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5000円が意味するもの(番外編)〜漫才の天才、上沼恵美子さんのこと

文藝春秋掲載、上沼恵美子の手記から始めた本稿、本題とは全く関係がないことを付け足そう。

朝日新聞の連載に「語る 人生の贈りもの」と題するものがあり、今は天童よしみが語っている。その第3回(3月30日掲載)のサブタイトルは、“のど自慢、恵美ちゃんと語った夢”とある。

この恵美ちゃんは、もちろん上沼恵美子である。天童よしみは、小学生の頃から関西地方でのど自慢あらしとして有名だった。当時、もう一人の有名人が上沼恵美子で、二人はのど自慢会場で何度も遭遇する。天童が1954年生まれ、上沼は一学年下の1955年である。

二人はフジテレビの「ちびっこのどじまん」で対決し、天童がグランドチャンピオンに。その後、1972年に天童がデビューした頃、上沼は天童に<『歌をあきらめて、お姉ちゃんと漫才します。よしみちゃん、これからも頑張って』 >と手紙を書く。二人は今も仲が良いとのことである。

実は、朝日新聞のこの連載に上沼は2019年に登場している。その中で天童との交流を書いているが、流石は上沼、天童に歌で負けたとは書いていない。この「ちびっこのどじまん」について、上沼はこう語っている。<(天童と)「一緒の回に出たら負けるかな」と思ったのを覚えてます。演歌の時代でしたし、彼女の演歌は当時から一流でした。ただ、今も昔も、ポップスを歌わせたら私だって負けへんと思ってますよ。>

その後、上沼の父は強引に上沼とその姉に漫才コンビを結成させる。初舞台は、上沼が中学生の頃、正式デビューは1971年、海原千里・万里の誕生である。

私は上沼の6歳下だが、突然出現した自分の少しだけ上の世代の漫才師に驚いた。中田カウス・ボタンら、ダイマルラケット、いとし・こいしといった重鎮とは違う、“若い”世代の漫才師が登場し始めた頃ではあった。それでも、カウス・ボタンは私からすると一回り上の大人である。

そんな中で登場した、海原千里・万里の登場である。アイドル的な存在にもかかわらず、千里(上沼恵美子)の歌唱力を生かした歌ネタも駆使した漫才は抜群に面白い。10代でこの話芸は、ある種の天才で、1972年に創設された「上方お笑い大賞」で銀賞を獲得する。ちなみに大賞は六代目笑福亭松鶴と桂米朝、金賞はコメディNo.1である。

千里・万里の漫才は、YouTubeで何本か見られるが、今観ても古さを感じさせない。若いお笑いファンに是非観てほしい。それを伝えたいことが今回の主旨である。

そして、テレビで見ない日はなくなり、1975年は歌の方で、「大阪ラプソディー」がヒットする。そんな人気全盛の中、1977年千里(上沼)は結婚し、事実上の引退、テレビから姿を消す。その消え方も、私たちには衝撃的だった。

その後の芸能界復帰、関西テレビ界における存在感、「バラエティー笑百科」、紅白の司会、M1の審査員といった全国区での活躍はご存知の通りである。大阪のテレビ局で働いていた友人が、上沼に対するテレビ局の丁重な扱いを話してくれた。その中に、「こないだの誕生日なんか、花火あげてんぞ。上沼恵美子のためだけに」というエピソードがあり、内心、『これは話盛ってるな』と思っていた。

先週は、「おしゃべりクッキング」の最終週ということで見ていたら、上沼が誕生日に花火を上げてもらい感激したということを話していた。本当だったのだ。なお、私は「おしゃべりクッキング」のレシピを愛用している。上沼の進行が面白いだけでなく、美味しい料理が多いのだ。

こうしてテレビ界に足跡を残した上沼は、YouTube「上沼恵美子ちゃんねる」を始めた。漫才を始めた当時の話、全盛期の忙しさなどを語った初回は、再生回数100万を超えていた



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