掌編小説【愛教授の最終講義】
四百字詰原稿用紙5枚程度
愛教授の最終講義に出席した学生はわずか6人だった。教員生活最後の締めくくりだが、教卓の上にいましがた学生代表の吉岡美智から手渡された花束がこちらを向いて寝ているくらいで、とくに何のセレモニーもない。授業も教授の希望で通常通り行われることになっている。
春の陽が差し込む階段教室は学生が少ない分いつもより広々していてそよ風が行き渡り、穏やかでおおらかな感じがした。
愛教授の“愛”は本名で、フルネームでいうと小林愛である。しかし本人は女ではなく太ったおじいちゃんだ。愛教授と呼ばれているのはそれが面白おかしいのと、情報倫理学という専門からそれほど遠くもない感じがするからだった。
今日はレポート、『愛』についての講評。そしてこれを最後に愛教授はめでたく退官となる予定だ。
「エストロゲンとテストステロンのなせる技。分泌が亢進しているときちょうどたまたま身近にいた異性を抱いてしまい錯覚し、有頂天になり、ほどなく打ちひしがれ奈落の底に転落し、そうこうするうち取り返しがつかなくなり一生を棒に振る、もっとも一般的な人生の暇つぶし、……。そうですか。いいですね、なかなか。……しかしこのように突き放してしまうと人間のやることなすこと、すべからく滑稽ですね」
それは私が書いたレポートだ。『愛』を人間愛だとか神の愛だとか抽象的概念的に拡大解釈してはいけないという条件だったので、ただ思いつくまま書いたらこうなってしまった。
「まあ、これもしかし、世間でよくいわれているクリシェを継ぎ接ぎしたようなものですけれど、……」
書いたのは私だと暴露されやしないかと少しヒヤヒヤした。
「しかし点数的にはなかなかいいですよ。上位です」
愛教授はここで突然
「バッコン、バッコン」
と腕の筋肉を鍛えるダンベルカールの動きを左右同時にやりながら腰を激しく前後させた。
一瞬にして教室が凍りついた。そんな下品なことをする愛教授ではなかったし、そもそもこの大学にそんな教員がいるなどと考えることすら突拍子のないことだった。
愛教授は壊れてしまったのか、と私は思った。マラソンランナーがゴール直後に倒れてしまうように、長い教員生活をまっとうすると同時に力尽きてしまったのか、と。
前方に座っていた髪の長い女子学生がこっそり静かに後ろに席を移した。
「いや、今回のレポートには〈そんなことを考えても無意味ではないでしょうか〉とか〈わざわざ取り上げて考えるまでもないこと。自然のなすがままに。Let it be.〉とかという記述が多かったのには少しがっかりさせられていますからね」
それら最初からやる気を失っているものに較べれば私のレポートはまだマシだということだ。
「こういう回答をされた方は……、わかりますよ。逃げているんですね。『愛』を考えることから、『愛』を感じることから、もっといえば『愛』を受け入れることから。つまり『愛』がわからないものだから。そしてそれがバレるのが怖いから。そうやって誤魔化そうとしているのです」
饒舌になった愛教授はここでまたゼスチュア入りで
「バッコン、バッコン」
と繰り返した。
「そういうレポートにお点はあげられません」
愛教授は天井を向いて大きく深呼吸した。
「こうした、人としての基本的な課題から逃げる傾向は、たぶんあなたたちの親の世代、あるいはもうひとつ上の世代からはじまっています。ですから、ですから根が深いです。ですから、たとえば恋愛をしないのはお金がないから、とか時間がないから、とかいう、つまらないいいわけが跋扈してしまうのです」
愛教授はめずらしく強い口調になり、徐々に熱を帯びる。
「『愛』が怖い、『愛』がわからない。そしてそれが恥ずかしい、のじゃありませんか? でもね、それじゃダメ。それは人間がわからないということですから。人間がわからないと社会性が培われません。社会性を失った人間はどうなるのでしょう? どこへいくのでしょう? ……、もっと生々しく生きないといけません。みなさんもやってごらんなさい。バッコン、バッコン。怖くてもわからなくてもバッコン、バッコン」
愛教授は祭囃子のようにバッコンバッコンと繰り返しながら教壇の上を檻の中の熊よろしく右へ左へミシミシと練り歩いた。
「あなたたちにその勇気を持っていただきたい。かっこ悪いがなんだ、恥ずかしいがなんだ、そんなものバッコンバッコンだ。恐れず自分の中に新しい地平を開くのです」
それから愛教授は続けて休むことなく、奴隷になるな、とか主体的に生き抜け、とか、立て飢えたる者よ、とかを丸い顔面を紅潮させて語った。
しばらく滔々と語り続けたのち、急に舞台が暗転するように口を噤むと厳かな語り口でいった。
「時間がきました。それではこれでお終い、お別れです。みなさんごきげんよう」
いうとヘナヘナとその場に座り込み、両足を投げ出して動かなくなった。
窓からの日差しがその足先だけを明るく切り取っている。背広の胸元のパイロット・ランプが青く明滅しながら徐々に暗くなっていく。
「こういうのをシンギュラリティっていうのか?」
黒いハイネックのシャツを着たひとりの学生が、教室の後ろのドアに手をかけながら隣の学生にいった。
「面倒臭いことはAIにお任せしましょう。私たちには他にやることがいっぱいありますから」
講義中に席を後方に移した髪の長い女子学生が冷たくいい、ぺたりと床に座り込んでうなだれている愛教授の首があらぬ方向にグニャリと折れ曲がった。
こうした人文系の仕事をさせるなら、ロボットの寿命設定はもっともっと長くてもいいかもしれない、と私は思った。
先生、ご苦労さまでした。
(了)
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