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“純情“と“純粋“の行方〜つかこうへい作「新・幕末純情伝」

昨年、つかこうへいの十三回忌を迎え、追悼公演は終了。今年は、“つかこうへい復活祭“で、演目は「新・幕末純情伝」。2月8日の舞台を観た。

演出は岡村俊一。新撰組の沖田総司は女だったという設定で、ヒロインは元欅坂46の菅井友香である。

私は未見だが、「つかこうへいの世界」(メディアート出版)によると、初演時の「幕末純情伝」は、女スパイが登場していた。これが「新・ー」になり女性出演者は一人となった。

ドラマは、女性の沖田総司、同じ新撰組の土方歳三と、坂本龍馬の三角関係を軸に、幕末の日本を描いている。

幕末とくれば、「幕末太陽伝」、川島雄三監督、フランキー堺主演の映画である。フランキー演じる左平次は”太陽”であり幕末を照らす。そして、”太陽”は”純情”に代わり、「幕末純情伝」である。私は舞台を観ながら、”純情”と”純粋”について考えていた。

広辞苑第七版によると、”純情”とは<自然のままでかざりけのない人情。邪心のないいちずな情愛>である。一方で、”純粋”とは<①まじりけのないこと。異質なものをそれ自身に含まないこと。「ー物質」>、さらに<④邪念・私欲がなく清らかなこと。「ーな若者」>とされていた。

”純情”にあって”純粋”にないものは、”情”である。また、”純粋”にはまじりけがなく、”純情”は自然、つまり異質なものも飲み込む。

そして、”純情”の先には、”落胆”があり、そのもっと先には”滅び”がある。”純情”が死ねば、それは”滅びの美学”となる。”純粋”が滅びると歴史になるが、”純情”は美学であり、それは人の心を打つ。

「新・幕末純情伝」における、真の”純情”は、沖田総司である。彼女は情愛によって行動し、イデオロギーという”純粋”な動機で動いているわけではない。この芝居は、純情伝であり、それを「伝」とならしむため、”純情”は”純粋”とぶつかり合う。

新撰組は”純情”である。百姓と支配者の階級闘争を秘めているが、その動機は家族を幸せにしてやりたいという気持ちである。それを一番体現しているのは土方歳三であり、沖田はその”純情”に惚れる。

幕末が熱いのは、勤王vs佐幕といった単純な構造ではないことにもある。それを体現するのは、岡田”人斬り”以蔵である。彼は新撰組に対峙する立場であるが、”純情”である。

勝海舟は”純粋”である。より良き、開かれた日本に平和裡に移行するという一心で行動する。”純粋”は、”まじりけ”、”異質なもの”を排除しなければならない。桂小五郎も岩倉具視も、ある種”純粋”である。

坂本龍馬は”純粋”でありながら”純情”であった。そして、その”純情”を植え付けたのは沖田総司だった。龍馬は、その純情性故に、死に至り、維新に立ち会うことができなかった。

幕末特有の空気を軸にドラマを紡ぎながら、イデオロギーや、歴史の大転換などという大仰なものを簡単に乗り越えてしまう何かを感じさせる。”何か”とは男女の関係における純粋性であり、それを見せてくれるものが「新・幕末純情伝」なのである。

つかこうへいは、”純粋”よりも重要な”純情”を神林美智子を主人公とした90年代の新版「飛竜伝」で表現する。そして、2000年代に入り「幕末純情伝」も、舞台上の女性を一人にすることにより、”純情”を際立たせたのだと思う。したがって、この二つは対となる作品なのである。

役者陣は皆好演だったが、一人だけあげるとしたら、土方歳三役の高橋龍輝が素晴らしかったと記しておく。



東京は、残すところ本日(2月12日)のみ〜連日、若干枚の当日券が出ているようです。その後は、神戸公演となります。

岡村さん、ありがとうございます。引き続き、つか作品を上演していって下さい。十三回忌を経て、”復活”しました!!


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