れいわ怪異譚❷ 【私の家】

                     四百字詰原稿用紙約十六枚


 伸一と優香は家を買った。

 新婚で二十代の自分たちにはまだ早すぎるかもしれないと思ったが、双方の実家の奨めと援助もあって決断した。

 なにより新しい家は、まったくよく巡り会えたものだと感嘆するほど飛び切りの好物件なのだ。郊外の洋風総二階建てで東向き。中古だが真新しくきれいで、赤い屋根に濃緑色の外壁。窓やドア、壁の角には白い縁取りが施してある。

 切り妻屋根の横中央に濃い赤色の玄関があり、そこから左右シンメトリーに窓が二つずつ。小さいけれども芝生の前庭までついている。広さは十分だし、なにより二人が好きなポール・デイビスの絵そのままの可愛いらしいデザインにひかれた。

 さらにこの家には素晴らしい特典があった。外観正面を憧れの画家ポール・デイビスによく似たタッチで描いた絵が付属していたのだ。仲介業者によると前のオーナーが新築の記念に描かせたものらしい。

 伸一は玄関を入ってすぐ、玄関ホールからも見える位置のリビングの壁にその絵を飾り、対面する壁際にソファを置いてゆっくり眺めながら寛ぐのが好きだった。

 仕事で遅くなったときなど、昂ぶっている気持を落ち着かせるため、寝室のある二階にすぐには上がらず、そのリビングのソファに座って静かにこの絵を眺めて過ごすのだ。

 ただ一つだけ、伸一としてはこの絵に引っかかる部分があった。画面右下に唐突な感じで小さく全身が描かれている燕尾服の男だ。よく見るとその男の目が、そんなところまでポール・デイビスに似せなくてもよいのにと思うのだが、いささか不気味で怖いのだ。

 しかしこれも、ときどき目が怖い人物が出てくるのはポール・デイビスの個性みたいなものだから、真似て描くのであればどうしてもこうなってしまうのだろう、と伸一は納得していた。

 引っ越してから10ヵ月ほどが経ち、すっかり夏らしくなってきたその日も伸一の仕事は深夜に及んだ。帰宅すると寝ている妻を起こさないように真っ直ぐにシャワーを浴びてソファに座り、いつものように缶ビール片手にのんびりと絵を眺めた。

 そしてついうとうとして目を開けたとき、異様な変化に気付いたのだ。
 
 玄関ドアが開いている!!

 濃い赤色のドアがあるべき絵の中のそこのところ、つまり建物の中央にはなくて、そこのところには代わりに切り取ったような薄暗がりが四角い口を開けている。しかもよく見るとその影の部分の奥には、大輪のバラを描いたゴブラン織りのラグがちゃんと表現されている。柄もサイズもソファに座る伸一のすぐ横に敷いてあるものと同じだ。

 すでに描かれた絵の内容が変わるなどということはもちろんあり得ない。しかしいくら狼狽して立ったり座ったりを繰り返しながら何度確かめても、絵の中の我が家のドアは開いている。

 しばらくためすつがめつすして、とうとう伸一は自分が勘違いをしているのかもしれない、いや目の前の絵を見ればそんなはずはないのだが、いまは疲れているし、とにかく明日の朝になってからもう一度確かめてみよう、となんとか自分を落ち着かせてその夜は寝た。

 果たして翌朝、絵の中の伸一の家のドアはなにごともなかったように元通りにきちんと閉まっていた。

 伸一の全身に悪寒が走り、むしろドアが開いているのに気づいたときよりも激しい不安にとらわれた。

 朝食の支度をしている妻にありのままを話すのはためらわれた。いつもと変わらない平穏な朝をわけのわからないたわごとのような話で乱してしまうのは嫌だったし、風向きによってはこちらの正気を疑われるかもしれない。

 正気を疑われることは、伸一には耐え難く心外に思えた。

 このことがあってから伸一は深夜から未明の時間に絵をいっそう注意深く観察するようになった。さんざん疲れ果てて眠いのに目をこすりこすり間違い探しのようなことをするのは苦痛だった。

 しばらくはなんの変化もなかったけれども、やがて異変がはじまった。

 開いている二階のカーテンが閉まる、乾いていたはずの道路が濡れている、小さな野の花が咲いている、屋根の上にカラスが停まっている……。

 異変は日毎に大きくあからさまになり、ついには郵便配達や宅配便の車が走る、妻の友達が尋ねてくる、近所の散歩者の連れた犬が芝生に座り込んでいる、さらには、窓の中に明らかに自分と妻以外の知らない人物の影がある、などということもあった。

 そしてそれらはすべて朝になると消えて元通りになってしまうのだ。

 あらかじめカメラを用意して異変が起きた絵を撮影したこともあるけれども、朝になると保存データからもすっかり消えていた。

 妻に話をするきっかけが掴めないまま時が過ぎていった。

 そのころ伸一は歩道から踏み外して左足首を挫いてしまい、そうすると絵の中にも松葉杖をついた伸一が登場した。絵の変化は現実を反映していることを身に沁みて確信した。

 そしてこの絵は、なんとも厭わしいことに、伸一に対して妻を監視する役割を担うようになっていったのだ。

 会社に出かけて留守にしているあいだに妻はどうしているのだろう? 自分の知らないところでなにをしているのだろう? 

 それまでは気にも留めていなかったこうした仔細な疑問を抱きはじめると、疑う気持が次第に昂まり、ついには嫌な予感にも取り憑かれる。伸一は妻を細かく執拗に観察するようになった。

 現実にも絵の中でも妻の優香のようすに変化はなかった。身なりも化粧もこれまでのままの雰囲気で、隠しごとをしている気配など微塵もない。それよりもむしろ以前よりなにかと優しく伸一の体調や身の回りを気遣ってくれるようになってきた。

 しかし伸一はこれさえも素直に受け入れられない。睡眠不足と過労が伸一から落ち着きと冷静さを奪い、考えをよくない方向へとばかり導く。

 心にやましいことがあると無意識のうちにパートナーにやさしくなるというのは不倫や二股のアルアルだ、と伸一は気を揉む。

 絵の中の家の玄関ドアにトカゲのようなまだら模様のナメクジが張り付いているのに気づいたのは秋の気配が濃厚になってきたころだった。

 地面から濃緑色のドアに這い上がったナメクジは後から後から無数に増え続け、一斉に
上をめざす。そうして這った後には銀色の筋が光る。まさに湧くといういいかたがぴったりだ、と伸一は眉をしかめる。

 この気味の悪い光景は、絵の中だけに見たのか、それ以前に夢で見たのか、あるいは幻想だったのか、と伸一はもうはっきりしない。

 少なくとも現実にはこんなことは起こっていないのだ。しかし絵の変化は現実にシンクロしているはずなのだ。

 しかし疲れている伸一は投げやりになり、これから冬に向かう時期にナメクジが大量繁殖するなど聞いたことがないけれども、絵の中のことだから、と片付けてしまった。

 変化する絵それ自体の異常性にはもう麻痺してしまっている。

 そんな最近の伸一のようすを妻の優香は気に病んでいる。明らかに睡眠不足で、いつも疲労困憊している。だから壁や家具にたびたび体をぶつけたりするし、最近では歩き方も老人のようにふわふわした感じだ。

 仕事が忙しいのは仕方がないけれども、深夜に帰ってきてそのまま朝方までリビングで過ごすのはよくない。それでは疲れが取れるはずがない。しかもそれが何ヵ月も続いているのだ。やはりふつうではない。

 なにか理由があるのか、心配事でもあるのか、と本人に尋ねてもはっきりした答えはなく、ソファで寝落ちしてしまってこうなっているので睡眠も足りているはずだという。

 負けず嫌いの伸一にあれこれ口を出すのもためらわれ、とりあえず家庭内の雑事に神経をつかわせないように注意し、できるだけ栄養があって消化の負担にならない食事を用意しても、やはりそれだけではどうにもならない。

食事量は細っていくばかりでひどく痩せてしまった。

 疑い深くなったのも、そもそも会話自体がほとんどなくなったのも、みんな体調が優れないからだ。二人しかいない家の中はトゲトゲしく冷たい風が吹いている。

 考えてみれば伸一のこうした変化はこの家に引っ越ししてきたころからはじまっているようだ。もしそうなら考えられる原因は住宅ローンが負担になっていることくらいだが、もしそうなら家は処分してまた賃貸暮らしからはじめてもいいのだ。

 さらにもう一つ優香には気がかりなことがある。それは気のせいといえばそれで片付けられる程度の些細なことだったが、やはり不気味で不安だった。このごろ家の中にいると、いつも誰かにどこかから監視されているような気がするのだ。

 これは最近気が付いたことで、玄関、リビングや二階への階段でとくに強く感じる。

 考えてみればこの家は中古住宅なので、自分たちの手に渡るまでに隠しカメラが仕掛けられている可能性も十分ありうる。

 しかしそれはあくまでそんなような気がする、というだけの話、その程度の問題で仕事に忙殺されている伸一を煩わせるのはよくない、と優香は思う。

 調べてみると、スマートホンのカメラとライトを使えば素人でも比較的簡単に隠しカメラを見つけられるらしいことがわかった。より本格的には捜索用の機器も意外に安く売っている。

 しかしそれで本当に完璧にチェックできるものなのだろうか? 実際にやってみて隠しカメラなど見つからなかった、よかったよかった、となっても、そのうちにまた、もしかして見逃しているかもしれないなどと不安になるのでは意味がない。最終的に安心することが大切なのだ。

 気になることは一つひとつ片付けよう。

 優香は思い切って専門業者に頼むことにした。
 
 依頼してから約二週間後、業者は二人で現れ、作業は約二時間ほどで終了した。玄関とリビング、二階へ上がる階段、二階の廊下からそれぞれ一台の隠しカメラが見つかった。

「ご報告は以上になります」

 白髪が目立つ年輩の実直そうな一人がいい、助手役の青年が青い作業帽を後ろに少しずらしてうなずく。

 目の前のテーブルに無造作に置かれている取り外したカメラの本体は五センチ角くらいで厚さは約一センチ。細いコードが伸びていて、浅い黒色が不気味さを誘う。

「こうして見つかることってけっこう多いんですか?」

 報告を聞いた優香が固い表情を崩さず聞く。

「ご依頼いただいたほとんどの場合で見つかります」

 年輩の作業員が柔らかな、しかし事務的な口調で答え、青年が黙って缶コーヒーに手を伸ばした。
 
「どうなんでしょう。……ウチは全部で四台ですけど、ひどい方なんでしょうか?」

「いえいえ。少ないですよ」

 いえいえ少ない、とこともなげにいわれても優香は恐ろしい。

「まあ、単身者の場合、ワンルームマンションでは一台だけということが多いですけど」

「隠しカメラってどんな人が使うんでしょうね?」

 優香は話を少し引き戻した。

「それはいろいろのようですけれど……。多くてわかりやすいのはやっぱりわいせつ目的ですよね」

 半ば予想していた答えではあるけれども、優香は思わず眉をしかめた。

「しかしこちらのお宅の場合は設置されていた場所が玄関、リビング、階段、二階の廊下ですから、そうするといわゆるわいせつ目的の盗撮ではないと思います」

「ではなにが目的なのでしょう?」

「わかりません。こちらを訪ねていらっしゃる方々の顔ぶれを知りたいとか、ということなども考えられます」

 歯切れが悪くなった。

「そうすると前のオーナーさんの仕事関係とか、……」

「あの……」

年配の作業員は一瞬いい淀んだ。

「こちらに越してこられたのは去年でしたよね」

「ええ、去年の秋口です」

「このカメラの製造年は今年になっています」

 助手役の青年が手にしたカメラのコードに小さく四桁の印字が読み取れる。

「つまりこのカメラはこちらに引っ越しをされてから仕掛けられたものです」

「えっ、……」

「……確実にわかっているのはそれだけです。」

 意外ななりゆきに衝撃を受けて優香は思わず室内を見回した。どこにも違和感はない。

 しかし引っ越しをしてからというのであれば、つまり誰かがわが家に忍び込んで設置していったということではないか。

「あと、このカメラに使われているマイクロSDカードは容量が大きなタイプですので、約十六時間ほど連続して記録できます」

 そしてカメラには容量がいっぱいになるとそこで録画を停止するタイプとまた最初から上書きしていくタイプがあるらしい。

「これは上書きタイプです」

 いずれにしろそうすると、録画内容を確認したければ再び侵入して録画済みのマイクロSDカードを回収しなければならないことになる。

 そなことができる人間は夫の伸一しかいない。

 二人組の作業員は長居は無用だとばかり、サービスだといってカードリーダーを一台置いて去っていった。

 しかし優香にはカードの中身を確認する必要はない。伸一に腹が立つこともなかった。ただただ呆然と盗撮カメラを眺めているだけだった。

 絵の中の家のナメクジだらけの玄関ドアが少し開いて、丸々と太った黒灰色のネズミが出入りしている。ネズミは列をなして始終細かく交差し、踏み付け合い重なり合って出入りを繰り返している。鞭のようにしなやかな長い尻尾がのたうつ。

 伸一は今日見つけたというメモ書き付きで置いてあった盗撮カメラのマイクロSDカードを自分のスマートフォンで再生している。

 そこには白髪の見知らぬ男の顔が断続的に映っている。盗撮カメラのチェックにきた業者なのだが伸一にはそうは見えない。その後ろに立っているのは絵の中にいた燕尾服の男だ。

 優香は盗撮カメラをしかけた自分に怒り、この男を使って宣戦布告をしているのだ。こうしてなにもかもの歯車が狂ってしまったのは、この家のせいだ。仕事までうまくいっていない。

 絵を見ると、窓という窓はすべてナメクジで覆われている。よく見るとナメクジは庇の下の換気用ルーバーのあいだから室内にも入り込んでいるようだ。
 
 太ったネズミたちは相変わらず忙しげに出たり入ったりしている。そのあいだを小さなピンクいろの子ネズミが転げている。

 ああ、これは私の心象風景なのだ。

 一瞬、伸一の心に冷静な思いが走ったけれども、すぐに混沌が飲み込んでしまう。伸一はガレージからハンマーを持ち出し、二階へ上がっていく。

 晩秋の日差しが伸一と優香の家を黄金色に照らしている。家のドアは開いていて、入ってすぐのリビングにはこの家を正面から描いた絵が飾ってある。

「事故物件じゃない? この家は事故物件じゃない? いや、だから事故物件かどうかとそれだけ聞いているんです。ただそれだけのことです。はっきり答えてください」

 伸一は仲介業者を相手に電話で声を荒らげている。伸一はこの家が前オーナーの因縁に取り憑かれているのではないかと疑っている。

「いや、だから金の問題じゃなくて……。金の問題じゃないって何度もいってるじゃないですか。えっ? おかしいこと? おかしいことだらけですよっ。この絵……」

 伸一は突然乱暴に電話を切った。笑いの痙攣が起きて背中が丸まる。

 事故物件じゃん。やっちまってんじゃん。

 絵の中でその家の前に並んで立っているのは優香と伸一だ。伸一は叫んでいるのか笑っているのかはっきりしない、とても大きな口を開けている。

 伸一に肩を抱かれて立っている優香の両腕と両脚は肉が削がれて骨だけだ。

 その後ろに燕尾服の男が立っている。

 伸一がこの絵を見ることはもうない。

                             (了)

 
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