掌編小説【最終兵器プリンちゃん】





                     四百字詰原稿用紙約6枚

 打ち合わせが終わり、もう遅いので、どこかそのあたりで簡単に何か食べて帰ろうと歩いているうち、思いのほか遠くまで足が伸びた。

 オフィス街からショッピング街、それから歓楽街の端を斜めにかするようにして、小さなマンションやアパート、居酒屋、スナックなどが混在する場末の街に出た。

 もうこれ以上は選り好みできないなと思いながら横を見ると、ちょうど『賽子』と白く抜かれた黒っぽい暖簾が目に入った。

「いらっしゃい」

 ごま塩頭を短く刈り込んだオヤジがひとりカウンターでなにやら作業をしながら迎えてくれ、その手前の2つのテーブル席にも客の姿はない。

 すぐに帰るつもりで4席ある小さなカウンターの端に座り、壁の品書きを見ながらビールと焼売と肉豆腐を注文した。

 もう選り好みできないとはいえ、結局こんなひどく中途半端な店に入ってしまう。しかし私の場合こういうことは往往にしてある。いつもとくに食べたいものがないからこんなことになってしまう。

 たぶんこんなふうに要領を得ないまま人生を終える運命なのだ、私は。

 2段構えになっているカウンターの壁寄り、包丁を使うオヤジの正面あたりに5弁のムクゲが1輪、白い徳利にピンクの花を咲かせている。

 ムクゲの木はどこにでもある。私の実家にもある。開花期には1本にたくさんの花をつけるので賑やかだが、ひとつひとつの花の命は短い。1日くらいですぐに散ってしまう。

 ビールがきた。焼売がきた。

 この店の営業はだいたい夜の10時から午前3時か4時くらいまでだというから、だとすると客は小腹の空いた酔客や仕事上がりの水商売の人たちが多いのだろう。このあたりに住んで歓楽街で働く人もいるはずだ。

 そんなことを考えていてふと思い出した。

「中国人留学生だかなんだかがHIVプラスが判明して、それなら日本人を道連れにしてやろうぜってさかんに風俗に通ってたっていう、そんなニュースがあったけど、あれっていったいどうなんだろうねえ」

 赤白く乾燥した顔つきの、それとはまた別な意味で脂が抜けた感じのオヤジの顔が一瞬曇ったように見えた。

「迷惑な話ですよね」

 オヤジにもビールを勧めた。

「でもさあ、そんなに日本人が憎いのかなあ。もう先が長くないからヤケになって遊ぶっていうのはわかるような気もするけど、いまの20代なわけだからさ、……。道連れを増やそうと人気の嬢を調べて通い詰めるとか、そこまでやるかな。オレなら手取り早く、広く浅くの方がいいな。面倒くさい」

 思いつくままロクでもない冗談話をする。

「だいたいそうでしょうね」

 オヤジも淡々と賛同する。肉豆腐がきた。

「破壊工作だったりして、政府の」

「それをやらせるなら女でしょう。まあ、そんなことはやらないでしょうけど」

 ひと呼吸おいていった。

 オヤジがちょっと俯いたので黙ってビールを継ぎ足した。

「……、でも結局同じことなんじゃないのかな、女でも男でも。風俗店を起点に流行らそうとするなら、そこの誰かがキャリアになればいいわけだから」

 俯いたままのオヤジが独りごとのように返す。

「……、ゴムを使わない客は嫌われます。嫌われる前に遊べないところのほうが多いんでしょうか。よくわかりませんけど。逆にゴムを使わなくてもやらせる女は人気が出る、……」


 あ、そうか。世情に疎いことがバレてしまった。

「いまはエイズもそんな怖い病気じゃなくなっているようですし、だからってザワザワしているという話も入ってきませんけどね」

 この話はこれで打ち切りというように声の調子を変えていい、ビールグラスを空けると、オヤジはまたすぐ何かの仕込み作業に取りかかった。

「ここにもそういう関係のお客さんはくるんでしょう」

 自分でも厚かましいことを聞く。

「いえ、こんな店だから若い娘はきません」

 うわべの雰囲気とは裏腹にオヤジは何か話したそうでもあった。

「……、ちょっと前までは賑やかだったんですけどね。まだコロナ前の話ですけど」

 聞くとひとりの常連の女の子がいて、その娘が店の同僚を連れてきたり、また気さくで明るい振る舞いのその娘を目当てにやってくる客も意外なほど多くて、未明のこの店は賑やかだったらしい。

「プリンちゃん、なんていってみんなのアイドルでしたよ。可愛くてアタマのいい、回転の早い娘でね」

 昔を懐かしんだオヤジは寂しげな表情になった。

 本名も年齢も出身もわからない、友達も家族もいないらしいプリンちゃんは、そしてある日、忽然と姿を消した。

 まだ20歳そこそこだったんじゃないか、とオヤジはいう。

「いまにもそこの戸を開けて入ってくるような気がします」

 よくありそうな話だな、と思いつつ調子を合わせた。

「プリンちゃんはどこへいったんだろう」

「……、あのころ、この近辺で火事がいくつもありましたから。調べてみたら。……、だからたぶんそれで焼け死んだんじゃないかと、……」

 もしオヤジのいうことが事実だとすれば、なんとなく不穏な感じが漂ってくる。

「そういう、いい娘に限って儚いんだよなあ」

 目の前の、けっこうな過去を抱えていそうなオヤジにはまったく似合わない可憐なムクゲの花の意味がわかったような気がした。

 それから黙々と焼き魚を片付け、店を出ようとする私にオヤジが後ろから

「この店はもういつ畳んでもいいんですけど」

 と声をかけた。

「店を開けていれば前を通りかかる誰かがプリンちゃんのことを思い出してくれるかもしれないと思ったりしまして」

 そうだよな、ちょっと滑稽だけどプリンちゃんと呼ぶしかないんだよな。

「知らない土地で誰の思い出にも残らず、弔われもしないままではあんまり寂しいからね」

 振り返って改めて小さく辞儀をし、暖簾から首を出した私は空を見上げ、芝居がかった深呼吸をして、また歩きはじめた。





                             (了)





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