 んな過ちがあったって、駄目なんだ人間は、とにかく生きなきゃ」
敬太「俺にどんな人生のやり直しができるって言うんだ?」
直季「違う、やり直しじゃない、やり直しなんかできないんだ人間は」
敬太「・・・・・・(滂沱の涙)」
直季「死ねば償いになるのか。自分が楽になることが償いなのか」
敬太「もう苦しくてさ、俺・・・・・・」
直季「聞けよ」
敬太「辛くてさあ・・・・・・」
直季「聞けよ! 辛いから生きろって言ってんだよ。なあ敬太、自分がどう
 して生きているのか知りたいと思ったこと、ないか?・・・・・・あるだ
 ろ?」
敬太「どっかで間違えたんだよ、間違えて生まれてきたんだよ」
直季「なわけないだろう! たった二十五年じゃ分からないんだよ。そうい
 うことって、もっと生きてみなきゃ分からないんだよ。他の道なんかない
 んだ、この道を歩くしかないんだ。分かるか、言ってること」
敬太「・・・・・・(風にあおられている)」
直季「(手を差し伸べる)道はこっちだろ、戻ってこいよ」

⇧ 上記のやり取りに、敢えて六十四卦を当てはめる事は控えます。決して怠慢によるものではありません。無理に当てはめれば、敬太が風にあおられて方向性を見失っている状況から、巽為風(そんいふう=☴☴)を想起出来るかも知れません。しかし、今回ばかりはそこに意味を見い出せず、木村拓・・・否、直季の真に迫った説得に黙って耳を傾ける、”変化”という易経も胸に秘めながら・・・・・・といった所でしょうか。

■第十二幕 聖夜の結婚式

※463〜464ページより引用

※(ネタバレ注意!!!)聖夜の結婚式の日、一家殺人犯の正体が旦那である輝一郎である事が、フラッシュバックにより明らかになった実那子。目の前には、輝一郎が・・・・・・。

船のデッキ広場
  客たちの笑顔に取り巻かれているが、実那子は氷のような表情で輝一郎
  を見つめる。
実那子「・・・・・・(心の闇まで見通す眼差しで)」
輝一郎「・・・・・・(実那子に何が起こったか悟った)」
直季「(実那子の異変を悟って)」
輝一郎「・・・・・・いいんだ、それで」
実那子「・・・・・・(だんだん憎悪の気持ちで)」
輝一郎「さあ実那子、憎んでくれ、俺を」
  実那子の手にあるシャンパングラス、強く握りしめたせいで砕け散る
  ―――!
  輝一郎の頬に血が一滴、ふりかかった。
  客たちの笑顔が引き、ウエィターが「大丈夫ですか!」と駆け寄る。
  輝一郎の頬についた涙は、赤い涙のよう。
  実那子は自分の血まみれの手を見つめる。家族の血で染まった時がまざ
  まざと甦り、声にならない叫びをあげる。

⇧  なかなかヘヴィなシーンではあるのですが、逃げずに六十四卦を根気よく当てはめようと思います。私は、やはり、”血”というものを極度にクローズアップせずにはいられません。血=赤=火行・・・・・・

         離為火(りいか)の九四
             ☲
             ☲

”離は、貞しきに利ろし。亨る。牝牛を蓄(やしな)えば吉なり。”

・・・そして、九四の爻辞は、

”九四は、突如それ来如たり。焚如たり。死如たり。棄如たり。”

まさに、”突如やって来る”・・・突如、忌まわしい過去が明らか(☲)になった実那子の状況をそのまま言い当てていると断じても過言では無いでしょう。

また、九四は、坎(☵)の主爻のような位置にもいます。過去(初爻)から突如、突き上って来た、苦悩(☵)・・・・・・


―省略―

  国府は輝一郎に覆い被さり、かつての親友同士は二人だけの世界に
  ―――
  周りの音はまったく耳に入らない。それぞれの声しか聞こえない。
国府「心配するな。急所は外した。死にやしないよ」
輝一郎「・・・・・・どうして。殺せよ」
国府「俺はまた刑務所に入る。仮出所になって、またお前を刺しに来る。ど
 こに隠れていたって見つけてやる。次も急所は外してやる。俺は捕まって
 ・・・・・・また何年かしたらお前の前に現れて、一生、その繰り返しだ
 。俺が現れるたびに、お前の体にこういう傷が増えていくんだ。分かるか
 濱崎、これがお前が一生かけて味わう地獄だ」
輝一郎「・・・・・・(苦痛に呻く)」
国府「お前にふさわしい地獄だろ?」 

⇧   ・・・輝一郎が作り出した凄惨で残酷で、決して許される事の無い過去が、ガラガラと音を立てて、剥がれ落ちた・・・まさに、輝一郎は、山地剥(さんちはく=☶☷)を望んでいたに違い無いでしょう。そして、実那子の罰を受け、ひっそりと眠る、そう、輝一郎が求めていたのは、坤為地(こんいち=☷☷)だったのに違いありません。しかも、全編を読んで頂ければ分かりますが、輝一郎は、母親の愛、母性に対する歪みのような感性を抱えていた。まさに、母親=坤(☷)、母の中で彼は罰を小脇に抱えて眠りたかったのかも知れません。
・・・しかし、輝一郎に罪をなすりつけられた挙句、逃亡していた同級生・国府の登場という突如のサプライズ、そう、坤為地は彼には決して訪れず、

          地雷復(ちらいふく)の初九
              ☷
              ☳

・・・そう、また始めから物語を繰り返す。輝一郎の血と引き換えに、眠る事は、彼には許されない・・・

復・・・一陽来復。

”象に曰く、復は亨るとは、剛反(かえ)るなり。”
”象に曰く、遠からずの復とは、以て身を修むるなり。”   

※ 470〜473ページより引用

※実那子は過去と向き合いながら、直季と共に生きる決意をする。直季は提案する、初めて出会ったあの森で、始めから一緒にやり直そう、と・・・・・・。

列車の中
  列車は次の駅に止まる。
  一人の少女が乗り込んできて、直季の向かいの席に座った。
  リュックを背負った少女を見た時、直季は目が点になった。
  十二歳の実那子にそっくりだったから。
直季「・・・・・・(微笑みかけた)」
少女「・・・・・・(微笑み返した)」
直季「一人旅?」
少女「はい」
直季「どこまで?」
少女「中之森です」
直季「じゃ、同じだ」
少女「お母さんが、あっちで待ってるんです」
直季「俺もいるよ、待ってる人」

―省略―

中之森の森
  ハンモックで、直季の手紙を胸に眠っている実那子。
  冬の光を浴びた寝顔が輝いている。
  実那子、目覚める時を楽しみにしているような寝顔。
直季の手紙『俺たちに与えられた運命を、これからちゃんと生きてみないか
 。一人ずつ別々に生きるんじゃない、二人で一緒に、ずっとこれから・・
 ・・・・』

列車が中之森駅に到着した
  直季はいつしか座席で眠ってしまった。
  少女が「ねえ、お兄さんも下りるんでしょ?」と揺り動かすが、直季は
  起きない。ホームに見送りに来ていた母親が「ほら、早く下りないと」
  と急かす。
少女「・・・・・・(直季を、気にしつつ、下りる)」
  母親が「元気だった?」と再会を喜んでいるが、少女は眠り続ける直季
  が気になってしょうがない。
  列車が動き出した。
直季の手紙『だから必ず、あの森に行くから・・・・・・』
  スイッチが切れたかのように、がっくりと頭を垂れたままの直季。
直季の手紙『目覚めた時に、俺がいるから・・・・・・』
  その時、涙が頬を伝った。

実那子も眠っている
  直季の夢に微笑んでいる。
  実那子の眠りは、もうすぐ覚める。
  ハンモックに横たわる実那子を、冬の森が守っている。
実那子N『もう決して、あなたを離さない』

⇧  輝一郎が手にしたものが、血にまみれた”地雷復”だとしたら、直季、そして実那子が手にしたのは、別の始まりだったように思います。
・・・それにしましても、このエンディングですと、どうしても、同じ列車内で不可解なエンディングを迎えたTBSドラマ『高校教師』(1993 脚本:野島伸司 主演:真田広之)を想い出さずにはいられません。
あちらは、”永遠の昼寝をする二人”と、敢えて成り行きを断定せず、視聴者の想いに委ねる、という手法を取りました。その結果、30年近くを経た今でもある種の文学性、神秘性を秘めたドラマとして懐かしく君臨している訳ですが、こちらの野沢氏が紡ぐ『眠れる森』は、直季が亡くなった事を明確にして、ハッキリと実那子と直季の今後辿る残酷な運命を明示しています。”列車内”というキーワードだけで2作品を比べるのはいささか乱暴に過ぎますが、曖昧な文学性を強調した『高校教師』に対し、曖昧さを許さず、明確なラストを打ち出した『眠れる森』から、野沢氏の、敢えて視聴者に委ねない、それなりの、自身が執筆から導き出した答えを明示する、矜持のような想いが伝わって来ました。
(一方の野島氏も、『高校教師』のラストは、視聴者に解釈を委ねたいと仰っていたものの、「ひとつ確かなのは二人にとってハッピーエンドだった」という言葉も残してはいらっしゃいますが・・・・・・)

・・・と、相変わらずの前置きの長さですが💦
 こちらのラストシーンを、六十四卦に当てはめますと、

        火水未済(かすいみさい)の九二
            ☲
            ☵

地雷復が、陰と陽の始まり終わりを明示した卦だとしましたら、こちらの六十四卦の六十四番目である火水未済は、『易経』そのものの終わりと始まりを媒介する、まさにこの物語のラストにより相応しい卦のように思えます。

”象に曰く、未済は亨るとは、柔中を得ればなり。”

”九二は、その輪を曳く。”

火水未済の錯卦は、水火既済(すいかきさい=☵☲)。全て整う、完成・・・・・・実那子も直季も、ようやく物語が解決した歓び(☲)に浸っているよう。しかし、実際は、思わぬ落とし穴(☵)に見舞われ、青年(☵)は本当の眠りの中に吸い込まれた。何も知らぬ彼女は、明るい陽射し(☲)の中にいて、そして、やがて、物語がまた乾為天(☰☰)から始まって行く事を残酷に知る事になる。立ち止まって感傷に浸る事を許される事も無く・・・・・・。 「離(☲)さない」という言葉も、空しくブラックホール(☵)に溶け込むばかり・・・・・・。 

・・・と、こちらのラストを踏まえて、周易的な視点からこのドラマを今一度捉え直しますと、本文の冒頭で提示した山水蒙と雷火豊・・・・・・『眠れる森』はどちらの卦が相応しいか、という観点から捉えますと、
山水蒙、よりも、雷火豊の方が相応しい、という結論に私は至りました。

山水蒙は、あからさまに曖昧な不安に襲われていて、恐る恐る進もうとするようなイメージですが、
雷火豊は、全てが恵まれていて順風満帆な状況の中に、実際の闇が潜んでいる、それがやがて肥大化し・・・というイメージがあり、やはり、本作は後者の方がシックリ来るように思います。
また、実那子は、自身の過去をハッキリ知りたいと何回か心に、記憶に問うたに違い無い、その意味で、「再三」易占をした山水蒙の状況のように思いますが、やがてその問いも、順風満帆な雷火豊の陽だまりに目を眩まされ、直季と出会う少し前までは密かに問う事すらしなかったに違い無いのです。
光がより光であればある程、闇も、より闇でいられる・・・・・・。

・・・と、このような、易経と照らし合わせながら分析したいと思える程の内容に満ちた本作を書かれた野沢氏は、2004年6月、突如、鬼籍に入られました。ご自身で、旅立たれました・・・・・・。

※482ページより引用
   
    この企画書(※『眠れる森』の企画書)を読む全スタッフキャスト
    に宛てて、テーマをこう解説した。

 ”伊丹十三が自殺した。中小企業の三人の社長は牛丼を最後の晩餐にして、揃って首を吊った。後ろ指さされた官僚たちは死をもって責任を取ろうとする。
 『失楽園』の二人は心中し、『HANA-BI』の二人も自殺する。みんなが死に魅入られている。これが世紀末の人間の姿なのか。
 こんな大人たちの有り様を見て、子供は思うに違いない。「要するに死ねばいいんだ。追い詰められたら死に逃げ込めばいいんだ」
 危険極まりない時代だ。
 だから言いたい。「どんなに悲惨な過去に苦しめられ、どんなに罪深い過ちを犯していようと、全てを引き受け、その人生を生きろ」”

・・・こういう文章を強く打ち出せた方が、どうして、その言葉の群れを自ら進んで裏切ってしまったのか、もう18年前になりますが、本当に今も不可解で、何よりも無念でなりません。辛口のホームドラマをTBSで書こうとされていらっしゃった最中の事で、書きたい世界が湯水の如く溢れていたに違い無いのに・・・・・・もっともっと、硬質で重厚な野沢氏の世界観に触れたかった。(ワールドカップ期間だからという事は関係無く)氏のサッカー小説『龍時』シリーズはピッチに虚弱である筈の自身も立っていて実際にサッカーをしているような錯覚を覚えるくらいの豊かな臨場感に溢れていて、主人公のリュウジのその後の活躍も氏の手で見てみたかった。何よりも、『龍』は、易の八卦、乾☰の爻辞に登場する、その繋がりで、龍がどう育って日本サッカー界に限らず、様々な殻を突き破って行くのかを見たかったです。(主人公のサッカー選手・リュウジは龍の魂を隠し持っていて、サッカー中に気持ちが湧き立つとそれが呼び起こされるという設定なのです。)氏の2004年以降の作品群からポジティブな感性を得る事が、私だけでなく、多くのドラマ愛好家、多くの映画、文学愛好者が出来た筈なのです。改めましてこの場をお借りして、ご冥福をお祈り申し上げます。

それだけ、生きる事は、易経の世界をなぞる事は、粒立った言葉さえ裏切らざるを得ない程、過酷、なのか。野沢氏の享年のご年齢が近づいた今、恥ずかしく無知を極めている私は、気を引き締めて地に足を付ける事しか出来ない自身を情けなく思うばかりです。

最後に、『眠れる森』の一つのシーンを明示して終わりにしたいと思います。敢えて易卦を当てはめる事はしません。読者の解釈に委ねます。怠慢や投げやりではありません。私の解釈が、余計な靄をもたらさぬように、じっくりと噛み締めて頂きたいワンシーンかと思います。

野沢氏の戯曲は、他にも名作に溢れています。またいつか『易経』片手に解読に挑みたいと思います。最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。

                 令和四年 十一月二十日
             (祝・FIFAワールドカップ2022開幕)

                   副汐 健宇


※421〜423ページより引用

真昼なのに光の届かない森

―省略―
直季「実那子だったら、知ってるかな」
実那子「・・・・・・?」
直季「眠れる森の美女ってあるじゃん。ほら、有名なフランスの童話でさ」
実那子「・・・・・・(頷く)」
直季「あの美女って、目覚めた時に目の前に王子様がいたってだけでプロポ
 -ズを受け入れてんだよな。よく考えると、あれって変な話だと思わない
 か?」
実那子「・・・・・・」
直季「だってあの美女はずっと眠ってたんだぞ。王子様が自分を目覚めさせ
 るためにどれだけ苦労したかなんて全然知らないのにさ、目の前にいたっ
 てだけで結婚相手に決めちゃっていいのか?」
実那子「・・・・・・」
直季「どう思う?」
実那子「・・・・・・きっと目と目で分かったのよ。この人が運命の人だっ
 て。自分のために魔女と命がけで戦ってくれた人なんだって」



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