れいわ怪異譚❸ 【家に帰りたい】
四百字詰原稿用紙約25枚
ホームのベンチに腰掛けているうちむやみに手間を取らせたがるバカ課長が悔しがるほど元気が蘇ってきたので、太郎は駅から少し遠回りして歩いて帰ることにした。
線路をくぐり駅の横から海岸の工場地帯に向かう浅い川に沿った一角は、昔、赤や黄色の派手な看板が連なる飲食店街だった。子どものころ昼間でも絶対に行ってはいけないと親たちからくどく足止めされていた、不穏で秘密めいた場所だ。
しかし自分が大人になって改めて目の当たりにする川筋にかつての面影はなかった。たかだか二十年ほどのあいだに街はすっかり廃れて夜の闇に窒息させられている。明るく派手に輝いていた看板は残骸すらなく、ただみすぼらしい軒の低い建物が肩を寄せ合ってお互いを支えている。
しかも密集している割には窓に灯る明かりは見渡す限り数えるほどもない。人の声も生活音も聞こえてこない。それでもなお、黒く蹲った木造トタン張りの家の中で誰かが息を潜めている気配はある。
月も星もなく貧弱な旧式の街灯が人けのない道を飛び飛びに照らす。まだ夜9時を回ったばかりだというのにすでに深夜の気配。風もない。湿った晩夏のぬるい空気が重く淀んでいる。この街は見捨てられているのだ。
少しは子どものころの思い出、郷愁が呼び起こされるかという太郎の期待は完全に肩透かしされた。
庇の傾いた玄関の前に久しく見かけることのない野良猫が予期せず闇から浮かび上がる。黄色く光る険しい目が太郎をじっと見つめている。値踏みが終わると呼吸すら変えず、何事もなかったようにくるりと背を向け、億劫そうに家の隙間に消えていった。
太郎は嫌な事件を思い出した。ちょうど去年のいま時分、夏の終わりにこの界隈で家五、六軒が全焼する火事騒ぎがあったのだ。その直後にたまたま行き合った中学校時代の同級生によると、老人ばかり三人が焼け死んだアレの原因は放火だ、ということだった。
「プロの仕業らしいぜ。猫にガソリンかけて生きたまま放り込んだんだってよ。ボンボン燃えて暴れ回るヤツ。しかも二、三匹。カチカチ山の狸じゃねえし。猫だし。ヤバいよな」
かつての同級生は訳知り顔の後にかすかに不安げなようすを浮かべ、意味ありげな笑いに着地した。
「古いから乾いてそりゃよく燃えるよなあ、タキギみたいなもんだもん」
「そんな話どこで聞いたんだよ」
元同級生は答えず、つい口走って失敗したとばかりに眉を持ち上げ目を泳がせた。そしてその困惑した表情のまま足早に立ち去っていった。
三十歳近いのにチンピラ風情のこの男については、中学校時代、隣町の水族館前の歩道に勝手に露店を出して父親と一緒に焼きイカや焼きハマグリを売っていたという、すこぶる芳しいような芳しくないような噂を聞いていた。だからもしかするとその火事を起こしたプロの連中とは太郎の直接の知り合いか、それともことによるとご本人自身が実行したのか、と太郎は勘繰った。この界隈にはそんなキナ臭い話がしっくりくる。
川の合流点に行き当たって道を曲がると、まるでそれ自体が光を撒き散らす巨大な電飾看板のようなコンビニエンスストアが忽然と姿を現した。昭和初期から西暦2020年代にいきなり跳んだような、まったく唐突かつここでは突飛な佇まいである。
これじゃあロクなことがないに違いない、と太郎は皮肉な気分になる。しかしその一方では暗闇から解放されていささかほっと安堵する気持ちもある。
半ば無意識に店の出入り口に近付く。くたびれたスーツ姿は、夜灯に吸い寄せられる蛾というには色気がなさ過ぎる。いま買いたいものはとくにない。
〈ジャンボ焼き鳥〉の橙色ののぼり旗の下にピンクの子供用三輪車があるほかは一台の車も、自転車すらも見当たらない広い駐車場を歩いているうち、もしかするとここがちょうど例の火事があった場所かもしれないという、暗い憶測がふと浮んだ。
正面の川とその手前の駐車場全体を見渡しながら、もしも古い家が密集するこの界隈を本気で焼失させるつもりなら、と太郎は考える。消防車両が入りづらいようにもっと路地の奥を狙うだろう。片側一車線とはいえ十分な道幅のある、開けた川沿の道路に面したここを選んだのだから、それにはそれなりの理由がある。
そう考えると、駐車場の真新しい舗装の下、太郎の足元で狡猾な企みが蠢動しているような気がした。
煌々と光溢れる店に目を上げると、それまで影になって気づかなかったが、入り口ドアの横、レジカウンター側のガラス窓にマスクをして目玉を剥き出しにした不気味な顔が貼り付いている。太郎はギョッと一瞬体を硬くし、状況を把握しようとする。いくらなんでもレザーフェイスということはないだろう。
岸辺に打ち上げられた大型の水棲生物の死骸も連想させるその顔は、窓ガラスを鏡がわりに化粧直しをしている女性従業員だった。そう気がつくと、くっきりし過ぎた目が愛嬌を帯びて、まるでアメリカン・コミックスに出てくるカエルのPepeのようにも見える。
そもそも顔がデカすぎるんだよ、と太郎は驚かされた腹いせに憤る。
「いらっしゃいませ」
Pepeがレジカウンターの中のもう一人と声を合わせた。二人とも若いが愛想のない声だった。
どうやらPepeは自分の顔の補修に夢中で反射するガラス窓の向こうからやってきた太郎には気が付いていなかったようだ。気付いていればいくらなんでもあんな歓迎のしかたはないだろう。
太郎は仕返しに小柄で頭デッカチな従業員Pepeのマスクを外させる方法はなにかないかと考える。たぶん瞼だけでなく唇や鼻にもそれなりのカスタム加工がしてあるだろうと思うのだ。
店内は冷房が効いて少し寒いくらいだった。Pepeたちも半袖ストライプのユニフォームの下に分厚い長袖のトレーナーを着ている。
ロック調のBGMが流れている。原曲とはかけ離れたアレンジのインストゥルメンタルで、高音がパリパリに乾ききるまで強調されている。
太郎の他に客はいない。しかしコンビニエンスストア独特の詰まった棚陳列のおかげで、いくら涼しくても寒々しく閑散とした感じはしない。
人通りが少なくなってしまった通りに面しているのだし、またたぶん老人ばかりのこの地域では夜9時を過ぎての客は少ないのだろう。
太郎はコンビニエンスストア成立の要件として半径五百メートル以内に五百世帯というのを聞いたことがあるのを思い出した。それを実際にこの店舗は満たしているのかどうか。この界隈は空き家が多いのではないか。年金目当ての幽霊人口に騙されたのではないのか。
押入れの奥なんかでひっそり乾涸びている爺ちゃん婆ちゃんが多いのでは?
そもそもコンビニエンスストアは目的ではなかったのかも。
店内をぐるりと回ってきた太郎を、チョコレート菓子の棚の前で3、4歳と思しき女の子が振り返っている。洟を垂らし、右手全部の指が口の中に入っている。みすぼらしい身なりに、見ると裸足だ。この店の誰かが自分の子どもを遊ばせているのかもしれないが、時代錯誤な見た目だけでなく、少しばかり逸脱しているようすが不気味だ。
駐車場に車が入り、黄色のノースリーブに紫のカーディガンを羽織った丸髷の女がずんぐりしたオールバックの男を従えて入ってきた。オールバックの男はガニ股の脚を心なしか引きずっている。
客とホステスが同伴出勤の途中、あるいは遊び人の中年カップルといった風情だが、派手な服装やアクセサリーがいかにも安っぽく、インチキ臭い。たくあんでも買って帰りそうな所帯くささがある。結果としてこちらのカップルも幼女同様、得体が知れない。
無言のまま握り飯の棚を眺めている中年二人の関係はすっかり冷え切っているようで、一緒にいてももうまったく楽しくはなさそうだ。とくに顎を突き出し、見るからに気の強そうな女は明らかに苛立っていて、いつ気紛れにぴしゃりとオールバックの頭を引っ叩いてもおかしくない危険な感じがする。
そしてこの旅役者みたいに眉を描いたオールバックは、レジカウンターのPepeに少し似ている。
太郎の悪い癖であれこれ詮索しながら眺めていると、女の腕が不必要なほど長いのに気づいた。だらりと垂らすとおそらく膝のすぐ上あたりまでくるのではないか。そして右の肘のあたりから手首まで肌色の包帯で覆われている。
オールバックにやられたのか?
「エロ本はなあい?」
くぐもった声に肩越しに振り返ると、白く濁った目をした爺さんがいた。白く濁っているのは頭髪も無精髭も同じだった。ハリウッドの2枚目俳優をどこか彷彿させる顔つきに思いもかけず出会って、太郎は思わず吹き出しそうになる。その顔は高齢のために灰色がかっているけれども不思議に皺はなく、話し方からしても年齢の見当がつかなかった。
脂気のない爺さんはシワだらけの鯉口シャツにカーキ色の、激しく膝が抜けている七分丈のパンツをはいている。
「エロ本わあ……」
爺さんが今度ははっきり太郎に向かって繰り返した。さっきも太郎に話しかけていたのだ。若い女性従業員には聞くのがはずかしくて太郎を捕まえたのだろう。
「探してるんだけどな……」
溜め息まじりに口をついた爺さんの呟きがはっきりと太郎に伝わった。そんなに執着するなら見た目よりは若くて五十代くらいなのだろうか。
「コンビニにアダルトものは置かなくなったはずです」
答える。爺さんの首にも中年カップルの女と同じような太い金色のネックレス。
「『とくせんひとづまでぇ〜えっくす』もないかい?」
しつこく聞いてくる『特選人妻DX』を頭の中でなんとか変換しながら、「たぶん」と答えた。
盛んにカチカチと乾いた音が聞こえる方向を見ると、さっきの幼女が歯を鳴らしている。歯を見せて笑っているようにも見えるが、しかし右の拳は腰の前で硬く握られている。
寒いのかもしれない。熱を出しているのかも。親はどこにいるか話しかけようとしたが、感情のない人形のような瞳に気圧された。どう見ても、いくら子どもとはいえ目が瞳ばかりなのだ。
キジトラが幼女の裸足の足元にうずくまってしきりに床を舐めている。さっき道端で出会った猫とは違う。道端で太郎を冷たく見限ったのは黒猫だったし、あちらの方が太っていた。
猫は油を舐めるのだったろうか? それは化け猫の話か?
太郎は耳鳴りがするような不気味な緊張に侵されはじめていた。客をはじめ、このコンビニエンスストアは明らかにおかしいのだ。
「オレ今日は絶対に終電の一時間前までに上がるから」
「ウチも」
従業員同士の会話が聞こえて、ということは二人とも地元の人間ではないのである。
素晴らしく背の高い女が入ってきた。痩せていて髪の毛は黒くパサパサ、まっすぐに前を向いた首が長い。妙に体を上下させて歩く。
薄青いTシャツの腹が異様に大きく膨らんでいる。妊娠なら前に突き出すと思うのだが、女は腹回りの全体が膨らんでいる。全身で見るとフラスコ型だ。例えば腹水とかいうものが大量に溜まるとこうなるのだろうか。知識のない太郎は頭をかしげる。
こういう姿形のキャラクターがどこかにいたはずだが思い出せない。いや、あまりたくさんい過ぎて太郎の中でまぜこぜになっているのだ。
背の高いフラスコ女はたっぷりした生成りのスカートに踵のないサンダルを履いている。踵のないサンダルを履いてこの背の高さなのだ。スカートの裾はボロボロに破れていて、そのざんばら頭はどこにいても商品の陳列棚の上に確認できる。
いつのまにかフラスコ女とは別の若い女が菓子パンの棚の前で立ちすくんでいる。なぜか顔の左半分が見えない。菓子パンの横にはこれまたなぜか大小の饅頭が大量に並んでいる。
店内が混雑しはじめた。太郎はその全員に目配りをしたくて、ATMが置いてある隅に身を寄せる。
太郎を挟んでATMの反対側にしゃがみこんで酒瓶を次々に大きな青い布製バッグに詰め込んでいる若い男がいる。男は青白いうりざね顔に虚ろな切れ長の目をして、太郎を見ると鼻血を一本滴らせた。
盗むつもりなのだろうか? しかし店の中にいる限り泥棒扱いはできない。逆に突っかかってこられても困る。
……おかしいんだよ。こんなに怪しい連中ばかり集まってくるなんて。
エロ本を探していた爺が売り物のティシューで鼻をかみ、無造作にその場に捨てた。ティシューの箱を抱えたようすは流石にサマになっているけれども、やりたい放題に過ぎる。従業員は注意をしないのか。見て見ぬ振りなのか。ここの店はそういう方針なのか。
弁当のコーナーにたかっている五人ほどのグループが、みなそれぞれ勝手に商品を開けて貪っている。さらにボトル茶を飲み、あろうことかそれでびちゃびちゃと手も洗う。
みんな!!
子どもと青年と少女、そして親らしき中年の男女。弁当コーナーの五人は互いに会話する時間すら惜しむように弁当コーナーに向かって全員ただひたすら黙々と貪り食う。みな三白眼気味の目つき、……よく似た顔をしている。そしてまたみな、着ているもののサイズが合っていない。他の客たちと同じように着古して汚くて不潔そうだ。
しかも忌まわしいことにこのグループが家族の一団だとすると、母親と父親らしき男女がまったく瓜二つなのだ。
不快だ。
太郎は堪らなくなってATMの横から飛び出した。
菓子パンの棚の前の若い女がなにかを口ずさんで体を動かしている。
「警察を呼ぶぞ!! 」
太郎はついに声に出した。しかしなんの反応もない。
レジカウンターでは、Pepeはまた手鏡で自分の目を覗き込み、もう一人はスマートホンをいじっている。残念ながら警察に通報しているようすではない。たぶんゲームだろう。
そのレジカウンターの手前側、端のほうで腕長の女とオールバック男が抱き合っている。腕長女の妙にむちむちした黑ストッキングの脚がむき出しになる。
これはエロ本を探していた爺に教えてやったほうがいいだろうか、と太郎は一瞬、考え悩む。
そうしている間にも客が次々に入ってきては店内をうろつき回り、誰彼構わずぶつかり合い、重なり合い、商品に手を出し、金は払わずに出ていく。
顔認証なのか? そんなわけはない。……こんな馬鹿げたところから早く抜け出して帰りたい。
逃げ出したいのだが、出口につながる通路はすべて異形の客たちに塞がれてしまっている。
そもそも何事が起きているのだろう?
太郎のアタマはすでに停止していて、恐怖が迫ってきて喘ぐような混乱の中でも、どんな異様な事態でも、目の前で起こってしまえばそれはそれでなんとなく現実として受け入れてしまうものなのだなあ、などと無責任な感心の仕方をしている。
早く家に帰りたい!!
菓子パンを品定めしていた片顔の女がカウンターに近づいていく。女が歩くとその後ろをスニーカーがついていく。赤いスニーカーだけがついていく。それはそこに見えないもう一組の女の脚があるようだった。
太郎の背中に戦慄が走り、後頭部の髪の毛が逆立つのがわかった。
呪われている?
ついに恐慌に襲われた太郎は震えながら改めて店内を見渡す。
こいつら全員この世のものではないのではないか?
火事をきっかけにあの世の魑魅魍魎が這い出してきたのかもしれないぞ。
この土地は祟られている。地鎮祭はちゃんとやったのか!!
うっかり迷い込んでしまった自分は無事にこの店の外に出て、現実の世界に戻って家路につけるのだろうか。そしてまたバカ課長に会えるのだろうか。
太郎は目の前に何人もが塞いでいるのも構わず大声を上げ全力で出入り口に突進した。
「出ます!! 出ます!! 出ます!!」
出入り口にたどり着き、自動扉が開ききるのも待たず、薄く開きはじめたその隙間に体を擦りつけて抜け出た。
喉がいっぱいに開いて息が詰まりそうだ。背後で強い風のような叫び声のような鋭い音が聞こえたが、とにかく左右を見回しながら走る。
駐車場を斜めに走り、その角から歩道に飛び出してさらに二、三歩走ってから、太郎はなにかに打たれたように足を止めた。暑く湿った空気がまとわりついた。
太郎はそのまま地面を見つめて動かない。考えごとをしているらしい。
とりあえず逃げ出せた。無事なようだ。
脚が少しガクガクする。膝が曲がったままだが格好悪いなどとはいっていられない。オロオロと背を伸ばして深呼吸をする。
道路を渡って川べりのガードレールに凭れかかかる。飛び出してきたコンビニエンスストアのほうには目をくれず、ただぐったりとうなだれて地面を見つめたまま動かない。
しばらく時間が経ち、遠くから車のクラクションが響いた。ついに太郎は両掌を膝に打ち合わせ、弾みをつけて仁王立ちになり、いましがた飛び出してきたコンビニエンスストアを見つめた。
店はさっきまでの混乱がウソのように静かに佇んでいる。煌々とした明かりの中に、二人の女性従業員以外には誰もいない。
呆然とその光景を眺めていた太郎はやがてかすかに頷き頭を振り、それから店とその周辺に向かってていねいに頭を下げた。
やがて顔を上げた太郎はゆったりとした足取りで自宅に向かって歩きはじめた。雲間に月が出て、その明かりが太郎にも降り注ぎ、くたびれた姿を消した。何事もなかったように。
(了)
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