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なぜかハワイにいる(その3)〜戦艦ミズーリで学ぶ

(承前)

アリゾナ記念館は、予約する場合のみ1ドルがかかるが、入館は無料である。一方、戦艦ミズーリ記念館は有料。パールハーバーには、この他、真珠湾航空博物館、太平洋艦隊潜水艦博物館(Pacific Fleet Submarine Museum)があり、それぞれ結構な入場料を取る。例えば、ミズーリで約35ドルである。全て観覧できるパスポートがあり、これは約90ドル。せっかくここまで来たので、パスポートを購入する。

ヴィジター・センターからシャトル・バスに乗り、戦艦ミズーリ記念館に。入り口に日本語ガイドツアーもできると書いてある。バスから降りた集団の中の日本人はまた私一人。 一応、聞いてみると、ガイドを呼ぶとのこと。現れたのは、ジョージさんという日系3世の方。70歳代というこの方と、なんとも贅沢なツアーとなった。

最初に戦艦ミズーリの歴史を教えてもらう。彼女は真珠湾攻撃の年、1941年からニューヨークのブルックリンで造船された。そんなところに造船所があったのだ。 1944年に就役し、パールハーバーにやってくる。その後、硫黄島での戦い、沖縄戦に参加する。朝鮮戦争後に、一旦は引退状態になるが、改修が施され復役する。そして、湾岸戦争が発生し、再び出動、その時に放った砲弾の数285が艦隊に刻まれている。戦艦としては、大変な人生を歩んだ。

ジョージさんは、チャーミングな方で、米軍座間キャンプにいたこと、呉の大和ミュージアムは何度も訪れていることも話してくれる。さらに、映画「バトルシップ」が、このミズーリで撮影され、浅野忠信の上官役で自分も出演したと話す。その時の写真を見せてくれ、さらに名刺をくれた。名刺の裏には、同じ写真が印刷されている! 「セリフはありましたか?」と尋ねると、「あったんだけど、カットされたんだよ」と本当に残念そうに答えてくれた。

ミズーリ号の人生で、最大のハイライトとも言えるのが、太平洋戦争の終結を目撃したこと。東京湾に停泊した戦艦ミズーリ、1945年9月2日、このデッキ上で調印式が行われた。調印したのは、日本側は政府代表の重光葵、大本営の梅津参謀総長。アメリカは、マッカーサー、ニミッツ海軍元帥。そして、各国の軍代表の署名が続く。

調印式のテーブルが置かれた場所には、記念のサインが埋められており、その側には降伏文書のレプリカが飾られている。ジョージさんが、「間違いに気づきましたか?」。カナダの代表がサインする際、線の上にサインしなければいけないところ、下にサインしてしまった。そのため、以下の人が一行ずつずれてしまったのだ。ジョージさん曰く、「きっと、凄く緊張したんでしょうね」。

感動的な話を聞いた。沖縄戦で、ミズーリを一機の神風特攻待機が襲った。飛行機は装備した爆弾を途中で落としたが体当たり、船の側面にその時できた凹みが残っている。飛行機は大破、若き日本の操縦士は即死だった。ミズーリのキャラハン艦長は、遺体を回収し丁重に葬ることを指示した。戦場でアメリカ軍兵士と同様の葬儀が営まれ、このために乗員の手で作られた日本の軍旗に遺体はくるまれ、水葬が執り行われた。

敵ではあるものの、祖国のために自身を犠牲にした同じ軍人に対する、敬意の表明。未だ戦時中であるにも関わらず、こうしたことが行われていたことを、私は全く知らなかった。なお、ミズーリ艦内には、特攻隊の紹介、遺品や手紙が展示されている。家族への手紙は、涙なくしては読むことができない。

ミズーリを後にして、航空博物館に行く。私は、飛行機マニアでもないので、展示されている零戦、B-25など見ても、「ふーん」という感じなのだが、好きな人にはたまらないのだろう。

予想外に面白かったのが、潜水艦博物館。潜水艦Bowfin号の内部を見学できる。潜水艦の中は本当に狭い。階級の差で、居住空間の広さが違うのは戦艦同様だが、絶対的なスペースがないので、艦内のクルーは上下の隔たりなく協力する必要があったことを体感できる。

また、屋外には日本軍の特攻魚雷「回天」も展示されていた。空のみならず、海中でも若き命が失われた。

全体を通じて感じるのは、こうした展示を通じて、平和への願いと共に、自国を守ってくれる軍およびそこに勤める兵士たちへの敬意が醸成されるようになっていること。

欧米においては、こうした施設のみならず、さまざまな機会に軍人に対する感謝の意が表される。翻って、日本においては、自衛隊に対する敬意が乏しいのではないだろうか。自衛隊員のなり手が不足していると聞くことがあるが、一つの理由はこういうところにもあるように思う



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