PYGという分岐点(その1)〜沢田研二と萩原健一
1970年12月、ザ・タイガースが解散する。私は10歳である。そして年が明けると新しい動きが出る。隣に住むお姉さんが、「今度ジュリーとショーケンが一緒になって、PYG(ピッグ)というグループを作るねんで」と教えてくれた。
私はスーパーグループの誕生に喜びつつ、「あの2人が一緒にやって大丈夫なんやろか」とも感じた。
週刊文春、島崎今日子の連載「ジュリーがいた」の第4・5回はPYGの時代を書いている。渡辺プロからのポストGS対応命令により構想されたのがPYG、ザ・タイガースからは沢田研二と岸部修三(現・一徳)、テンプターズから萩原健一と大口広司、スパイダースから井上堯之と大野克夫が集められた。
私にとってのPYGは自然にフェードアウトした。子供が触れることのできるメディア、つまりTVで見ることもなかった。一方で、沢田研二は1972年ソロとしての「許されない愛」がヒット、TVで見る頻度が高まっていった。PYGの音楽に触れることはなかった。
この連載を読み、 PYGの音楽を聴いてみた。出したアルバムは「PYG!」とライブ・アルバム「Free with PYG」の2作である。
時代背景を記しておくと、はっぴぃえんどがデビュー・アルバムを出したのが1970年、これに象徴されるように日本におけるロック音楽が離陸し始めた頃である。
PYGのメンバーも、自発的なバンド結成ではないにせよ、アイドル化したグループ・サウンズから脱却し、本来目指していた本格的なロックを創ろうとしていただろう。そんな気概が感じられるデビュー・アルバムである。
そして、1971年8月田園コロシアムのライブ「Free with PYG」は、そんな想いが詰まっている。半分以上がカバーで、 ディープ・パープルの“Black Night”、”Speed King”、レッド・ツェッペリンの“Baby I'm Gonna Leave You”、ストーンズの“悪魔を憐れむ歌”、”Love in Vain”などが並ぶ。
ジュリーとショーケンのツイン・ボーカルは機能しているように聴こえ、骨太の演奏は彼らが目指す音楽を示していたように見える。一方で、客席からの嬌声とのギャップも感じる(ジュリーは歌いながら、「タンバリンやめて」とつぶやいている)。
ちなみに、ツェッペリンの初来日は1971年秋、ディープ・パープルは1972年である。本物の来日も、PYGの運命に影響を与えたようにも思う
(続く)
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