見出し画像

騎手・福永祐一の引退に思う〜“天才“の息子として

小学生の頃、日曜日は母の実家によく遊びに行った。昼間、茶の間で祖父や叔父が興じていたのは競馬中継である。そこで、ある騎手の名前を知ることになる。福永洋一である。

祖母は競馬のことを分かっていたのか疑問だが、福永のファンだった。祖父の脇で、きっと福永が勝つと話していた。福永洋一は1970年から9年連続で年間最多勝をあげた。70年は私が9歳になる歳なので、まさしくスター騎手へと上り詰めようとする福永を祖母は応援していたのだろう。

福永の次に騎手の名前を覚えたのは武邦彦。ロングエースでダービーを制した、武豊の父親である。日本で最初のアイドルホースはハイセイコー。1973年、地方競馬出身のハイセイコーの快進撃は、社会現象となり、小学生の私も日本ダービーを楽しみにした。しかし、ハイセイコーは敗れ、勝ったのはタケホープ。さらにタケホープは、菊花賞でもハイセイコーを下し、その時の鞍上は武邦彦だった。ハイセイコーの騎手、増沢末夫はなぜか記憶に残らなかったのだが、名前が珍しかったこともあり武邦彦は脳に刻まれた。

小学校を卒業してからは、母の実家に行くことは稀であったが、福永洋一は最多勝を続けていたが、日本ダービーは勝てなかった。そして、1979年落馬事故で再起不能となる。この事故はかつての思い出とともに印象的な出来事だった。

時は流れ、1987年武邦彦の息子、武豊がデビュー。私はギャンブラーではないが、大学時代から細々と馬券を買うようになり、若干年下ではあるが同じ世代のスター騎手の登場を喜んだ。

そして1996年、福永洋一の子供、福永祐一が騎手デビューする。悲劇の“天才“の息子、甘いマスク、スター性十二分のジョッキーである。順調に騎手人生を歩むが、父も勝てなかった日本ダービーには、なかなか手が届かなかった。カリスマ性という意味でも、武豊の陰に隠れた感じだったが、それが祐一の魅力でもあった。

そして念願の日本ダービーに、2008年ワグネリアンで勝利した時は、馬券関係なく喜んだ人は多かっただろう。私もその一人だった。(私は、日本ダービーでは祐一の乗る馬を理屈関係なく最初に消していた)そして、2020年コントレイルでダービーを含む、クラシック三冠を達成し、名実ともに“天才“の息子ではなく、一流騎手として君臨した。

その福永祐一が引退、調教師としての新たな人生を歩むことになった。45歳、武豊の53歳、横山典弘54歳と比べるとまだまだ若い。ただ、調教師として再び花開くためには良い歳だろう。ワールドカップの報道が主となっている中、新聞の報道もあれだけの実績の騎手にしては小さな扱いだった。それも彼らしいのかもしれない。

父親のことがあったので、祐一の引退はなぜかほっとする感じがあった。父とは関係はないのだが、落馬事故にあわないか、心配だったのだ。私がそう思うのだから、祐一の母親を含め周囲にいる方々も残念に思いながらも、安堵しているのではないだろうか。福永祐一の存在は、父親の事故も通して、騎手という仕事が命懸けであることを感じさせた。

外国人ジョッキーが席巻する中、武豊と並ぶスター騎手の引退は残念ではある。騎手として父親の果たせなかったことを達成し、もしかしたら父も目指した調教師としての第二の人生にもチャレンジする。そんな福永祐一を応援したい


いいなと思ったら応援しよう!