掌編小説【犬と歩けば】
400字詰原稿用紙8枚程度
パートタイムの店員に応募してきたのは5名で、3名が主婦、残り2名が学生とフリーターという内訳だった。
こちらもはじめてのことなので中古レコード店のパート募集定員1名に対して応募5名という数字は、多いのか少ないのかわからない。しかしできるだけ昔からの洋楽に詳しい人という希望は叶えられそうになかった。
それならばやはり告知の段階で専門手当として時給に上乗せしておく必要があったのではないか、そしてそうした人物が大勢応募してきた場合には、“洋楽レコードクイズ”みたいなものでふるいにかけなければならないのだろうか、などと他人事のように妻の小百合と話していると、書類選考を通った応募者が面接にやってきた。
雫を切った傘をそれ用の備前焼に立てて深々とお辞儀をしたのは、前髪を眉の上で切り揃えたフリーアルバイターの娘だ。恐れていたオタク風には見えない。
送られてきた履歴書の記載内容から相当な曲者ではないかとも身構えていたのだが、ごくふつうのいまふうの振る舞いの女の子である。肩透かしを食らった格好になった。
島田舞香というその娘は奥の事務所兼倉庫に招じ入れられて、背筋をピンと伸ばしたまま興味深げにあたりを見回した。
私は挨拶を済ませるとあとを小百合に任せて店に出た。郵送してもらった履歴書の〈将来の目標・希望〉欄に「犬になりたい」と書いてあったからだ。しかも他が細字のボールペンで書かれているのに対して、そこだけサインペンで黒々とである。
これは詳細を確認しなければならない、というか、確認せよという強い意思表示である。
しかし「犬になりたい」とはどういう意味ですか、と聞いたとして、そしてそこからまた話が繋がっていくとして、あらかじめ考えられる答えは、こちらとしては3パターンしかない。
ひとつは、サドマゾ的な「犬」であり、次はIggy Popの『I Wanna Be Your Dog』や「社畜」などという言葉に代表される、管理された社会や組織で生きる「犬」、そして最後が可愛くて誰からも愛される無邪気な「犬」だ。
いずれにしても私のようなオジサンが20歳そこそこの娘とやりとりするには危険がともなう、と私は思った。
大袈裟かもしれないが、雇用する側とされる側という力関係のもとでの話だから、うっかりするとセクハラ、パワハラだと誤解を受けかねない。上位にいる者がなんの気なしに放ったひとことが下位にいる相手をひどく傷つけてしまうということはよくある。
ダテに20年も上場企業の総務で働いてきたのではないのだから、こういうところには鼻が効くのだ。過敏といわれればそうかもしれないが。
とにかく、こんなことで変な噂を立てられたり謝罪に追い込まれたりしてはたまらない。
3人の主婦はそもそも勤務時間の希望が合致せず、もうひとり面接に来る予定だった大学生は、島田舞香が帰ったあとも結局現れなかった。
「雨が降っていて億劫になったんじゃないの。そんなのダメよ」
小百合が元も子もない突き放したいいかたをして、直ちに不採用決定。
「あの娘さん、島田さんはどうだった」
「いいと思うわ。めずらしいくらいいい子。いろいろあったらしくて履歴書は中卒だけれど、私たちにはそんなこと関係ないでしょ。本人はしっかりしているし」
小百合が堰を切ったように、そしていつも以上にはっきりとした口調でいう。大学生に冷たいのは島田舞香を強く推したいからというのもあるのだろう。
「犬になりたいってどういうことだったの」
「きっと家庭環境が複雑だからそんなふうに感じたんじゃない」
こういわれては取りつく島もない。小百合はこの話題に触れたくないのだ。それでもまあ、他に応募者はいないわけだし採用決定。
小百合も私もふたりとも犬好きだが、共働き夫婦ふたりきりの生活なので実際に飼うことは諦めている。そこに犬になりたい娘が舞い込んできたのもなにかの縁、と考えるのもオツなものではないか。
島田舞香の働きぶりはよかった。あまり最初から頑張りすぎるとやがて息切れがするのではないかと心配になるほどだった。
そのうえ意外に明るい、というか子どもっぽい性格で、1ヵ月もしないうちに妻とは小百合さん、舞香ちゃん、と呼び合う仲になり、店の前の掃除の際に顔を合わせる隣のお茶屋のオバサン連中とも仲良くなっていた。
隣のお茶屋のオバサンたち、実はこの商店街の人間は夜8時以降、下駄、サンダルなど木製の履物で歩くのは禁止というルールをつくった、ちょっと怖い方々なのだ。
ただいまは商店街から30メートルほど離れた賃貸マンションのオーナーが餌をまいて毎朝大量の鳩の群を呼びつけている問題に取り組んでいる。
一面の鳩の糞が近隣に迷惑をかけているのだけれども、餌をまいているのがマンションの敷地内であるために、行政もなかなか手を出せないらしい。
あと廃屋になっている住宅の庭にタヌキが棲み着いていて、どうやら妊娠しているに違いないという問題もある。
きっとこういう方々が日々、世間の規範や常識を強化してくれているのだ。そして私たちはそうした世間に依存して生きている。
舞香ちゃんは残念ながら私とだけはまだ少し距離があって、店ではなんとなく2対1の構図ができあがってしまっている。
オジサンは早くThe Policeの3枚目のアルバムのタイトル『Zenyatta Mondatta (ゼニヤッタ・モンダッタ)』の正しい意味を教えてあげたいのだが、たぶんいつまでも無理だろう。
妙にこだわりの強いマニアには素人のままの対応でいいとしているにしても、それでなくても中古レコードの仕事は覚えることが多い。いまはネット通販もある。
そのうえ小百合さんと舞香ちゃんは邦盤ポップスも扱いたいらしいから、大変だ。
あるとき買い取ったレコードの整理をしていると、『You've Got a Friend』で知られるJames Taylorの弟、Livingston Taylorの『Man’s Best Friends』が出てきた。ジャレットにご本人とラブラドール・レトリバーの顔がほぼ同じ大きさで写っている。
それを見て、舞香ちゃんの雰囲気がなんとなく実家で飼っているコーギーに似ていることに気がついた。
そういえば、あの素直な性格もまるで犬のようだ。ただ単に犬のようだといえば聞こえは悪いが、犬のようで大変よいのだ。
犬がなぜよいのかといえば、全身全霊、全力で飼い主に忠実、誠実だからだ。人間のような駆け引きがない。どうしてそうなったのかといえば、結局そうして依存することが生きる術なのだと決めているからだろう。
実家のコーギー、ミィは、どこの犬もそうかもしれないが、いつも疑いのない眼で真っ直ぐにこちらを見てくる。まったく屈託がない。
どうしてそうなのか、とあるときじっとミィの眼を見つめたことがある。ちょうど光が差し込んだミィの眼の奥には白灰色の壁があるだけで他には何もなかった。
驚いた。
ミィの忠実さは何かをもっているからではなくて逆にもっていないからなのだ。人間同士が仲よく平和に暮らしていくにはたぶんものすごく多くのものを捨てなければいけないのだろう、とそのとき気づいた。
企業人事に関連して、人間は管理されたがる、命令されたがる、というようなことがいわれる。たぶん、群とか仲間に対する態度が犬と人間ではよく似ているのだろう。
そして犬のほうが徹底している、もっといえば前進しているということではないのか。
気づけばさっきから奥の事務所兼倉庫に妙に秘密めいた空気が漂っているようだ。
覗いてみると舞香ちゃんとその肩を抱いた小百合が棚の隅のほうでぴったりと体を寄せ合っている。舞香ちゃんは泣いているようだった。
「男の人はいいの。あっちへいっていて」
近づこうとする先手を打って舞香ちゃんの頭を抱いた小百合がいった。それほどの深刻さはなかった。舞香ちゃんがきてくれるようになってようやく2ヵ月だ。なにがあったのだろう。
あっちへいきながら、つられたのか思わず目頭が少し熱くなった。そして我が家にもこんなホームドラマみたいな展開がやってきたのだなと驚いて、なぜか少しうれしい気もした。
(了)
次回もお楽しみに。投げ銭(サポート)もご遠慮なく。
無断流用は固くお断りいたします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?