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40年ぶりの「蒲田行進曲」〜完結編『銀ちゃんが逝く』(その1)

つかこうへいが逝去したのは、随分前のことと思っていたが、まだ12年だった。今年は十三回忌追悼公演として、紀伊國屋ホールで「蒲田行進曲完結編」と「初級革命講座 飛龍伝」が上演されている。私は、7月15日「蒲田行進曲完結編『銀ちゃんが逝く』」を観た。そのことに直接触れる前に、時間を40年以上前に戻す。

なぜ、そんな面倒なことをするのか。“あの”「蒲田行進曲」に、何故“完結編”が必要だったのか。そのことを、私はずっと考えているからである。

私は、「蒲田」の初演を観ている。1980年、私が大学に入学した年の秋、つかこうへい三部作として、「いつも心に太陽を」と「熱海殺人事件」が再演され、「蒲田行進曲」が初演された。 私は勇んで三作を制覇した。

その時の私の印象は、「いつも心に」と「熱海」に比べると、 「蒲田」は地味だった。初演は銀ちゃんに加藤健一、ヤスに柄本明、小夏に根岸季衣という配役で、根岸の存在感は凄かったが、柄本・加藤は「熱海」の風間・平田コンビに比べると、おとなしかった。特に、柄本明は暗く、ヤスのモノローグのシーンなど、彼の辛さがあまりにも強烈に発信され、いたたまれなかった。今考えると、私は、芝居の観客としては初心者だったと思う。

したがって、同じ柄本主演の再演は多分パスしたのだと思う。「蒲田」に再会したのは、1992年のつかこうへい事務所解散公演、銀ちゃんを、加藤と風間杜夫のダブルキャストとし、ヤスには平田満、小夏はやはり根岸季衣という布陣での、異例のロングラン。風間・平田コンビに、根岸が絡む舞台に、私はすっかり魅了された。40年前のことである。

当時の記憶を振り返ると共に、当時は私の知らなかった背景を掘り起こすために、劇団「暫」ー「劇団つかこうへい事務所」と、つかを支えてきた長谷川康夫の大著「つかこうへい正伝 1968−1982」を読み返してみた。

当初、「蒲田」は銀ちゃんに加藤健一、小夏に根岸季衣に加え、ヤス役は著者の長谷川康夫で稽古が始まった。長谷川は、劇団解散後、演出家・作家となったため、あまり知られていないが、私は「飛龍伝'80」と題された、「初級革命講座 飛龍伝」での主役の舞台が印象に残っている。

また、「蒲田」という新作に関する演者の共通認識は、<根岸のための芝居であるということだった>。根岸季衣は、70年代半ばの「ストリッパー物語」などを最後に、つかの作品に出演しておらず、彼女は、<「皆が芝居をやっているのを外から観てて、ずっとうらやましかった」>と語っている。

ところが、つかは京都太秦撮影所で「階段落ち」のエピソードを聞き、この芝居は<「階段落ち」をキーワードにして、破天荒なスター俳優と彼を盲目的に慕う大部屋俳優、そしてスター俳優と付き合っていたが、妊娠したために大部屋俳優に押し付けられる、かつての人気女優という三人の構図で、新たなドラマが出来上がっていくことになる>。

「蒲田行進曲」とは、こうした芝居である。ただし、すんなりとは行かない。

今回の舞台を見ながら、「銀ちゃん」はつかこうへい自身の分身だなぁと思いながら観ていた。上昇志向とコンプレックスがぶつかりあい、周囲を振り回す。露悪的な部分と優しさが共存する。長谷川の本にはそんなつかの日常が描かれている。そして私の考えていたことは、本に書かれていた。<「銀ちゃん」の方は、はっきりしている。つか自身だ。言い方変えれば、「金原峰雄(注:つかの本名)」が目指す「つかこうへい」>だ。

はっきりしていなかったのは、<「ヤス」という人物設定>だった。つかは<自身が持てなくなっているよう>で、フラストレーションは長谷川に向かう。上述の通り、「蒲田」は三部作の一つであり、平田満を起用するには無理がある。そこで、<つかが思い立ったのが柄本明である>。

長谷川ははずされ、劇団「東京乾電池」を率いる柄本明がヤス役に迎えられる。<柄本という強烈な個性とその存在感が、つかの芝居を飲みこんでいくようだった>。つかは語る。<「最後には、何か怪物が必要だった」>

<一九八〇年十一月四日、『蒲田行進曲』の幕は開いた>


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