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カーテンの洗濯〜教育に裏打ちされたある休日の午後

ある週末の話である。午後の3時を回ったあたりだろうか、妻が「寝室のカーテンを外して、洗濯機に入れて」、「高くて届かないから」と言った。

寝室には窓が二箇所あり、 遮光カーテンが吊るしてある。その一つについて指示が下ったのだ。私は、「今から洗っても干して乾かす時間がないのでは」と思ったが、その言葉をグッと飲み込んだ。妻は常に正しいのであり、その行動に口を挟むことは地雷を踏むことと同意である。

私は一箇所のカーテンを外し洗濯機に入れてスタートボタンを押す。洗濯機が回り始める。このひとときがいかに平和な時間か、そのことに私は気づいていなかった。

洗濯が終了すると、妻はこう言った「脱水はしっかりできている?」。ドラム式洗濯機のドアを開け、触ってみると相応に水が抜けている。「じゃあ、それをカーテン・レールに掛けておいて。すぐに乾くだろうから」、「それから、もう一つのカーテンも洗ってくれる」。

私は、おもわず「続きはまた今度でいいんじゃない」と返したが、その言葉に何ら力がないことは認識していた。

洗い終えたカーテンを、レールにぶら下げるのだが、周辺にホコリが絡んでいる。掃除機と雑巾を持って、溜まったホコリなどを取り除いてからカーテンを戻す。妻に指摘される前に自主的にやる。そのことが、精神衛生上よいことは長い結婚生活の中で私は学んでいる。

ほどなく、第二弾の洗濯は終了し、やれやれと思った瞬間、妻からは「今度はレースのカーテンを外して、同じように洗うように」と指示が下る。もう、“毒をくらわば皿まで“の心境である。いや、むしろ“乗りかかった船“というのが正しい表現か。

窓枠に合わせてレースのカーテンがかかっている。窓枠上から下がる遮光カーテンに比べると、低い位置にあり外すのもたやすい。レースのカーテンを外しながら、ささやかな幸せを私は感じていた。「これを外すのは楽勝だ!」。そして、再び窓枠・レールの掃除、そして洗い上がった遮光カーテンを掛ける。

こうして、寝室のカーテン・クリーニングは無事に終了。「クリーニング店に依頼することに比べれば、コスト・パフォーマンス高し!」と自分を鼓舞し、“やらされ感“からの脱却を実現していた。

あれから1ヶ月程度が経過し、このカーテン・クリーニングについて、妻が知人に話をした。すると、この話を聞いた人々(注:女性)は大いに面白がったそうだ。私はカーテンを洗濯機で洗うという発想についての感想かと思ったのだが、「旦那をどのように教育し、言うことを聞かせているのか」という観点だったそうだ。

私が家庭において言いつけられている他のタスクに比べれば、容易いものである。なぜならば、特定されたことをやるだけだからだ。私が行なっている多くの用事は、包括的に指示されているが都度都度には命令されない。朝、お風呂の追い焚きをする。冷蔵庫のワイン、妻が毎夜飲むジンの在庫管理をしっかり行い切らさない。さらには、黙示的に要求されている仕事もある。こうしたことに比べれば、個別の要求は楽なものである。いや、そう思うことにしよう。

会社における仕事を考えてみよう。指示される仕事を実行するのは当然である。それだけでは足らない。痒いところに手が届いてこそ、評価されるのだ。そして、自主的に課題を発見し取り組む方がやりがいがある。

ん、これは私が家庭で教育されたからなのだろうか?



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